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【学生の声】人道について考える 杉原千畝スタディツアー ~胸に刻んでおきたいこと~

【学生の声】人道について考える 杉原千畝スタディツアー ~胸に刻んでおきたいこと~

文化構想学部2年 伊藤 穂乃花 

2024年8月21日から8月23日にかけて、杉原千畝にゆかりのある地を訪れた。早稲田大学平山郁夫記念ボランティアセンターが主催するスタディツアーの一環である。
杉原千畝は第二次世界大戦下のリトアニア・カウナスで、ポーランドから流れてきたユダヤ難民にビザを発給したことで知られている。このビザは日本を通過して第三国へと逃れるためのものであった。
しかしビザを発給することで千畝自身にも危険が及ぶ可能性があった。それにもかかわらず、千畝はなぜ人道行為を行えたのだろうか。それを理解することを指針としながら、私はこのスタディツアーに参加した。

杉原千畝広場 センポ・スギハラ・メモリアル

私はこのスタディツアーを通して、当時の情勢や千畝が行った人道行為を詳しく学ぶことができたと感じている。そこで私が胸に刻んでおきたいと思ったことは、

1.人生の複雑さ
2.ユダヤ人との向き合い方
3.施設があることの意味と課題

の三点である。本レポートではこの三点についてそれぞれ提示していきたい。

まず、「人生の複雑さ」についてである。
千畝はもともと英語の勉強がしたくて大学に入った。しかし偶然にも外務省の留学生として満州で学ぶことになった。そこでは英語ではなく主にロシア語を学び、ソ連への興味を深めていく。その後外交官としてソ連に行くチャンスがあった。しかしながら、ソ連に入国を拒否された。結果として、ヘルシンキでの勤務を経て、カウナスにたどり着いたのだ。
もし、外務省の留学生に応募しなかったら外交官として働くことはなかったかもしれないし、もし、ソ連が千畝の入国を拒否しなかったらモスクワの日本大使館に腰を据えていたかもしれない。そうなると何千というユダヤ人は救われなかったかもしれないのである。人生のどの段階でどんな道が開けているのか。そしてその先に何が待っているのかは振り返らなければ分からないことなのだと実感した。
ただし、千畝がカウナスで経験したように、どんな人生を歩んだとしても決断しなければならない瞬間は来るだろう。どんな人生を歩むのであれ、決断の基準は「他者のために」という精神を私は身に着けておきたい。

人生のみではなく、複雑だと言えることは他にもある。千畝一人が大勢のユダヤ人を救ったのではないということだ。千畝がビザを発給した後もユダヤ人に協力した日本人がいた。例えば、ユダヤ人を日本に受け入れる決断を後押しした根井三郎や、神戸でユダヤ人の日本滞在を支援した小辻節三などがいる。千畝がビザを発給したとして、もし、日本がユダヤ人を受け入れてなかったらユダヤ人は救われなかったかもしれない。
つまり、千畝の勇気ある決断だけではユダヤ人は救われなかったのである。その後を支援した協力者がいたからこそ千畝の決断が正しかったと言えるのである。
スタディツアー参加前は千畝の功績にばかり目がいったが、彼らの功績も学ぶことで初めて、人道行為の全貌が見えてきた。

杉原千畝記念館

次に、「ユダヤ人との向き合い方」についてだ。スタディツアーでは主に杉原千畝の人道行為について学んだが、ユダヤ人の視点に立つ機会もあった。
例えば岐阜県八百津町にある杉原千畝記念館では、強制収容所に送られたユダヤ人と千畝に助けられたユダヤ人を対比させてその人生の軌跡を展示している。ポーランドから逃れてきたユダヤ人が千畝からビザをもらい、第三国を目指すその旅路は困難を極めるものであった。ソ連を通過する際にはシベリア鉄道で莫大な手数料を取られるなどソ連からの搾取があった。そして何より自分たちがどこへ行きつくのかわからない旅は相当不安なものであっただろう。それでも希望の見える方へ一歩一歩進んでいったのである。そんなユダヤ人の勇気とあきらめない心に敬意を示したい。

一つ気になったのが、記念館の展示ではアウシュヴィッツなどの収容所に送られたユダヤ人の名前がわからなかったことである。千畝に救われたユダヤ人の名前が載り、彼らがその後どんな人生を送ったのか、そして、彼らの子孫が千畝に対してどんな思いでいるのか語る展示までもがあった。
しかし、強制収容所に送られた者の展示は大勢の遺体が無造作に積み重ねられている写真がメインに据えられている。ここでは「不特定多数のユダヤ人」を強調しているようである。この展示で、生きている者と殺された者の格差を痛感した。殺されたユダヤ人にも名前があって、殺されなければ幸福な人生を送っていたかもしれない。子孫を残すことができたかもしれない。そんな可能性を奪った虐殺という行為に改めて憤りを感じた。それと同時に、殺された人の思いを救い上げるべく、「不特定多数ではないはずの彼ら」について学びを深めていきたいと思った。

人道の港 敦賀ムゼウム

3つ目に、「施設があることの意味と課題」についてだ。このスタディツアーではいくつかの施設や記念館を訪れた。千畝が学んだ瑞陵高校とセンポ・スギハラ・メモリアル、杉原千畝記念館、人道の港 敦賀ムゼウムである。これらの施設は杉原千畝に救われたユダヤ人の子孫が交流する場として機能している側面もある。自分の親が誰に助けられてきたのか、自分のルーツがどこにあるのか確かめられる場所になっているのである。そして彼らが集まることで新しい事実がわかることもある。
敦賀ムゼウムで聞いた話によると、「今まで話してこなかったけれど、自分はあの時杉原千畝に助けてもらったのだ」と吐露する人が実際にいたのだという。そう吐露することができたのは、自分がこの場でなら受け入れてもらえるという安心感があったからではないだろうか。その安心感は施設が訴える、記録と記憶を守っていこうとする精神に支えられていると推測される。

他にも、施設が存在することでその地域が活性化するという側面も持っている。今回、敦賀ムゼウムでは地元の高校生たちに館内を案内してもらった。彼らが自分の地元に興味を持って、かつ貢献しようとしていることに感心した。
このように施設は、「交流の場としての機能」と「史実に関する記録と記憶を守っていきたいと訴える精神」、そして「地域の活性化を促す機能」を持っている。
そんな有意義な施設であるが問題もある。杉原千畝記念館のスタッフに聞いたところによると、例えば、研究者や運営者の高齢化だ。施設がきちんと保持されない可能性、他にも「自分とは関係ない昔のこと」として若者が継承しない可能性がある。また、展示方法に関して、研究者の間で見解が分かれている事象に対してどのように展示するべきか頭を悩ませるのだという。

以上三点がこのスタディツアーを終えて私が胸に刻んでおきたいと思ったことだ。私はこのスタディツアーで杉原千畝についてかなり詳しく学んだ。しかし、それを終えた今、学習はまだまだ十分ではないと感じる。千畝が人道的決断をした理由は一つではなく複雑な人生の過程があったからであると考える。だからそれをもっと詳しく掘り下げたい。新しく獲得したユダヤ人に対する視点をもっと掘り下げるために、強制収容所に関する知識を入れたい。
杉原千畝に関するものだけではなく、様々な歴史を伝える施設に赴き、そこで学んだことを日常生活に生かしていきたい。
以上が今後の私の学習の指針である。

人道について考える 杉原千畝スタディツアー
第二次世界大戦中、リトアニアに赴任していた外交官の杉原千畝。ナチス・ドイツに追われたユダヤ人に対し、日本の通過ビザを発給し、約6,000人の命を救った人道的行為は国際的に高く評価されてる。外務省の命令に背きながら、なぜあのような行動がとれたのか。事前学習のうえ国内の関連施設を訪問し、千畝の勇気ある決断やその背景、人道について考え、学び、そして千畝について、戦争の悲惨さや平和の尊さを発信するスタディツアー。

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