【現代語訳】山梨日日新聞 明治 44(1911)年8月28日付け
【第4回】米国野球界の印象

シカゴ大学野球部と集合写真を撮る早大野球部(写真:Hanna Holborn Gray Special Collections Research Center, University of Chicago Library)
ソルトレークシティからデンバーへ―トラブルの連続
ソルトレークシティでも試合をした。それから丸一昼夜も汽車に揺られてデンバー市(※1)に着いた。途中、砂漠のような場所で汽車が故障を起こして5、6時間も立ち往生したので、予定より非常に遅れたため、食堂車も食料を買い込むことができず、乗客も朝食も食べることができなかった。
腹は減るし時間は遅れるし、腹立たしくてもどうすることもできず、泣き寝入りするしかなかった。アメリカのような時間に正確な国でもこのようなことが稀にはあるので、日本では仕方がないと思われた。
各地での同胞の歓迎
至る所に我が同胞がいて、一面識もない人々が盛大な歓迎会を開いてくれた。当然、異国にいると母国の人が懐かしくなるのだろう。翌日出発し、汽車に乗って1日でようやく目的地であるシカゴに着いた。停車場には現地の大学教職員及び昨年来日した野球選手一同が出迎えに来ていた。
シカゴ・ビーチ・ホテルの豪華さ
早速自動車でシカゴ・ビーチ・ホテル(※2)に行った。このホテルはミシガン湖畔にあるなかなか立派なもので、日本の現在では到底見ることができないほど大きく、かつ設備も実によく整っている。海水浴はいつでもできるし、その他の遊びのためには完全なグラウンドが設けられている。特にこのホテルの特徴というのは、家族全員で避暑などに来るのに至極適当であるそうだ。
シカゴでの1ヶ月、十数回の招待
シカゴには前後約1ヶ月滞在したが、この間、同胞及びシカゴ大学並びに個人から招待された回数は十数回にも及んだ。
その主なものは第一にシカゴ大学で、到着後直ちに盛大な歓迎会を開いてくれた。総長をはじめ、教授・学生合わせて約千人の大集会であった。なお同大学総長であるジャドソン博士(※3)の自宅に行ったこともあった。ジャドソン博士は白髪の老人であったが、その壮健さは若者を凌ぐほどである。
ストックヤード見学の衝撃
その他、有名なストックヤード【牛や豚などの供給場】(※4)から招待を受け、牛や豚などを屠殺する様子、肉の貯蔵法などを残らず見物し、の肉で御馳走になったこともある。この会社の従業員は約8千人というから驚く。なお日本人としては、清水領事代理及び青年会のもてなしを受けた。
アメリカ野球の基礎知識 プロ野球とは
さて、いよいよアメリカの野球について話をしてみたいと思う。第一に野球というものは、アメリカの国技であることを頭に置いて見なければならない。アメリカの野球史は我が国のそれに比べて数倍の長さを持っている。
現在ではアメリカには日本と異なって、野球を職業としている者がたくさんいる。いわゆるプロフェッショナル(※5)である。
この連中は毎年4月頃から10月半ばまで毎日のように試合をして入場料を取る。しかしこれらの連中とても、各自が気ままに試合するのではなく、リーグというものを作っている。
アメリカンリーグとナショナルリーグ
このリーグというのは、例えば仮に日本全国の野球チームに東京団、大阪団、横浜団、甲府団などがあって、これら諸チームが一定の規則を作り、評議員のようなものを置き、色々相談して互いに技を競うならば、それはアメリカのいわゆるリーグ(※6)である。
なお各チームにそれぞれ支配人(オーナー)がいて、自分のチームを強くすべく努力している。アメリカにはこのリーグで第一流に属するものが二つある。すなわちアメリカンリーグ及びナショナルリーグ(※7)である。
この二つのリーグは日本で言えば、まず東京相撲と大阪相撲のようなものであるが、大阪の方が弱いなどということはなく、全く両リーグは各々自分のチームで試合をやり、その優勝チームを両方から出して10月半ば頃に雌雄を決する。この戦いでアメリカの、したがって世界の選手権が確定するのである。

スタッグフィールド球場にて早稲田大学との試合を訪れたシカゴ大学・ジャドソン総長(左)【写真:Hanna Holborn Gray Special Collections Research Center, University of Chicago Library】
【補足説明】
※1)コロラド州の州都。ソルトレークシティから約800km東
※2)1890年代にミシガン湖畔に建設された高級リゾートホテル
Chicago Beach Hotel – Wikipedia
※3)Harry Pratt Judson(1849-1927)。シカゴ大学第2代総長(1907-1923年在任)。1911年当時61歳
Harry Pratt Judson | University of Chicago
※4)ストックヤード:シカゴ・ユニオン・ストックヤード。1865年開業の世界最大規模の食肉処理場。最盛期には年間1800万頭の家畜を処理し、約8千人が働いていた
※5)当時の日本にはプロ野球はまだ存在せず、全て学生や社会人のアマチュア野球だった
※6)複数のチームが組織を作り、定期的に対戦して優勝を争う仕組み。日本では1920年代後半まで本格的なリーグ戦は行われなかった
※7)アメリカンリーグとナショナルリーグ:1901年と1876年にそれぞれ発足。両リーグの優勝チームが10月にワールドシリーズで対戦する形式は1903年から始まった
東京相撲と大阪相撲:当時の日本には東京と大阪に別々の相撲協会があり、両者が競い合っていた。1927年に統合。
【原文】山梨日日新聞 明治四十四年八月廿八日付け
米國野球界の印象(四) 早大野球選手 三神五朗
ソルトレークシチーでも試合をした。それから一晝夜も汽車に揺られてテンバー市に着く。途中砂漠の樣な處で汽車に故障が起って五六時間も立往生をしたので豫定より非常に遅れた爲、食堂車も食料を買ひ込む事が出來ず、乗客も朝飯も食ふ事が出來ない。腹はへるし時間は遅れる。癪にさわつても如何する事も出來ず泣寝入、米國の如き時間の正確な國でも此の如き事が稀にはあるので、日本では無理はないと思はれた。
至る處我同胞が居て、一面識もない人々が盛んなる歡迎会を開いて呉れた。自然異郷に居ると母國の人がなつかしくなるだろう。翌日出發乗車一日にして漸く目的地たるシカゴに着いた。停車塲には同地大學教職及昨年來朝した野球撰手一同が出迎へに來て居た。
早速自動車でシカゴビクーチホテルに行く。此ホテルはミシガン湖畔に在る仲々立派なもので日本の現在では到底見る事は出來ない程大きく且設備も實によく整つてゐる。海水浴は何時でも出來るし、その他の遊びの爲には完全なグラウンドが設けられてゐる。殊に此ホテルの特徴と云ふのは家族一同で避暑などに來るに至極適當なる事であるさうな。
シカゴには前後約一ヶ月滞在したが此間同胞及シカゴ大學並に個人より招待せられた事十數回にも及んだ。その主なるものは第一シカゴ大學で、着後直ちに盛大なる歡迎会を開いてくれた。總長始め教授學生合わせて約千人の大集會で尚同大學總長なるジャトソン博士の招待で同氏宅に行ったこともあった、ジャトソン博士は白髪の老人であつたがその荘健なる荘者を凌ぐ概がある。其他有名なるストックヤード【牛豚等の供給塲】より招待を受け、牛豚等を撲殺する有樣肉の貯蔵砲等を残りなく見物し、その肉で御馳走になつた事もある。此會社の雇人約八千人とはやく驚く。尚日本人としては清水領事代理及青年會の饗應を忝なくした。
扨て愈々米國の野球に就て話をしてみたいと思ふ。第一に野球なるものは米國の國戯である事を頭に置いて見なければならない。米國の野球史は我國のそれに比し數倍の長さを持つてゐる。現今では米國には日本と異なつて、野球を職業として居る者が澤山ある。所謂プロフェショナルである。
此連中は毎年四月頃から十月の半迄毎日の樣に試合をして入塲料をとる。然し之等の連中とても各自に氣儘に仕合するのではなく、リーグと云ふものを造つてゐる。此リーグと云ふのは、例へば假に日本全國の野球チームに東京團大阪團横濱團甲府團等があつて之等の諸チームが一定の規則を作り、評議員の如きものを置き、種々相談をして互に技を競ふならば、それは米國の所謂リーグである。
尚各チームに夫れぞれ支配人があつて自分のチームを强くすべく努力してゐる。米國には此リーグで第一流に属するものが二つある。即ちアメリカンリーグ及ナショナルリーグである。之二リーグは日本で云へば先づ東京角力と大阪角力とであるが、大阪の方が弱い等と云ふ事はなく全く兩リーグは各自分のチームで試合をやり、其優勝のチーム兩方から出して十月の半頃雌雄を決せしむる。此戰で米國の従つて世界の選手権は確定するのである。
※原文ママ




