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エキゾチシズムに陥らず、腑に落ちる翻訳を目指すための心得。多和田葉子著『献灯使』を英訳したマーガレット満谷さんに聞く――

聞き手:デビッド・ボイド&辛島デイヴィッド
邦訳:小磯洋光

多和田葉子の「献灯使」は、「群像」の2014年8月号に発表され、同年10月に短篇4篇とともに単行本化(『献灯使』)された。東日本大震災に触発された『献灯使』収録作品の多くは、タイムリーに翻訳され、海外でも注目を集めた。「不死の島」の英訳(マーガレット満谷訳)は、2012年に震災後に書かれた作品を集めた『March Was Made of Yarn: Reflections on the Japanese Earthquake, Tsunami, and Nuclear Meltdown』に収録され、「彼岸」の英訳(ジェフリー・アングルズ訳)は、2015年に文芸誌『Words Without Borders』に掲載された。マーガレット満谷による『献灯使』の英訳は、2018年に英米で刊行され、全米図書賞の翻訳文学部門を受賞した。

Q. 『献灯使』の英訳はアメリカとイギリスで書名が異なっています。アメリカでは『The Emissary』、イギリスでは『The Last Children of Tokyo』です。この点についてお聞かせください。

書名が2種類あるのは、イギリスの出版社が(アメリカの出版社がつけた)『The Emissary』という書名を気に入らなかったからです。原題は『献灯使』です。7世紀に日本が唐に派遣した使節を示しています。ただ、多和田さんは “The Light Bearers “(光を運ぶ者たち)に近い意味の漢字を当てています。私はイギリスの出版社に”The Light Bearers”も提案したんですが、最終的に『The Last Children of Tokyo 』に決まりました。多和田さんは、私ならそういう書名にしないと思うけど、作品は出版されたら自分のものじゃなくなるので、それで構いませんって言っていました。確かに『The Last Children of Tokyo』だと『The Last Samurai 』や『The Last Rose of Summer 』などを連想しますよね。つまり、”Last”が付いた書名だと、ノスタルジーというか、『The Emissary』の雰囲気にあまり関係ない感傷的な感じが出てしまいます。

Q. 言葉遊びはこの本の柱です。多和田さんの作品の言葉遊びをどうお考えですか? 多和田さんの作品を訳していて、どんなときに「正解がわかった」と思いますか?

「正解がわかった」という表現はどうなんでしょうね。それだと、「正しい」答えはひとつだと言ってるように聞こえますけど、そういうものはありません。作品は訳し方でどうしても変わりますし、言葉遊びはその最たるものです。原文の意味をただ訳してもうまくいきませんからね。原文の面白さを残せた例を一つ挙げるなら、東京を魅力的にする「東京の特産物」を探すくだりです。「茗荷」と「蓼」を使った連想があります。ある男が、茗荷を広めていたために茗荷博士として知られるようになるんですが、すぐに忘れられてしまいます。多和田さんは、彼の名前の上にみるみるうちに「忘却草」が生えたと書いています。「忘却草」は多和田さんが考えた植物で、直訳すると“grass of forgetting”のようになります。もちろん“forget-me-not”(勿忘草)のもじりです。翻訳でもそれと似た造語の植物名がいいと思って“forget-me-knotweeds”にしました。これは、“forget-me-not”に、自生して物を覆う草の“weeds”を合わせた名前です。“knotweed”は蓼(smartweed)と同じ科の植物の英名です。谷崎潤一郎の小説『蓼食う虫』の英語版の書名『Some Prefer Nettles』では、「蓼」をうまく“nettle”(イラクサ)に訳していますね。他に、意味をすっかり変えた例を挙げると、無名の乳歯が一度に抜け落ちた後の歯医者でのシーン。義郎が「欠ける」と言おうとすると抑揚が「書ける」に似てしまいます。かつて小説家だったせいです。英訳では、義郎は「Fall out」(欠ける)と呟きますが「fallout」(核の放射性降下物)に間違えられたくないと思っています。私はこの場面を義郎の職業にではなく、小説内の環境に広まる汚染に絡めました。

Q. 「駆け落ち」の言葉遊びを “lope” と“elope”を使って見事に訳されています。

使われなくなった言葉や使ってはいけない言葉というものが、この小説の重要なテーマになっています。この箇所では、外来語であるため使われなくなった「ジョギング」(jogging)が「駆け落ち」(elope)に置き換えられています。日本の読者はその意味がわかるので補足する必要はありません。ありがたいことに、英語の “elope “には、「ゆっくり走る」という意味の “lope “が入っているので、”jogging “の代用になるかもしれないと思いました。でも補足が必要でした。そこで私は、“lope”に“e”が足されて“elope”になると、若い女性が恋人と梯子を降りて逃げていく姿が見えるようになる、ということを加えました。これは欧米の読者にとって一般的な駆け落ちのイメージだと思います。

Q. 本の冒頭に言葉遊びに関する脚注があります。この本で唯一の脚注(「made」について)ですね。なぜ脚注を入れることになったのでしょうか? 翻訳に脚注を加えることをどう思いますか?どんな時に妥当で、どんな時に必要なのでしょうか?

この小説に登場する若い世代は英語を勉強しなくなった人たちなので、「Made in Japan」というラベルの「made」を「まで」と読みます。この翻訳の本文ではそれを伝えられないと思って、脚注で解説しました。実はもう一つ脚注はあります。義郎の孫の飛藻が「買う。打つ。飲む。」と言う場面です。日本の読者なら、この3つの動詞が「売春、ギャンブル、飲酒」のことだと文脈からわかると思いますが、これも翻訳で伝えるのは無理でした。脚注を二つ付けた翻訳原稿をニュー・ディレクションズ社に送ったんですが、編集者はどちらについても何も言いませんでした。気にならなかったんでしょう。たいてい英語圏の出版社は「一般読者」(それが誰であれ)向けの作品には脚注をつけたがらないんですが、脚注があちこちにあったらどうしてだめなんでしょうね。脚注が煩わしいことはあります。例えば、ペンギン版の『ガリバー旅行記』には長ったらしい脚注があるんです。リリパット人の体型からすると、あの声帯では人間に聞こえる音は出せなかったと思われるので、ガリバーにはリリパット人の声が聞こえなかっただろう、という解説が書かれています。(カート・ヴォネガットは、エッセイの中でペンギン版『ガリバー旅行記』の脚注をからかっています。)でも、簡潔で読書の助けになる脚注に読者が反対するとは思いません。

Q. この本では名前も重要ですね。もちろん「無名」という名前も。登場人物の名前はどう対処しましたか?

漢字には意味があるので、その意味を英語に「翻訳」したくなるものなんだと思います。19世紀にピエール・ロティが『お菊さん』を、あるいは、ジョン・ルーサー・ロングが『蝶々夫人』を書いたように。もう少し新しい例だと、ジョン・レノンが「ジュリア」という曲の中でオノ・ヨーコを「オーシャン・チャイルド」と呼んでいて、とても素敵だと思います。でもこの手の翻訳はやりすぎると、なんとなく安っぽいエキゾチシズムに陥りますね。だから「無名」はそのまま「Mumei」にしています。幸いなことに、ある場面で義郎が飛藻に名前の意味を伝えるので、日本の読者が「無名」という文字を見てパッと理解することを、英語の読者は理解できるようになります。義郎の娘の名前「天南」には「南」という字が使われています。天南はやがて沖縄に行くことになるのでこの「南」は暗示的ですが、私は「Amane」と書きました。多和田さんの『飛魂』という小説では、どの登場人物にも変わった組み合わせの漢字の名前が付いている上に、ふりがながないので、日本の読者でも戸惑うかもしれません。もし私が『飛魂』を翻訳するとしても、名前をどう対処したらいいかちょっとわかりません。

Q. この本は2018年に全米図書賞を受賞するなど、満谷さんの翻訳によってとても注目を集めました。英語圏の読者に響いた理由は何だと思いますか?

『The Emissary』は2018年に全米図書賞の翻訳文学部門を受賞しました。この部門は1980年代に中止になったので、久しぶりの受賞作です。翻訳文学部門が1980年代に中止になった理由も2018年に復活した理由もわかりませんが、復活させたことを、トランプ時代の外国人排斥に対するある種の反動だと思いたいです。その点で、アジア人女性の小説に賞が与えられたことは、とりわけ大きな意味があります。

多和田さんは村上春樹さんほどのベストセラー作家になったりしないでしょうが、言語そのものに興味を持つ読者のうち、英語圏でファン層を開拓しているみたいです。そういう読者は、ウィットや、メタファーの使い方など、多和田さんの作風に魅力を感じているようです。『The Emissary』の言葉の問題は書評で何度も扱われ、言葉の寿命が短くなっていることや、元小説家の義郎はさながら失われた言葉の貯蔵庫で、そこには外来語だという理由でほとんど廃れてしまった言葉もあることが論じられました。それに、日本語の原書が出版されたのが2014年だったので、この作品の日本がとった「鎖国政策」は予見的だったと思います。ハンガリー、ポーランド、トルコ、ブラジルといった多くの国でポピュリストやナショナリスト政権が生まれましたし、2016年にはアメリカでトランプが当選しましたからね。アメリカには新しい大統領が誕生しましたが、こうした国々の多くは『The Emissary』の日本のように今も閉じているように思えます。あと、驚くことじゃありませんが、この小説を2011年の福島原発事故とつなげて考える読者がかなりいました。そもそも多和田さんはあの事故が起きたからこの小説を書いたんだと思います。原発事故によって、さらに気候変動によって環境汚染が起きている点も、海外の読者の心に響いたんです。とはいえ、『The Emissary』はジョージ・オーウェルの『1984年』とは違い、どこまでも暗澹としたディストピア小説というわけではないんです。義郎と無名の愛の絆が微かに希望の光を放ちますし、作中に漂うユーモアのおかげでそこまで陰鬱になりません。ガーディアン紙の書評家はこの作品を「唯一無二のディストピア小説」と評しています。

マーガレット満谷
米国、ペンシルバニア州出身。1970年代後半から日本在住。東京大学大学院比較文学比較文化修士課程修了。現在、共立女子大学名誉教授。多和田葉子、角田光代、大江健三郎などの作品を英訳している。2018年に、多和田葉子著『献灯使』の英訳で全米図書賞(翻訳文学部門)を受賞。

デビッド・ボイド
ノースカロライナ大学シャーロット校助教授。小山田浩子や川上未映子の作品をはじめ、日本文学の英訳多数。古川日出男『二〇〇二年のスロウ・ボート 』の英訳(『Slow Boat』)で日米友好基金文学翻訳賞。

辛島デイヴィッド
早稲田大学国際学術院准教授。訳書に『Snakes and Earrings』(金原ひとみ著『蛇にピアス』)、『Triangle』(松浦寿輝著『巴』)など。近著に『Haruki Murakamiを読んでいるときに我々が読んでいる者たち』、『文芸ピープル:「好き」を仕事にする人々』。

小磯洋光
翻訳家。イースト・アングリア大学大学院で文芸翻訳や詩を学ぶ。英語圏の文学作品の翻訳のほか、日本文学の日英翻訳にも携わる。訳書にテジュ・コール『オープン・シティ』、グレイソン・ペリー『男らしさの終焉』など。

参考文献
・多和田葉子『献灯使』講談社、2014年(講談社文庫、2017年)

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