連載 ワークライフバランス挑戦中! 第24回
「きっとどこかに道がある」と信じて
スチューデントダイバーシティセンター障がい学生支援室 M.S.
最初の壁は子どもの病気
『ワークライフバランス』ということでいうと、これまでに何度か壁にぶつかっていますが、最初の大きな壁は次男が1歳から3歳のときでした。よく病気をする子で、喘息もあったので、高熱を出してはゼーゼー(喘鳴)が1週間は続くという状態を繰り返していました。
まだ長男も手がかかる時期だったので、「一体いつになったらまともに仕事ができるのか」という焦りと申し訳なさで気持ちも張りつめていたときでした。職場にはずいぶん迷惑をかけたと思いますし、遠方(長野)で働いている母にも幾度となくヘルプにきてもらっていました。「今日はどうか一日元気に過ごせますように」と祈るような気持ちで過ごす日々。そんな毎日から解放されたのは次男が3歳になり、病気が減って喘息もコントロールできるようになったときで、その頃にはまた仕事にも落ち着いて向き合えるようになっていました。次男が生まれてから10年経ちましたが、今思い返してもこの頃がもっともバランスがとれずに、もがき苦しんだ時期だったと思います。
登園渋りから早稲田大学の託児室へ
次男と4歳差で長女が生まれて、それまでの家が手狭になったこともあり引っ越しをしました。長男、長女は引っ越しのタイミングで小学校入学と保育園入園の新規スタートだったのですが、次男は年中で保育園を転園。新しい保育園になかなか馴染めず、年中の途中から登園渋りをするようになりました。
最初はあの手この手で保育園に連れていっていたのですが、それも限界がきて、「それなら早稲田に一緒に行ってしまおうか」と、試しに理工キャンパス内にある託児室で預かってもらうことにしました。朝は夫に長男と長女を託し、次男と二人で始発の電車に乗って高田馬場へ。60号館の託児室に子どもを預けて私はそのまま55号館の職場に行きました。お昼には職場の先輩も一緒にご飯を食べて、帰りには戸山公園の植物を観察しながら手をつないで帰りました。それまで、大慌てで自転車に子どもを乗せて、保育園を往復する毎日だったので、ゆっくり二人で歩くことがなんとも新鮮で尊く感じられました。
次男は託児室の先生と職場の先輩とのランチのおかげで早稲田のことが大好きになり、週1〜2回は早稲田に通うようになりました。それからというもの、登園渋りはあっても早稲田に行く私を引きとめることはなくなりました。「お母さんは毎日あそこに行っている。ぼくも3日寝たらあそこへ行ける」、そういう見通しを持てたことが次男にとっては重要なことだったのだと思います。そんな生活が1年近く続いて、地元の保育園も早稲田の託児室も無事に卒園することができました。
コロナで激変した生活
その後、だいぶ安定してきた(と自分では感じていた)ワークとライフのバランスがコロナの影響を受けて、またも不安定な様相となりました。
特に去年3月からの保育園の自粛と、続く4月からの小学校の休校で生活は一変。さらに、私の母も上京できない、子どもの習い事も見合わせ、私が通っていたヨガ教室も閉鎖、など悪いことが重なり、仕事、家事、育児、教育、運動など、これまで多方面に頼っていたことが一気に押し寄せてきました。今までのやり方はまったく通じなくなり、家族で試行錯誤をする毎日。悩む間もなく、ひたすら走り続け、大変といえば大変な日々でしたが、この期間で得たものも実はたくさんありました。例えば、朝は家族で近所を散歩し、地域のいいところを再発見しました。夜にはYouTubeで子どもと一緒にヨガをするようになり、親子共通の趣味ができました。これまで一人でたたんでいた洗濯物も、それぞれが自分のものをたたむようお願いしたら意外にすんなりやってくれて、私の仕事がだいぶ減りました。何より、家族それぞれとじっくり向き合うことで、お互いの得意や苦手を意識したよりストレスの少ない生活にシフトした(というより、せざるを得なかった)ことは大きな収穫だったと思います。
これまで大きな壁にぶつかるたびに、職員の先輩や仲間、家族がどこかに道があることを教えてくれました。今も日々いろいろなことがありますし、今後もあるのだと思います。バランスをとるのは簡単ではありませんが、その時々に一つひとつやっていけたらいいなと思いますし、そう思える環境で働かせてもらっていることを幸せに感じています。
<略歴>1999年4月入職。1999-2005年、日本語センター・日本語教育研究科、2005-2014年、留学センターにて留学生支援等担当。2014-2015年アカウンティングセンターで経理担当をした後、組織改編により、2015-2021年理工センター研究総合支援課に異動して、研究契約業務を担当。2021年6月、学内公募により現職に異動。