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子供らしさと大人らしさの混在を訳す。今村夏子著『むらさきのスカートの女』を英訳したルーシー・ノースさんに聞く――

聞き手:デビッド・ボイド&辛島デイヴィッド
邦訳:小澤身和子

今村夏子は、2019年に『むらさきのスカートの女』で芥川賞を受賞した。このダークでコミカルな中編はルーシー・ノースさんによって翻訳され、翌年、アメリカではペンギン・ブックスから、イギリスではフェイバー&フェイバーから出版された。老舗書評誌『カーカス・レビュー』はノースさんの翻訳について「イマムラの物語は、最高のスリラー小説のようにテンポよく展開していくが、彼女の散文は控えめで深遠」と評している。今回はノースさんに、今村の文章に見られる深遠さを英語で表現することについて聞いてみた。

Q. 『The Woman in the Purple Skirt』というのは素晴らしい翻訳ですよね。「むらさきのスカートの女」という原題を英語に訳す時、どんなことを意識されましたか?

私がこの本のタイトルから連想するのは、ハンス・クリスチャン・アンデルセンのような童話です。『マッチ売りの少女』や『人魚姫』、『ブリキの兵隊』などですね。『雪の女王』もあります。また、このタイトルには「赤マント」や「青マント」や「口裂け女」のような日本の都市伝説も含まれていると思います。衣服にまつわる言葉が入っていて、「女」で終わるこの原題は、間違いなくそうした都市伝説と呼応していると思いますね。「むらさき」という言葉は、平仮名の丸さや、柔らかさ、若さ、女性らしさ(『源氏物語』の紫式部と何かしら関連しているのかもしれません)を連想させますが、同時に皮肉にも、むらさきのスカートの女の特徴の一つ––––彼女が決して若くないこと、少なくともこの物語で描かれる社会の前提となっている、女性が必要とされる若さを持ち合わせていないこと–––––を表す伏線になってもいるのです。

 英語の語りに見られる少しわざとらしい、重々しいトーンの「不気味さ」に、ホラー的要素を取り入れられていればいいのですが……。語り手の態度には本質的に不気味なところがあって、実際のところ、「尾行」するくらい他者に魅せられてしまうというのは不気味ですよね(この文章を書きながら、「見る」という行為は、あくびをしたり、笑ったり、泣いたりするように、本質的に伝染する行為なのかもしれないと考えています)。それに、からくり人形みたいなむらさきのスカートの女の姿は、明らかに不気味です。彼女が穿いているむらさきのスカート、髪(いつも不潔で手入れされていない)、顔のシミはみんな彼女の体からバラバラと分離している。彼女のだらしなさのせいで、不気味に思えるのでしょうか? 彼女の本質的なわからなさのせい? それとも彼女が不安定なせい? あるいは周辺性? とにかく色々なことを喚起させるタイトルですし、日本語で読んでも、簡単に他の解釈をあきらめることができません。

Q. 冒頭でむらさきのスカートの女が登場する時、彼女は クリームパンを食べています。英語の読者にクリームパンをどう伝えればいいのか、悩まれましたか?

クリームパンを英訳するのは、とても厄介だと思いました。クリームパンは、「cream bun」 と訳す(音訳する)ことができる外来語です(「クリーム」は「cream」、「パン」は「bread」ですが、パンという言葉はポルトガル語でパンを意味する「pão」に由来し、丸パンやロールパンなどパン類全般を指す言葉です)。この「クリームパン」という言葉が示す食べ物が、「生クリーム+パン」ではないのだとすると、どう訳せばいいのでしょう? 日本語を使うのであれば、斜体にするべきでしょうか? 食品を表す単語は翻訳せずに、斜体も使わない、というのが最近好まれる傾向だというのはわかっていました。でも、「kuriimu pan」で伝わるのでしょうか? 「pan」と、日本語で言うところの「パン」とが結びつかない読者もいるはずですよね。それから私は、自分がクリームパンをよく知らないことに気づいたんです。それまで一度も見たことがなかったかもしれません……クリームパンって一体何だろう? ってなりました。
ロールパン、丸パン、パイ? ネットの情報で知る限り、多くの日本人にとってクリームパンは、柔らかくて、温かくて、子供時代を思い出すものらしく、子供の頃によく食べるもののようです。さっと調べてみたんですよ。日本におけるパンの歴史は、ヨーロッパ人が登場した16世紀までさかのぼりますが、本格的なパン作りが始まったのはもっと後です。クリームパンは、あんパンやジャムパンなどもそうですが、19世紀後半に西洋人がホテルで食べていた食事を真似て考案されたパンであることがわかりました。カスタードクリームが入ったロールパンですが、現在では食品業界の限りない創意工夫によって、クリームにはチョコレートクリームや抹茶クリームなど、さまざまな種類があります(つまり「クリーム」は厳密な意味での「クリーム」ではないのです)。ですので、つまるところ、クリームパンは「cream bun」とは違う。クリームパンは「クリーム」を入れてから焼き、後から詰めるのではないというのが、大きな違いのようですね。また、生地もスポンジではなくて、柔らかいパンに近い。それを考えると、「kuriimu pan」と日本語を残した方がいいのかもしれないと思いました。ハイフンをつけて「kuriimu-pan」にするとか? 「kuriimu」だと、私には言葉だと認識しづらくて……。「cream pan」はどうだろう? あるいは「cream pan」? 小説の2段落目に、クリームパンを食べる場面があるのですが、まさかそこで注釈をつけるなんて考えられませんでした。この時には、出版社の表記ルールでは、「kuriimu pan」とするならば斜体にすることになると、わかっていましたから。「i」の上にマクロンを付けるのはないでしょう。「kuriimu pan」には、「cream bun」ではないと主張するほど特異性があるのだろうか? 考えて、考えて、考えました。クリームパンの画像を延々と探しましたね。英語の音訳で、しかも斜体で「kuriimu pan」とするのは、注目を要しているように見えないだろうか? 事情を知った編集者は、「cream bun」としてはどうかと勧めてきました。「音もいいし、読みやすいし、奇妙な感じもしていいじゃないですか」って。彼はまた「あまり具体的にも、専門的にもならなくていいと思うんです」とも言っていましたね。結局、出版社の表記ルールを考えながら、その通りにしたんです。不安は残っていましたので、読者が「cream bun」の「cream」は、生クリームではなくてカスタードであるということを理解できるように、こっそりと注釈を付けたんです。

Q. むらさきのスカートの女と語り手の関係には、どのように取り組まれたのでしょう? この小説にはコミカルな要素もありますが、それを翻訳で伝えるためにどんな工夫をされましたか?

この本には、「黄色いカーディガンの女」と名乗る語り手と、彼女が「むらさきのスカートの女」と呼んで妄想を抱く女性の二人が登場します。タイトルは後者にちなんでいるわけです。名前からして、きれいにまとまりそうな二人の女性の関係がこの物語の主題となっています。読者は、語り手がむらさきのスカートの女と、その女によって思い起こされる過去に出会った女性たちについて書き(その比較はほぼ無作為に成されているように思えます)、自分自身と彼女を比較している(むしろ暴言とも言えます)冒頭からの数ページで、両者について知ることになります。彼女は黄色いカーディガンの女である自分が、どれだけむらさきのスカートの女のことを知りたいと思っているかを語っていて、そこには、同一化と投影、そして理想化の問題が見えます。こうしたあだ名によって、語り手の強迫観念、そしておそらくは人と親密になることへの恐怖が強調されているのです。彼女はもう一人の女性に憧れを抱きながらも、彼女を偶像化し、距離を取り、物語の中で使われるような名称をつけている。こうしたあだ名はまた、語りに子供っぽさをも与えています。語り手は、きちんと成長できていない人のように思えます––––ただ、この物語における「成長」とは、抜け目なく社会性を身につけること、つまり周りに同調する能力を身につけることのように見えるのですが。子供らしさと大人らしさが混在しているがゆえ、語り手のボイスは奇妙に感じられるのです。

 物語は、彼女が語る物語の中に確かに存在する人物によって展開しますが、語り手は周囲の人々にとっては少しの「存在感」しかない人物です––––ほとんど存在していないようにも思える。彼女は見たり聞いたりしていますが、他の人には見られていません––––見られたとしても、ごくまれです。彼女がどのくらい潜んだり隠れたりしているのか、どのくらい見過ごされ、排除されているのかが、この本の中心的な問いの一つでもあります。語っていくにつれ、彼女は徐々に読者の前に姿を現し(最後にある種の「暴露」があります)、読み進めるにつれて読者に対する彼女の印象は変わっていきます。彼女が身を潜めている間に見聞きしたことを、驚くくらい詳細に記録していることが、逆説的に、彼女が透明な存在であることを印象づけているのです。きっと、壁に止まったハエだけが、あれだけのことを見たり知れたりできるのでしょう。語り手は人に見られたいのです。彼女はむらさきのスカートの女に憧れ、賞賛していますが、それはまさに、自分とは対照的に、彼女が人に見られている存在だからです。

 同時に、語り手は自分の語りの中で、ほとんど自分のことを認めていないところがあります。それはあたかも彼女が、自分が人に見えていないことと排除されていることを内面化しているかのようです。例えば、ホテルのゴミ置き場で行われる発声練習の場面では、語り手はこの場面には「所長とむらさきのスカートの女の他には誰もいなかった」と語りますが、実際には確かに三人いるはずで、語り手は所長とむらさきのスカートの女の姿を、陰に隠れて見ているのです。また、チーフたちがホテルの部屋から盗まれた果物を清掃班に配る場面では、語り手は自分がその部屋にいることを認められず、代わりに少し離れたところに立っている誰かのことを話しています。チーフたちがむらさきのスカートの女にアルコールを飲んだ痕跡がないか検査するために水筒を差し出す時も、語り手はやはり自分もそこにいて同じく水筒を差し出しているのを認められず、「少し離れたところにある水筒」だけに言及する。こうした点は、辛辣さとユーモアを加えているのだと思います–––読者は確信なく笑うだけなんですけどね。語り手の不可視性、存在感のなさ、「非実在」は、最後に所長が、他のみんながいなくなった後に、病室で座っている彼女を突然意識することで裏付けられる––––彼女が彼に言うように、彼女は「ずっとここにいた」んですけどね。もちろん、彼女の人から見られない傍観者としての立場と、彼女の年齢、ジェンダー、婚姻関係の有無を、関連して考える事もできると思います。

 語り手が見えない存在であるというのはつまり、彼女は単に会話を聞いているだけということです––––トイレに潜んでいたり、バックヤードにいる清掃員の集団の隅っこにいたり、公園のベンチに座っていたり、ロッカールームの扉の後ろに立っていたり、むらさきのスカートの女のアパートの前の通りをうろうろしていたりというように。こんな時、物語は会話文によって進んでいきますが、そのせいで、物語にはある種のマンガのような雰囲気が生まれます。読者はマンガの吹き出しを見ているわけではないですが、ほとんど見ているのと変わりません(物語はむしろアニメのようで、不穏な場面が登場する終盤に向かうにつれて、よりその傾向が強まっていきます。ですから、衝撃的な展開になりそうな場面でも、読み手は笑ってしまうのです)。こうした盗み聞きした会話の中で、今村さんは感情的な音、つまり感嘆修辞疑問符を多用しています––––例えば、「あっ」「あッ」「うわああ」「ハハッ」「えっ」「エッ」「あらー」「えー?」「んがっ」「え?」「え……、はい、まあ」「ええ、はい……。フフ」「うん」「ううん」「うーん」「いやいや」「ふうん」「うん、うん」「ひえー」「げー」「はあ?」「は?」「まあ」「もお」「わ、わ、」「うわっ」というように。それと同時に、笑い声の音声表現も使用していますね。例えば、「フフッと」「プフッ、アハハハッ」「あはは」というのがそうです。翻訳者として、こうした表現をないがしろにするわけにはいきませんでした。ひとつには、そうした表現によって、語られていることが持つ聴覚的な性質––––語り手がその場面に聞き耳を立てているという事実––––を際立たせているからです。また私にとってこうした表現は、痛烈で、辛いとすら思える話を、滑稽さ(慣例に従うことのむごさを顕にするユーモア)や戯画性をもって表現する、今村さんの作品に不可欠な要素であるように思えるんです。でも、このような音を日本語の音のまま再現することはできませんでした(たとえば、大げさな感嘆詞は単に「Hi-e-e」とするだけでは伝わりません)。そこで、英語で表現するならば、感嘆符を使ったり(二重に使うこともありました)、感嘆符と疑問符を一緒に使ったりすることで、ちょっとしたドタバタ劇のようにできるのではないかと思いました。時には、「guffawed 」や 「give an outright laugh」というように、感情的な音を動詞に置き換えなければならないこともありました。また、私は一度使っていますが、「Wahaha」のように、できる時には、日本語の音をそのまま再現するのは楽しかったですし、効果的が出せたように思います(加えて、「…」という感情を表す表現を使うという方法も編集部からOKをもらいました。これは、人がある情報を吸収して処理する際に、脳が鈍くなって訪れる沈黙のことです。情報量は極めて些細ですが、了見が狭い人たちをドキッとさせられるので、大げさな感じが表現できます)。

 この他にも、語り手が聞く音、あるいはそれに近い音はむらさきのスカートの女が出すノイズ(あるいは想像上のノイズか、想像上の行為)で、こうした音はよく日本語でも擬態語や擬音語として使われ、ある種の身体性を言語に付加しているのですが、やはりマンガの定型表現を思い起こさせます––––例えば、彼女がクリームパンを頬張って食べる「もぐもぐ」という音を私は「nom nom」と表現し、クリームパンからローストアーモンドが落ちる「パリパリ」という音は「pitter patter」と訳しました。日本語の「プハーッと」というシャンパンを飲み干す時に鼻に抜ける音は「mmm-tum-tum-tum」と、翻訳の限界を自覚しつつも、何とか表現できたように思っています。私には、こうした言葉––––特に「モグモグ」「パリパリ」といった言葉––––は、コミカルな効果を狙って使われているのではなく、語りに子供っぽい雰囲気を与えるために使われているように感じられ、少なくともこうした表現が使われている部分に関しては、アンデルセン童話のような雰囲気が出ているのではないかと思ったのです。

ルーシー・ノース
文芸翻訳家。英国サセックス州、ヘースティングズ在住。訳書に、河野多惠子の「幼児狩り」を含む短編選集 (Toddler-Hunting and Other Stories)、川上弘美『蛇を踏む』(Record of a Night Too Brief)、今村夏子『むらさきのスカートの女』(The Woman in the Purple Skirt)。

デビッド・ボイド
ノースカロライナ大学シャーロット校助教授。小山田浩子や川上未映子の作品をはじめ、日本文学の英訳多数。古川日出男『二〇〇二年のスロウ・ボート 』の英訳(『Slow Boat』)で日米友好基金文学翻訳賞。

辛島デイヴィッド
早稲田大学国際学術院准教授。訳書に『Snakes and Earrings』(金原ひとみ著『蛇にピアス』)、『Triangle』(松浦寿輝著『巴』)など。近著に『Haruki Murakamiを読んでいるときに我々が読んでいる者たち』、『文芸ピープル:「好き」を仕事にする人々』。

小澤身和子
東京大学大学院人文社会系研究科修士号取得、博士課程満期修了。ユニバーシティ・カレッジ・ロンドン修士号取得。編集者を経て、取材コーディネーター、通訳、及び翻訳家に。訳書にリン・ディン『アメリカ死にかけ物語』、リン・エンライト『これからのヴァギナの話をしよう』、ウォルター・テヴィス『クイーンズ・ギャンビット』、ジェニー・ザン『サワー・ハート』。共訳にカルメン・マリア・マチャド『彼女の体とその他の断片』。

参考文献
・今村夏子『むらさきのスカートの女』朝日新聞出版、2019年

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