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明治時代の早大野球部員 三神吾朗の米国遠征記② ホノルルまでの旅路

【現代語訳】山梨日日新聞 明治 44(1911)年8月26日付け

【第2回】米国野球界の印象

早稲田大学とシカゴ大学の記念メダルと遠征参加メンバー・八幡恭助が使っていた手帳

出発の日――1911 年 3 月 28 日
予定の3 月 28 日が来た。早朝から準備を整え、品川の京浜電車の終点で多くの学生たちと待ち合わせ、午前 10 時頃に電車で神奈川に向かい、そこから車で横浜の上州屋(旅館)(※1)に到着した。

見送りの人々は山のようにいたが、乗船する日本丸は桟橋に着岸しないので、多くの見送り人とは波止場でお別れをした。学校の応援団を代表して有名な吉岡将軍(応援団長)(※2)が送別の言葉を述べ、高杉先生が答礼の挨拶をされた。

やがて船は午後 2 時頃、万歳の声の中、何千人もの見送り人、いや日本という国を後にして、遠い遠い戦いの旅に出発したのである。出発した日のうちは母国の姿もまだ見えていたが、翌朝からは鳥一羽すら見つけることができず、ただ僕らが乗る船だけが悠々と太平洋の荒波を蹴散らして力強く進んでいくだけだった。

一等船室での贅沢な船旅
話が少し前後するが、船には一等、二等、三等の区別がある。もちろん僕らは二等くらいが相応なのだが、アメリカ上陸の際に目の検査(※3)があるので、やむを得ず奮発して一等キャビン(つまり一等室)に乗った。

船の一等というのは実に贅沢なもので、各部屋にはボーイが一人ずつ付いているし、食堂にも給仕が付いていて何一つ不自由はない。全く殿様扱いである。

一等の乗客は僕ら 15 名のほか、日本人 4、5 名、外国人 10 名程で、船長はイギリス人だった。船の喫煙室には僕らのグループや他の日本人が朝から晩まで詰めかけて遊んでいるので、外国人は遊ぶことができずに困っていた。

日本人が多数派の珍しい船旅
実際、船の一等で外国人より日本人の方が多くて勢力があるなどということは稀で、常に外国人に勢力を占められ、日本人は日本の船に乗っても外国船に乗ったような気がするものだ。これは日本人が少数派だからである。

ところが今回は外国人より日本人の方が多いので、常に外国人を圧倒し、実に気持ちが良かった。日本人の船員も大喜びであった。

校歌斉唱で船長から注意
ところがある日の夕食後、みんなで甲板に出て校歌や応援歌を合唱して一騒ぎしたところ、船長さんから人が来て中止を命じられた。

その理由は、船の特別船客として天洋丸(※4)の船長夫人と子供が乗っていたからだ。船長さんは朝から晩までこの人たちのお世話で一生懸命である。あいにく僕らが歌った場所が特別船客室のすぐ傍だったので、船長さんは大いに心配されてこのような次第となったのである。2、3 日後、高杉先生のところに船長から非常に詫びてこられたそうだ。

船内での娯楽――芝居と手品
船の中では牛肉のすき焼きが一番のご馳走で、日本食も時々味わうことができた。またある晩は乗組員による芝居があった。忠臣蔵(※5)を上演したのだが、なかなか上手いものだった。もちろん乗客には非常に芸人が多いので、毎航海 1、2 回は芝居が見られる。昨年ハワイ行きの際には壺坂(※6)を上演したが、これもなかなか上手だった。その他、乗客の中には手品師などもいた。

避難訓練と退屈な日々
毎週日曜日の午後には必ず乗組員全員が汽笛とともに甲板に上がり、各班に分かれて整列し、ボートについて人員検査をして、万一の時の備え(※7)とする。

横浜を出発して以来、毎日、日本丸という家の中で変わらない景色を見、同じ人間と毎日顔を合わせているので、もう話題も尽きて飽き飽きしてきた。しかしちょうど 10 日目にしてようやくハワイ(※8)のホノルル港に着き、一晩陸地で宿を取って旅の疲れを休めることができた。

【補足説明】
※1)横浜にあった旅館。出航前の宿泊所として利用された。
※2)1905 年に早稲田大学応援部の前身となる応援組織を結成して隊長となった吉岡信敬のこと。激しい「野次」(ヤジ)で相手チームの士気をくじく応援を得意とし、そのカリスマ性と強烈な応援スタイルから「野次将軍」の異名がついた。その人気は全国区となっていたという。組織的な応援、応援歌の斉唱、相手への野次など、現代にも続く日本の大学スポーツ応援文化の礎を築いた。1910 年 10 月 4 日、早稲田大学とシカゴ大学との初戦で、吉岡は応援隊を率いて入場。早稲田の二塁手・原慶人が初回に安打を放つと、吉岡と観客が「観衆全体が一人の人間のように立ち上がり、声が枯れるまで叫んだ」と、当時のシカゴ大学主将 J.J. Pegues が回想している。
Restart of Legend: The Waseda-Chicago Rivalry 1910-2008 – Society for American Baseball Research
※3)アメリカ入国時に眼の検査があった。一等船客は検査が簡略化された。
※4)日本郵船の客船。船長夫人が日本丸に特別船客として乗船していた。
天洋丸級貨客船 – Wikipedia
※5)日本の代表的な芝居演目。赤穂浪士の仇討ちを描いた物語。
※6)「壺坂霊験記」。目の見えない夫とその妻の物語を描いた浄瑠璃・歌舞伎演目。
※7)タイタニック号沈没(1912 年)の前年で、すでに定期的な訓練が行われていた。
※8)当時は日本人移民が多く、日本郵船の太平洋航路の寄港地だった。

【原文】山梨日日新聞 明治四十四年八月廿六日付け

米國野球界の印象(二) 早大野球選手 三神五朗

豫定の三月二十八日は來た、早朝より支度を整へ品川京濱電車終点で多くの學生と待合せ午前十時頃電車で神奈川に向ひそこから車で横濱上州屋に着いた。見送人は山の如くであつたが乗船たる日本丸は棧橋に着かないので多くの見送人とは波止場でお別れをした、學校の應援團學生を代表して有名な吉岡將軍が送別の詞を述べられ高杉先生が答辭をなされた。やがて船は午後二時頃萬歳聲裡に幾千の見送人否日本國を後にして遠い遠い征戰の途に上つたのである。此日の中は母國の影も認むる事が出來たが翌朝からは鳥一つも見出し難く、只我が乗る船飲み悠々乎として太平洋の波濤を蹴破つて猛進するのみであつた。

少し話は前後になるが船には一二三等の區別がある、無論僕等は二等位が相當なのであるが米國上陸の際眼の検査があるので不止得奮發してキャビン『即ち一等』に乗つた。船の一等と云へば實に贅澤なもので各室にはボーイが一人宛附いているし食堂にも給仕附で何一つ不自由はない全く殿樣扱ひである、船客は一等には僕等十五名の外日本人四十五名外國人十名程で船長は英國人であつた、船の喫煙室には僕等の連中及他の日本人が朝から晩迄詰め切りで遊んで居るので外國人は遊ぶ事が出來ずに閉口していた、實際船の一等で外國人より日本人が多くて勢力がある等と云ふ事は稀れで、常に外國人に勢力を占められ日本人は日本の船に乗つても外國船に乗つた樣な氣がする、之と云ふのも日本人が多數を占むるからである、然るに此時外人より日本人の方が多いので常に外人を壓し實に氣持よかつた。日本人の船員も大喜びであつた。

所が或る日の夕食後皆んなで甲板に出て校歌や應援歌を合唱して、一騒ぎやつた處船長さんから人が來て中止を命ぜられた、其原因は船の特別船客として天洋丸の船長夫人と小供が居た、船長さんは朝から晩迄此人達のお守で一生懸命である生憎僕等の唱つた處が特別船客室の直ぐ傍であつた船長さん大いに御心配あつて此の如き次第となつたのである、二三日の後高杉先生の處に船長から非常に詫びて來た相だ。

船の中では牛肉のすき焼が一番の御馳走で日本食も時々は味ふ事を得た、又或晩は乗組員の芝居があつた忠臣蔵をやつたのだが仲々旨いもの、勿論乗客には非常に藝人が多いので毎航海一二回は芝居が見らる昨年布哇行きの際には壷坂をやつたが之も仲々上手であつた。その外乗客中には手品師等も居た。

毎日曜日の午後には必ず乗組員一同汽笛と共に甲板に上り各組に別れて整列しボートにつき人員検査をして一旦事ある時の用意にする。横濱を出發して以來毎日日本丸と云ふ家の中に一定不變の事物を見、同じ人間と毎日顔見合せてるので、最早話もつき果て飽氣味となつて來たが丁度十日にして漸く布哇ホノルル港に着き一夜の宿を陸地にとつて旅の疲れを休むる事を得た。

※原文ママ

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