原テキストの視覚的な特徴を翻訳でも表現する。福永信著「この世の、ほとんどすべてのことを」を英訳したマイケル・エメリックさんに聞く<span class=――"> 原テキストの視覚的な特徴を翻訳でも表現する。福永信著「この世の、ほとんどすべてのことを」を英訳したマイケル・エメリックさんに聞く<span class=――">

原テキストの視覚的な特徴を翻訳でも表現する。福永信著「この世の、ほとんどすべてのことを」を英訳したマイケル・エメリックさんに聞く――

聞き手:デビッド・ボイド&辛島デイヴィッド
邦訳:上田麻由子

実験的な作風で知られる福永信の短編「この世の、ほとんどすべてのことを」は、2011年5月の『早稲田文学』ウェブサイトが初出で、「東日本大震災チャリティ・プログラム」の一環として、英訳版とともに発表された。川端康成から吉本ばななや古川日出男まで、幅広く日本文学の英訳に携わるマイケル・エメリックさんに「訳文における語り手の定め方」や「書体を用いた遊び」など、実験的な作品を訳す際の様々な工夫について聞いてみた。

Q. 「この世の、ほとんどすべてのことを」は、もともと2011年に『早稲田文学』の東日本大地震チャリティ・プログラムの一環として発表されたものですね。このプログラムについて少し教えてください。そのときの経験は、他の翻訳とは違うものでしたか? 翻訳への取り組み方や、その読まれ方に何か影響があったと思いますか。

「東日本大震災チャリティ・プログラム」は東北で地震や津波が発生し、原発事故が起こった直後に立ち上げられたものです。『早稲田文学』が15人の作家に物語を依頼し、10人の翻訳者がそれを英語に訳しました。日本語の原文と英訳いずれもがPDFで無償公開され、3つの災害によって日々の暮らしに大打撃を受けた人たちを支援するため、日本赤十字社をはじめとする慈善団体への寄付が読者に呼びかけられました。
もちろん、このような状況のなかでの翻訳でしたので、いままでにない経験になりました。訳文がPDFとして公開されることが、事前にわかっていたという点でも特殊でした。デジタルの形でしか流通しないものを翻訳するのも初めてでした――実際には1冊の本としてまとめられることになったとどこかで聞いたように記憶していますが。私の訳す「この世の、ほとんどすべてのことを」がそのように迅速かつカジュアルな形態で、活字を組む人やブックデザイナーを介さずに公開されることがわかっていたので、訳文の視覚的な面、とりわけフォントについてある程度の裁量が私に与えられました。普通なら、統一されたデザインのアンソロジーのなかに “Almost Everything in the World”( 「この世の、ほとんどすべてのことを」の英訳)のようなスタイルのテキストを入れるよう、編集者を説得するのは大変だと思います。チャリティー出版だからこそできたことなのではないでしょうか。

Q. 翻訳者は普通フォントのことまで考えたりしませんが、今回の翻訳ではフォントがすごく重要な役割を果たしていますね。福永さんの作品にこのような形で対処することにされた経緯を教えてください。

この物語のなかの日本語には漢字がとても少なく、でてくる漢字もほとんどが小学校で習うものばかりです。全体的にひらがなが中心になっていて、それが言葉選びや句読点の多さとあいまって、この物語は子どもが語っている――より正確に言えば子どもが書いて、、、いる、という印象を目を介してたちどころに読む人に与える。だから子どもの手書き文字を模したフォント(実際はタイトルには本文とは違う書体が使われているので、2種類のフォント)を用いてはどうかと提案しました。当然、英語になった時点でひらがなや漢字から受ける印象は消えてしまうので、それがきわめて明快で素直なやり方に思えたのです。日本語のテキストの視覚的な特徴を、翻訳でも視覚的にあらわしたかったので。もちろん、フォント選びは原文の日本語の「子どもっぽい」質感を再現するための要素のひとつにすぎません。つづりや言葉遣い、リズムにも工夫を凝らしました。ただ、文字による効果を真似するだけでなく、その効果を得るうえでの方法も真似することが重要だと――少なくともおもしろいと私は思いました。このフォントを使えばそれができると考えたのです。
ただ、フォントの選択については、おもしろい点がひとつあります。断言はできませんが、手書き風のフォントを使うと決めたときには、「この世の、ほとんどすべてのことを」がPDFファイルとしてデジタルで流通する予定だということを私はかなり念頭に置いていました。テキストそのものは物質世界からほとんど抽象化されたところに存在しているのに、そのなかで子どもの手書き文字というゆるい物質性にしがみついている短編小説、というアイデアの矛盾に私は惹かれたんでしょうね。本当のことを言うと、この対比自体が福永信の小説の美学のとても面白い翻訳になっていると思います。
英語で使ったフォントが日本語の視覚的特徴をビジュアルとして反映しているいっぽうで、そうする際に物語が子どもによって書かれた、、、、だけでなく子どもの手で書かれた、、、、、、ことをほのめかすという、日本語の原文にない手段を用いている点に注目してみても面白いでしょう。英語のやや過剰な口語性によって、これとは正反対の効果がいくぶんもたらされてはいますが。

Q. これと似たような書体の遊びを取り入れた物語をほかにご存じですか? そこから何かインスピレーションを得ましたか?

書体や、もっと広い意味での文書の物質的・視覚的要素を使って面白いことをしているテキストはたくさんあります。ブックデザイナーが1冊の本のために特定の書体を選ぶとき、いくぶん繊細なやり方ではありますが、つねに何かを、、、成し遂げようとしているといえるかもしれません(普通は著者や翻訳者がそのようなことをしたりはしませんが)。レイモン・クノーの有名な『文体練習』に「(ロベール・)マッサンによる99の字体練習」が付された本を持っていますが、そのある箇所で「女性的なフェミナン」は青のインクの手書きになっています。ただ、原文のテキストのなんらかの要素を翻訳するために、あえて特定の書体を使った翻訳の例はこれ以外には思いつきませんし、書体上の実験をしている既存の作品に触発されたということもありません。福永信の日本語に触発された――ただそれだけです。

Q. 物語の語り手は子どもであると想像していましたか? それとも大人ですか? あるいは別の何かでしょうか?

一言では答えられない質問ですね。少し無理のある読み方ではあると思いますが、これが人工知能とか、カズオ・イシグロの『わたしを離さないで』にでてくるようなクローンの若者によって語られていると思って読んでみるのはどうでしょうか。ただ、そのような思弁的な読み方はひとまず措くとして、日本語で書かれた文章の質感はたしかに語り手が子どもであることを示唆していると思います。ただ、その示唆そのものにどれだけ私たちが注意を払うべきかについては少々疑問が残ります。つまり、たしかに子どもが語り手であるかのように読めるいっぽうで、大人が子どもの文章を真似しているようにも読めるし、子どもの真似をする大人を真似した子どもが語っているようにすら読める。日本語の特性を生かして、ひらがなと漢字を交互に登場させていることで――全体的には子どもっぽい印象を受ける文章のなかに、時々これ見よがしといっていいほど難解な漢字(小学校の教科書には絶対にでてこないようなもの)を混ぜたりできるので――語り手の年齢をいっそう曖昧に、わかりにくくしているように思います。そういう意味では、英語への翻訳にはそこまでの柔軟性はありません。子どもっぽいフォントを使うと一度決めたら、最初から最後までそのフォントを使いつづけなければならないからです。

Q. 英語版ではスペルミスも重要な役割を果たしています。これによって原文のどんな要素が伝わるのでしょうか?

簡単に言えば、訳文におけるスペルミスは、ひらがなが多用された日本語の原文が持っている子どもっぽい雰囲気を再現するためのさまざまな工夫のひとつです。一般的にひらがなが目立ち、最小限の漢字しか使われていない文章は、次の3つのうちのどれかです。(1)子どもが書いたもの、(2)子どものために書かれたもの、(3)駅名を伝える駅の看板。いや、考えてみれば、もうひとつの可能性としてこういうのもあるかもしれません―― (4)壁や店の窓に貼ってある選挙ポスターの政治家の名前。「この世の、ほとんどすべてのことを」の場合、(1)の可能性が高いでしょうね。このことを伝えるために、書体の選択とあわせてスペルミスを用いているのです。ただ、書体の選択は、日本語の原文における「子どもっぽい」雰囲気の伝え方を模倣しようとして行ったのですが(視覚的特徴を用いて、視覚的特徴の効果を再現したのです)、スペルミスは日本語そのものの「子どもっぽい」雰囲気に近いものを英語で作りだすために用いています。私がテキストのなかに散りばめたようなスペルミスは(実はなんとも人為的なもので、妙に論理的な矛盾があるのですが)ある特定の教育レベル、つまり小学校のある特定の学年を想定したもので、日本語の原文におけるひらがなの多用と同じようなものなのです。
ただ正直に言って、スペルミスにはもっと大きな意味があると思います――子どもっぽい感じを醸しだしたり、あるいは大人が子どもっぽさを装ったりしているということを仄めかすためのものだけではないと。英訳をいま読み返してみると、スペルミスはこの文章の一見口語的なところと、なによりも書体の選択によってあらわされる書かれたものである、、、、、、、、、という事実とのあいだの緊張関係を、さりげなく示しているように思えます。それによって、テキストがふたつの対照的な衝動によって引き裂かれているような感覚が生まれている。これは、スペルミスの矛盾によってもたらされているのだと思います。なぜなら、テキストの大部分には一貫してスペルミスがありますが、いくつか例外があって、なかには読者が文章を誤読する可能性を排除するため明らかに意図的に調整されたところもあるからです。このような用心深いスペルの修正のなかに、大人の意識、つまり書かれたものとしてのテキストを微調整する編集者の手を私たちは感じとります。同じことが、書かれた文字の形が微妙に変わっているところについても言えます。たとえば大きい「バタン」には太字が使われ、小さい「パタン」には小さな文字が使われているところなどはそうです。

Q. 野球のシーンで、ひらがなで書かれた「かんぱい」という言葉には意味が2つあります。英語では韻を踏んで(「負けたサンク」と「酔ったドランク」)これに対処していますね。なぜこういう選択をしたのか教えていただけますか?

日本語の原文では最初の「かんぱい」は「完敗」、二つ目は「乾杯」を意味します。英訳では、チームメンバーのひとりが「この試合のことは忘れよう。もうだめだ! 負けだサンク!」と大声で言います。それに対して赤ら顔をした、コーチと思しき男が「おれは負けてサンクない! 酔っぱらったドランクだけだ!」と叫び返します。日本語では完璧な同音異義語になっているので、英語でもなるべくそれに近づけようとしましたが、完璧というわけにはいきませんでした。ただ大事なのは、手書き風の書体で日本語の「子どもっぽさ」を視覚的に伝える方法、、を選んだのと同様、コーチが試合や自分のチームに対してまったく無関心であるのが日本語では音で表現されているのを踏まえ、韻(または部分的な同音異義語)を使って、その方法、、を再現しようと試みたわけです。

マイケル・エメリック
カリフォルニア大学ロサンゼルス校教授。Tadashi Yanai Professor of Japanese Literature。川端康成、井上靖、吉本ばなな、川上弘美、古川日出男などの作品を翻訳している。著書に『The Tale of Genji: Translation, Canonization, and World Literature』、『てんてこまい――文学は日暮れて道遠し』。

デビッド・ボイド
ノースカロライナ大学シャーロット校助教授。小山田浩子や川上未映子の作品をはじめ、日本文学の英訳多数。古川日出男『二〇〇二年のスロウ・ボート 』の英訳(『Slow Boat』)で日米友好基金文学翻訳賞。

辛島デイヴィッド
早稲田大学国際学術院准教授。訳書に『Snakes and Earrings』(金原ひとみ著『蛇にピアス』)、『Triangle』(松浦寿輝著『巴』)など。近著に『Haruki Murakamiを読んでいるときに我々が読んでいる者たち』、『文芸ピープル:「好き」を仕事にする人々』。

上田麻由子
上智大学言語教育センター非常勤講師。訳書にサンドラ・スター『ジョゼフ・コーネル 水晶の籠』、ヘレン・オイェイェミ「ケンブリッジ大学地味子団」(『覚醒するシスターフッド』)など。著書に『2・5次元クロニクル2017-2020 ――合わせ鏡のプラネタリウム』など。

参考文献
・福永信「この世の、ほとんどすべてのことを」(『早稲田文学 記録増刊 震災とフィクションの“距離” 』早稲田文学会、2012年、所収)
・Michael Emmerich, trans. “Almost Everything in the World,” by Shin Fukunaga.(同上書、所収)
・福永信『三姉妹とその友達』講談社、2013年

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