【現代語訳】山梨日日新聞 明治 44(1911)年8月27日付け
【第3回】米国野球界の印象

渡航先での交流の様子(2列目右端が三神)【写真:桑野順子氏提供】
ホノルルでの再会
ホノルルは昨年(1910年)お世話になった場所で、多くの知人が出迎えに来てくれた。望月ホテル(※1)という日本人経営の立派なホテルに泊まって、久しぶりに上等な日本食を食べることができたのは嬉しかった。
翌朝10時頃、また見送り人を後にアメリカ本土を目指して出発する。
太平洋上での感動的な出会い
ホノルルからサンフランシスコまでは5日間程。その途中、海上で天洋丸(※2)に出会った。同じ会社(日本郵船)の船なので、双方とも近づいて万歳を交換した。この時間は実にわずか1分に過ぎない。その後はもう呼んでも叫んでも聞こえなくなってしまった。
およそ大洋上で船に出会うくらい嬉しいことはないと思う。全く言葉にも文章にも表現できないもので、この味わいは経験した人にしか分からない。
日付変更線を越えて
船は毎日数百海里ずつ進むので、時計は毎日30分くらいずつ遅れる。ちょうど4月3日の夜10時頃に東半球から西半球に移ったが、4月3日は(日付変更線を越えたので)2日あった。これは地球が丸い証拠で、アメリカ内陸部の真夜中が日本の真昼に当たる。アメリカから日本に帰る時は逆に1日失うことになるのだ。
サンフランシスコ到着―4月13日
こうして海路無事にサンフランシスコに上陸することができたのは4月13日。波止場には昨年シカゴ大学のマネージャー兼投手だったページ氏(※3)、および校友の橋戸氏(※4)、その他多くの出迎え人が来ておられた。これらの人々に迎えられて、同港一流のセント・フランシス・ホテル(※5)に泊まった。
サンフランシスコの日本人社会
サンフランシスコとその周辺に約2週間滞在して、数回の試合を行った。同地には日本人が何千人となく働いている。特に甲州人(山梨県出身者)は非常に多く、郷同会や県人会などもある。これら日本人の仕事は多くが肉体労働であって、このサンフランシスコは排日運動(※6)が最も盛んな場所である。
排日運動の真の原因
排日については色々と双方に言い分があるのだが、我が同胞の中にも全くの田舎者の分からず屋がいて、日本式のやり方をそのまま現地で行うので、甚だ見苦しいことがある。これらも一つの原因に違いないが、大きな原因はさらに風俗習慣の違いによるものではなく、全く金銭上の問題から来ていると思われる。
つまりこの地には、労働者にしてもその他の人にしても外国人が甚だ多い。特にイタリア人、中国人、スペイン人が多くて皆労働をやっているのだが、日本人の労働賃金(※7)は他よりも全く安い。これらが根本的な原因らしい。
アメリカの思惑
日本人がこのように排斥されるにもかかわらず、中国人はアメリカ政府が甚だ丁寧に待遇する。これは最近の政策(※8)でアメリカの胸の内に何か意図(サムシング)があることを示している。
しかしアメリカの内陸部や東部などに行くと、比較的人種問題も少なく、日本人の待遇も良い。
日本町での歓迎
サンフランシスコにいる日本人は甚だ多数であることは前にも述べたが、これらの人々によって日本町ができ、日本料理屋があるという具合で、外国のような気がしない。僕らは今、同胞の真心ある歓迎を受け、様々な記念品もいただいた。
サクラメント、そしてソルトレークシティへ
同月28日、サンフランシスコを出発してカリフォルニア州の州都サクラメントに行き、ここで試合をして、翌朝ソルトレークシティに向かった。名前の通り、大塩湖が郊外にある。塩分濃度は海水の約2倍、したがって製塩事業もまた甚だ盛んである。
モルモン教の総本山
この地でさらに有名なものは、モルモン教(※9)の総本山(ソルトレーク・テンプル)で、その神殿は極めて荘厳で立派なものである。ご承知の通り、この宗派は一夫多妻主義であったが、現在はもちろん州の法律で禁じられているのみならず、また実際にも行われていない。
【補足説明】
※1)ホノルルにあったという日本人経営のホテル。当時、ハワイには多くの日本人移民がいた。
※2)日本郵船の太平洋航路客船。船の中ですれ違う瞬間に万歳を交換するのは、広大な太平洋上での貴重な出会いだったため。
天洋丸級貨客船 – Wikipedia
※3)H. Orville “Pat” Page。1910年にシカゴ大学の選手兼監督として来日。後にコーチとなり、1911年の早稲田遠征にも関わった
Page, Harlan O. : Photographic Archive : The University of Chicago
※4)橋戸信。ペンネームは橋戸頑鉄。野球部第2代主将で、第2回米国遠征時はサンフランシスコに在住していた。1903年に早稲田が慶應に送った挑戦状を書いたのは、橋戸であったと言われている。1905年の第一回野球部米国遠征の参加メンバー。都市対抗野球大会の創設者。1959年野球殿堂入り。
橋戸信 – Wikipedia
※5)1904年開業のサンフランシスコの高級ホテル
Westin St. Francis – Wikipedia
※6)1900年代初頭から1920年代にかけて、カリフォルニア州を中心に日本人移民に対する排斥運動が激化。1913年には排日土地法が制定された。
※7)日本人労働者が低賃金で働くため、白人労働者の職を奪うとして排斥された。
※8)当時アメリカは中国市場進出を狙っており、中国への配慮から中国人移民を優遇する政策をとった。
※9)正式名称は「末日聖徒イエス・キリスト教会」。1847年にソルトレークシティに本拠を置いた。一夫多妻制は1890年に公式に廃止され、1896年のユタ州成立時には州法でも禁止された。
【原文】山梨日日新聞 明治四十四年八月廿七日付け
米國野球界の印象(三) 早大野球選手 三神五朗
ホノルルは昨年厄介になつた所で多くの知人がお迎ひに來てくれた。望月ホテルと云ふ日本人經営の立派なホテルに宿つて、久し振りで上等な日本食を食べる事が出來たのは嬉しかつた。翌朝十時頃又もや見送人を後に米國指して向ふ。ホノルル桑港間じゃ五日間程、その途中海上で天洋丸に行合つた、同じ會社の船であるから双方とも接近して萬歳を交換した。此間實に一分にすぎない、後はもう呼べど叫べど聞わなくなつた。
凡そ大洋上で船に會ふ位嬉しい事はないと思ふ、全く言葉にも筆にも表はせたものではない、此味こそ知る人ぞ知るである。船は毎日數百浬宛走るので、時計は毎日三十分位宛遅れる。丁度四月三日の夜十時頃東半球から西半球に移つたが、四月三日は二日であつた。之は地球が丸い証據で、米國内部の眞夜中が日本の眞昼に當る。米國から日本に歸る時反對に一日失ふ事になるのだ。
かくて海路恙なく桑港に上陸する事を得たのは四月十三日、波止塲には昨年シカゴ大學のマネーヂャー兼投手たりしページ氏及び校友橋戸氏その他多くの出迎人が來て居られた之等の人に擁せられて同港第一流のセントフランシスホテルに泊つた。
桑港及びその附近約二週間滞在して數回の試合をやつた。同地には日本人が何千人となく働いて居る殊に甲州人は非常に多く鄕同會縣人會等もある。之等日本人の仕事は多くの勞働であつて此桑港は排日熱の最も盛んなる處である。排日に就ては種々双方に理屈があるのだが、我同胞中にも全く田舎者の不解漢が居て、日本的の事をその儘彼地で行るので、甚だ見憎い事がある。之等も一原因に違ひないが大なる原因は更に風俗習慣との相違によるものでなく、全く金銭上から來ているのだよ思はれる。
即ち此地には勞働者にしても其他の人にしても外國人が甚だ多い。殊に伊太利人、支那人、西班牙人が多くて皆勞働をやつてゐるんだが、日本人の勞働は他よりも全く安い、之等が根本の原因らしい。日本人が此の如く排斥せらるるにも係らず支那人は米國政府が甚だ丁寧に待遇する。之は最近の政策で米國の胸中サムシングのある事を知るに足りる。
然し米國の内部東部等に行くに正に比較的人種問題も少なく邦人の待遇もよい。桑港に居る邦人は甚だ多數なる事は前にも述べたが之等の人に依つて日本町が出來、日本料理屋があると云ふ工合で外國の樣な氣がしない。僕等は今同胞の熱誠なる歡迎をうけ種々記念品をも頂戴した。
同月二十八日桑港を發して加州の首府サクラメントに行き、此處で試合をして、翌朝ソーレーキシチーに向つた、名の如く【※判読不能】郊外にある。食鹽量海水の約二倍従つて製鹽事業も亦甚だ盛んである。
此地で更に有名なものは彼地のモルモン教の總本山で、寺院、頗る荘厳なものである。御承知の通り三宗派は一夫多妻主義であつたが、現今は勿論州の法律で禁じられているのみならず、又實際にも行はれてゐない。
※原文ママ




