第2回 鹿の解体で解せる、「肉を食べる」ことの意味ー体験的学習科目「狩猟と地域おこしボランティア」2024年度春学期ー
平元 美帆(政治経済学部3年)
2024年5月26日、奥多摩駅から一時間ほどバスに揺られて着いた山梨県丹波山村で、一回目の実習があった。
バスの中で鹿が獲れたという知らせを聞き、丹波山村に着いてすぐに私たちは鹿の解体を見学させていただくことになった。

JR奥多摩駅
解体処理施設でまず目にしたものは、息絶えて水につけられた状態の大きな鹿だった。その鹿の目はキラキラしていて、生きていた頃の様子が思い浮かんだ。しかし、そんな鹿が肉になる過程は全く想像できなかった。

運ばれてきた鹿
解体は、まず鹿を逆さに吊るし、皮を剥いで頭、足首を取り、内臓を出す。そして最後に肉を部位ごとに分けるという手順だった。皮を剥ぐ作業には力とコツが必要で、想像していたよりも時間のかかる作業だった。
動物の肉は、毎日のように口にする当たり前に身近にあるものであるのに、鹿の解体のどの工程も日常とはかけ離れた光景に思われ、自分が動物を殺し、解体するという過程をいかに無視してきたかを思い知らされた。
鹿を解体する工程の中で、鹿の肉を「食べ物」であると認識したのはどのタイミングからだっただろうか。私は鹿の肉を部位ごとに切り分けたあたりからだった。スーパーに並ぶ見慣れた肉の姿に近づいてから、ようやく「食べ物」として認識したのだ。「大きな鹿の死体」だと認識したものが「食べ物」になるまでの過程を実際に目の当たりにし、動物を殺すという営みと肉を食べることはひとつながりであることを強く実感した。そして、肉を食料として安定的に供給するために、人々が施してきた工夫にも気づかされた。

解体後の肉
そもそも鹿を狩ること自体が簡単なことではない。狩りの様子の動画を見せていただき、鹿にとどめを刺すのも、重い獲物を解体処理施設に運ぶのも、大変な苦労がかかっていることを知った。さらに、肉を商品として販売するために、衛生管理に細心の注意を払っている様子を目の当たりにし、動物の肉が食卓に並ぶまでの過程で多大な労力がかかっていることを学んだ。

丹波山村
これまで私は、「命を落とした動物のために残さず食べよう」という考え方は、理解はできるものの、「人間視点の一方的な考え方なのではないか」と思っていた。しかし、今回の実習を通し、動物の命をいただいていることを自覚する大切さや、肉が食卓に当然のように並ぶまでに多くの人の手がかかっていることを学び、それらすべてに感謝することの必要性を改めて感じた。
体験的学習科目「狩猟と地域おこしボランティア」
2024年度春学期連載一覧はこちら
【Instagram】https://www.instagram.com/waseda_tabayama/