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色彩豊かなご近所物語? 川上弘美著『このあたりの人たち』を英訳したテッド・グーセンさんに聞く――

聞き手:デビッド・ボイド&辛島デイヴィッド
邦訳:上田麻由子

2010年に『真鶴』の英訳(『Manazuru』マイケル・エメリック訳)が刊行されて以来、英語圏の翻訳家や読者から熱い視線を注がれ続けてきた川上弘美作品。『センセイの鞄』(『The Briefcase』/『Strange Weather in Tokyo』、ともにアリソン・マーキン・パウエル訳)はベストセラーになり、2017年に芥川賞受賞作『蛇を踏む』の英訳が刊行されると(『Record of a Night Too Brief』、ルーシー・ノース訳)、それまで英語圏で刊行されてきた作品とは異なる作風がファンのあいだで話題に。2020年に文芸誌『monkey business』(現『MONKEY』)の英語版で発表された掌編を集めた『People From My Neighborhood』(邦題『このあたりの人たち』)を翻訳したテッド・グーセンさんに「ひとつのシリーズに長年かかわることの喜び」、「シンプルな文体が物語に宿す力」、「擬態語や標準語ではない日本語の訳し方」などについて聞いてみた。

Q. グーセンさんは、何年もかけて、ここに本としてまとまったいくつもの物語を翻訳されていますね。こういうプロジェクトと共に生きるのはどんな感じがするものでしょうか? 翻訳に戻って、また「このあたり」に足を踏み入れるときどんな感じがしますか?

川上弘美さんの『このあたりの人たち』を訳しはじめたのはもう10年以上前のことで、最初は『monkey business』英語版、いまはただの『MONKEY』英語版になりましたが、私が柴田元幸さんとメグ・テイラーさんとで共同編集している年刊の文芸誌に翻訳を掲載してきました。自分でも驚くんですが『MONKEY』はまだ続いていて、いま第9号を作っているところです。ほぼ毎号に、川上さんのこの現在進行形のシリーズから少なくとも2篇訳してきました。この作品は1冊の本としてまとまってからもまだ続いています。つまり、いつか第2巻がでるかもしれません!

タイトルの「このあたり」を「ご近所ネイバーフッド」という英語に訳した理由を訊かれたことがあります。それはおそらくわたしたちの多くが、ここにでてくる登場人物たちにどこか見覚えがあると感じるからだと思います。変なことがたくさん起こりますが、それと同時にどこか本物のご近所の話のようにも思える。だからこの言葉を選んだんです。
「ご近所に立ち寄る」ようになって10年以上経ったいまは、自分もそこの一員になったような気がします。じっさい、最新の物語を訳すために私は毎年ここに「帰って」きている。古い友だちと会って最新の噂話を仕入れるような感じがするときもあれば、まったく予想外のことが起こるときもあります。読んでいても訳していても楽しいし、川上さん自身も楽しんで書いているように思います。この調子でぜひ書き続けてほしいですね!

Q. それぞれの物語に固有の「声」がありますか? それとも全体を通してひとつの「声」があるのでしょうか?(たとえば「事務室」と「ライバル」の「声」に違いはありますか? E・B・ホワイトが言った文体の「清潔さ」のようなものが)

川上さんは固有の文体を持っていて、それは作品ごとに変わることがあります。『このあたりの人たち』は一見、シンプルな言葉で書かれています。しかしじっさいは、そのシンプルな書き方のおかげで、物語に特別な力が宿っているのです。モデルにした英語の作品は特にないと思っていましたが、ひとつだけ関係ありそうなのはE・B・ホワイトによる児童文学の古典『シャーロットのおくりもの』です。この1年、私は2歳半になる孫と暮らしています。孫は読み聞かせが好きなので、私は自分が子供のころに読んだ本をたくさん読み返しました。E・B・ホワイトは『ニューヨーカー』誌の編集者で、アメリカ文学の文体の「守護者」であり、現に『シャーロットのおくりもの』は美しく書かれた作品です。流れるようになめらかな文体は、余計な装飾がなく、けっして自己主張しません。そのおかげで、親子ともに楽しめる作品になっているんです。川上さんの『このあたりの人たち』は、内容的には必ずしも子ども向きであるとはかぎりませんが(たとえば「野球ゲーム」とか!)、物語の書き方としてはごく小さな子どもでも楽しめるようなものになっています――私の孫に訊いてみてください、物語をたくさん読んで聞かせましたから。(彼のお気に入りは「グルッポー」で、とりわけ身振り手振りを交えて読むと喜びます!)

Q. 川上さんの文章は口語的ですよね。訳すときそのことは意識しますか?

私はいつも原文と翻訳、どちらの音にも耳を傾けるようにしています。最初のうちは原文が中心ですが、最終的には英語の流れを何より気にかけます。これまでに川上さんのほかの作品も訳しました。いまは短編集『龍宮』を訳していますし、『センセイの鞄』は大好きな作品です。そのため、作品によってリズムが違うのはよくわかっています。どの作品からも口語的なセンスの良さが感じられますし、私が彼女の作品を好きな理由のひとつもそこにあります。
しかしそれと同時に、まさにその「口語的であること」が翻訳者にとって問題になるときがあるのです。川上さんは、日本語のもっとも印象的な特徴のひとつである擬声語の達人です。英語にも同じような例はいくつもあります――たとえば雨が「パラパラピッター・パッター」降るとか、音を通して意味を伝える「ガラガラランブル」とか「ゴロゴログランブル」といった語もある――でも、両者を結びつけるのは翻訳者にとって生易しいことではありません。じっさい、英語に込められた音をより意識するようになったことは、川上さんの翻訳を手がけたおかげで得られた収穫のひとつなんです(これもまた、覚えたての言葉の音で遊ぶのが大好きな孫のおかげです)。

Q. 「ライバル」の書き出しの訳について話をしていただけますか?

擬声語と同じように難しくて、ときに解決不可能な問題はほかにもたくさんあります。たとえば、「ライバル」の1行目はこうです。「羊子ようこさんと、そのお向かいに住む妖子ようこさんは、ライバルだ」――このふたりの「ようこ」をどう区別するかが問題です。日本語ではもちろん使われている漢字が違うのですが、もしその漢字の意味を訳者が訳に込めるとしたら「羊子」は「羊の子」、「妖子」は「魔女の子」という感じになるでしょう。「羊っぽいようこ」と「魔女っぽいようこ」とか? そんな解釈をする根拠が原文にあるでしょうか? 私はないと思います。だから、私は単に「ようこ1」「ようこ2」と区別したのです。これと同じような問題が、川端康成『雪国』のエドワード・G・サイデンステッカー訳を教えるときにも起こります。主要登場人物3人の名前は島村、葉子、駒子で、名前の漢字の意味がとても重要なんです。島村は孤高の人で、いわば自分だけの島。葉子は植物の世界と結びついていて、そこでの死は春の再生をうかがわせる。いっぽう駒子はあきらかに動物の世界と結びついていて、若いころは純粋で活力があるが、いずれ老い最後は死を迎える。
講義のなかではこのような連想に触れることができますが、翻訳ではどう対処すればいいのでしょうか? ひとつの方法としては、脚注を使うことです。その翻訳がどこから出版されるかにもよりますが、これは有効な方法です。じっさい、学術雑誌に載せる論文にせよ、修士論文・博士論文にせよ、学術研究に付随する翻訳ではよく脚注が使われます。もうひとつの方法は、私も最近使ったのですが、言語や翻訳上の問題についての話を「訳注」として入れることです。このあいだ出版した志賀直哉の『和解』(キャノンゲート・ブックス、2020年)でも、7ページにわたる「注」を入れ、この中編小説において「気」という概念がどのように作用しているのかに読者の注意を向けました。しかし一般的に、文芸出版社や翻訳者は、学術的ではない文学の翻訳に脚注を入れることによって生じる影響を好みません。読者にはできれば読むという経験に没頭してほしいし、自分たちがどれほど重要だと思っていても、本質とはあまり関係のないディテールによって読書が中断されないようにしたいと私たちは思っています。

Q. 「ライバル」で神様ゴッドがでてくるとき、小文字のgを使っていますね。どのような考えでそうされたのでしょうか?

これまで40年以上日本について教えてきたなかで、間違いなく言えるのは、日本の宗教がどのようにして複数の世界観をひとつにまとめているかを学生に理解してもらうのが、もっとも難しい課題のひとつだということです。たとえば、たいていの日本人が神道の結婚式をして仏教の葬式をするというごく単純な事実だけでも、説明するのに一苦労です!
「神様」という言葉そのものも、厄介な問題をはらんでいます。日本語の文章のなかにでてくる「神様」は、神道の伝統のなかの八百万の神を指しているのか、それとも一神教の神、つまりユダヤ教のトーラーや聖書やコーランにおける「神」を指しているのか?いつもはっきりしません。この問題に関しては、翻訳のなかで大文字の「G」を使うか使わないかが多くのことを語るのです。
柴田元幸さんと私とで『Granta』に訳した、川上さんの短編「神様」とそのあとに書かれた「神様2011」(のちにアンソロジー『それでも三月は、また』に収録)が良い例でしょう。「神様2011」のあとがきで、川上さんは大文字の神様と小文字の神様との違いに触れています。彼女が言っているとおり、この物語にでてくる熊の神様は「大きな自然をつかさどる」たくさんの神々のひとりです。彼女は万物に神が宿ると心の底から信じているわけではありません。「が……窓越しにさす太陽の光があんまり暖かくて、思わず『ああ、これはほんとうに、おてんとさまだ』と、感じ入ったりするほどには、日本古来の感覚はもっているわけです」。
現代日本の作家全員がここまではっきりしているわけではありません。ときに翻訳者は、ある作品にでてくる神に大文字の「G」を使うべきかどうかを、文脈や場合によってはその作家の世界観をじっくり考えてから判断しなければならないのです。

Q. 「事務室」のおにいさんの3つの決まり文句は、どのようなアプローチで訳されましたか?

標準語とは異なる日本語が使われているときにも、なかなか解決できない翻訳上の問題が生まれます。たとえば中上健次や野坂昭如のような、生まれ育った土地の方言でほとんどの作品を書いた偉大な小説家の言葉をどう扱えばいいのか。残念ながらこの場合、翻訳家にできることはあまり多くありません。方言はどこでも通じるわけではないからです。それはある特定の時代や場所に固有のものなのです。ウィリアム・フォークナーの言葉を借りて中上健次を「南部風」の話し方にしたり、ロンドン訛りの英語で野坂昭如の作品に味つけしたりすることは誤解を招くし、滑稽に響いてしまうこともあるでしょう。
川上さんの「事務室」を訳しながら、この難問のことを考えていました。ここにはほとんど言葉を話さない、どうやら自閉症らしい青年がでてきて、彼が鉛筆やクレヨンで描いた絵はおおいに注目を集めます。彼には「ハンコおしますか」「ケッサイおねがいします」「きょうはよくふりますね」というお決まりの返答が3つあります。なぜこの3つのフレーズだったのでしょうか? はっきりしたことはわかりませんが、どうやら彼は公園にある「事務室」を中心とした想像の世界を持っているようなのです。そこで私は、これと一致するような仕事場でよく聞くやりとりとして、それぞれの返答を訳したのです。「ここにサインしますか?」「決済(決裁)お願いします」「今日は雨がひどいですね」。ここはほとんど直訳で、変えたのは「ハンコ」を「サイン」にしたことくらいです。日本人以外には、ハンコが何をするものかわからないですからね。

テッド・グーセン
ヨーク大学教授。志賀直哉、村上春樹、川上弘美、小川洋子、岸本佐知子などの作品を翻訳している。編著にオックスフォード日本短編集。文芸誌『MONKEY』英語版共同責任者。

デビッド・ボイド
ノースカロライナ大学シャーロット校助教授。小山田浩子や川上未映子の作品をはじめ、日本文学の英訳多数。古川日出男『二〇〇二年のスロウ・ボート 』の英訳(『Slow Boat』)で日米友好基金文学翻訳賞。

辛島デイヴィッド
早稲田大学国際学術院准教授。訳書に『Snakes and Earrings』(金原ひとみ著『蛇にピアス』)、『Triangle』(松浦寿輝著『巴』)など。近著に『Haruki Murakamiを読んでいるときに我々が読んでいる者たち』、『文芸ピープル:「好き」を仕事にする人々』。

上田麻由子
上智大学言語教育センター非常勤講師。訳書にサンドラ・スター『ジョゼフ・コーネル 水晶の籠』、ヘレン・オイェイェミ「ケンブリッジ大学地味子団」(『覚醒するシスターフッド』)など。著書に『2・5次元クロニクル2017-2020 ――合わせ鏡のプラネタリウム』など。

参考文献
・川上弘美『このあたりの人たち』スイッチ・パブリッシング、2016年(文春文庫、2019年)

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