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早稲田出身の学長・総長【第2回】

第4代総長・田中穂積

大学史資料センター 講師(任期付) 廣木 尚(ひろき・たかし)

田中穂積(1930年頃)

「ラストゲーム」

映画『ラストゲーム 最後の早慶戦』

1943年10月16日の早慶壮行野球試合、いわゆる「最後の早慶戦」を題材にした映画『ラストゲーム 最後の早慶戦』(監督・神山征二郎、2008年公開)では、早慶両校のトップが対照的な姿で描かれている。

戦地へ赴く学生たちの希望を叶(かな)えようと、政府との対立も辞さず早慶戦の実現に奔走する石坂浩二演じる慶応義塾の小泉信三塾長。それに対し、藤田まこと扮(ふん)する早稲田の田中穂積総長(1876~1944)は、時局柄、不穏当だとして開催に反対する。試合当日、用意された貴賓席を断り、一般席に陣取った小泉塾長が、学生と共に観戦するその会場にも、田中総長は最後まで姿を見せない。

細部の相違や脚色はあるにせよ、ここに描かれた両校の対応はおおむね事実と言って良い。鑑賞者の目には無理解、事なかれ主義とも見える田中穂積総長。その姿勢の背後には何があったのだろうか。

大学運営の重責を担う

田中穂積は1876年、長野県更級郡川柳村(現・長野市)に生まれた。旧制・松本中学に進んだものの、病に冒され中退。療養中、東京専門学校講義録で独学したことがきっかけで、1895年、東京専門学校(後の早稲田大学)邦語政治科に編入した。卒業後、『東京日日新聞』記者、東京専門学校研究科を経て、1901年から1903年まで東京専門学校の派遣留学生として米英に留学。経済・財政を専攻して学位を取得すると、帰国の翌年、早大講師に就任した。

早大在職中の田中は、教育・研究に従事する傍ら、大学経営にも力を発揮した。商科長、商学部長、維持員、理事等を歴任した後、1923年からは常務理事として高田早苗総長の下で手腕を揮(ふる)った。そして、1931年6月、高田の後を承(う)け、第4代総長となったのである。

1913年の早大維持員会(左列一番手前が田中穂積。他に大隈重信・高田早苗・天野為之・坪内雄蔵・市島謙吉・島村抱月ら)

田中穂積の総長在任期間は1931年6月から1944年8月まで足掛け14年に及ぶ。総長としては初代・大隈重信に次ぐ長さである。その間、多くの事業を手掛けたが、中でも特筆されるのが、創立50周年を機に着手した大学施設の木造から鉄筋コンクリート造への改築事業である。関東大震災の経験からキャンパスの不燃化は急務だったが、多額の費用を必要とするこの難題を、田中は持ち前の経営手腕で成し遂げた。もっとも、「学部からの提案があれば、直ちに卓の抽斗から算盤を出して弾いた上で、即座に諾否を回答した」と伝わる田中の卓越した事務能力は、「冷酷な性格の所有者」との印象を生み、一部の反感を買うことにもなった(注1) 。

弾圧の時代の中で

他方、田中の在任期間は満州事変からアジア・太平洋戦争に至る戦争の時代にそのまま重なる。1920年代、多様な政治運動が展開され、デモクラシーの根拠地ともなった早大は、戦時統制下では政府の危険視するところとなり、田中は難しい舵(かじ)取りを迫られた。

文学部教授・津田左右吉の古代史研究をめぐって発生したいわゆる「津田事件」の際、田中は津田、吉江喬松文学部長らと協議を重ね、結果、1940年1月、津田は起訴を待たずに早大を辞職した。その翌年、同じく文学部教授の京口元吉が、警視庁から「自由主義的容疑」をかけられた時も(注2) 、田中は京口に辞表提出を促した。津田も京口も身に降りかかった嫌疑に憤慨したが、「善処」を求める田中に説得され、「学校ガ非常ニ窮地ニ陥ル」(津田)ことを憚(はばか)って、身を引いたのだった (注3)。

橋田文相より田中総長宛の通達(『早稲田大学本部書類(続)』1942年3月30日付、部分。早稲田大学大学史資料センター所蔵)

他にも、この時期、帆足理一郎、西村真次、島田賢平ら多くの教員が、政府から思想・研究内容を問題視され、あるいは摘発された。その際、田中は弾圧に抵抗し、彼らの名誉を守る姿勢をほとんど示していないように見える。しかし、津田事件の公判終了後、橋田邦彦文相より田中に宛て、「平素監督並ニ訓育宜シキヲ得ザリシ」として「教職員ノ指導監督、学生ノ練成指導ニ力ヲ煩シ其ノ職務遂行ニ遺憾ナキヲ期スベキ」との戒告が発せられているように、早大存続の危機を肌で感じる立場にあったのが田中だった。

戸塚道場での出陣学徒壮行会の様子。中央壇上に田中穂積。1941年、安部球場は戸塚道場と改称された。

1943年10月、在学徴集延期臨時特例が公布、いわゆる学徒出陣が実施される。同月15日、戸塚道場(旧・安部球場)で開催された出陣学徒壮行会で、田中は「今こそ諸君がペンを捨てて剣を取るべき時期が到来した」「勇士は出陣に当つて固より生還は期すべきでない」と訓示したとされる(注4) 。翌日には「最後の早慶戦」が開かれる、その会場での出来事である。

本心のありか

大学の最高責任者が自校の学生に対し「生きて帰るな」と述べる。それは教育機関にとって自己否定ともいえる事態である。ただし、この時の田中の発言については、次のような証言も残されている。出陣学徒であった柴崎信緒氏(専門部法律科卒)は、田中が「早稲田大学は諸君を社会人として世に送り出すのが目的である。諸君らは軍隊に行くとしても必ず生還して社会に貢献してほしい」と述べたと証言しているのである(注5) 。活字化された訓示とは相反する内容だが、同様の証言は他にも報告されており(注6)、官憲の目の届かないところでは、田中はそのように語ったのかもしれない。

1944年8月22日、田中穂積は肺壊疽(えそ)のため総長在任のままこの世を去った。

翌年5月25日から26日にかけて、死者3600人以上を出した「山の手大空襲」では、早大の在学生からも犠牲者が出たほか、理工学部校舎や大隈会館等が全焼するなど甚大な被害が発生した。しかし、多くの貴重書を有するコンクリート造の図書館は延焼を免れた。その時のことを、後に第9代総長となる時子山常三郎は「トッサに生前たいへんな苦労をしてコンクリート建てに努力された田中総長に感謝の気持でいっぱいになった」と回想している(注7) 。教育者として、経営者として、困難な時代の大学運営を担った田中穂積総長。その歴史的評価を定めるには、いまだ検討すべき多くの課題が残されている。

注1)『早稲田大学百年史』第4巻、7頁。
注2)「教員ノ解職並ニ再任用ニ関スル件」(『早稲田大学本部書類(続)』1946年2月21日)、早稲田大学大学史資料センター所蔵
注3)『現代史資料』第42巻(みすず書房、1976年)928頁。
注4)田中「出陣学徒に与ふ」(『早稲田学報』第591号、1944年)。
注5)柴崎(聞き取り・望月雅士)「私の戦争体験」(『早稲田大学史記要』第46巻、2015年)109頁。
注6)真辺将之「東京専門学校と「早稲田精神」」(中野目徹編『近代日本の思想をさぐる』吉川弘文館、2018年)103-104頁。
注7)時子山『早稲田生活半世紀』(早稲田大学出版部、1973年)139頁。

早稲田出身の学長・総長【第1回】

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