【現代語訳】山梨日日新聞 明治44(1911)年8月25日付け
【第1回】米国野球界の印象

第2回米国遠征直前の野球部。後列右から4人目が三神吾朗(『稲門倶楽部 100 年』より)
はじめに
今回、貴紙(山梨日日新聞)から僕のアメリカ遠征談を書いてほしいという依頼があったので、現地で見たこと、感じたことなどを書いてみようと思う。
渡米が決まるまでの経緯
まず僕らが渡米することになった経緯を書いて、それから面白かったこと、苦しかったことなどを書くことにする。
ご承知の通り、昨年(1910年)の秋、アメリカ中部のシカゴ大学の選手たちが我が早稲田大学の招待を受けて来日した。もちろん招待なので、旅費及び滞在費はこちら持ちであることは言うまでもない。シカゴ大学の選手たちは東京で早稲田と慶應をそれぞれ3回ずつ試合して全勝(※1)し、それからマニラに行って数回の試合をして帰国した。
このシカゴ大学が日本に来ることになった時には、すでに僕らは近い将来に渡米することができるようになっていた。つまりシカゴ大学との約束が、お礼として僕らを招待するという条件だったのである。
大隈総長「ただ行け」
しかし僕らは昨年の秋、めちゃくちゃに負けてしまったので、とても今年は渡米することはできないだろうと思い、学校ももちろんその考えでいた。
ところが今年(1911年)1月頃、シカゴ大学から今年ぜひ渡米してほしいという手紙が来たので、少し活気が出てきた。色々相談した結果、総長の大隈伯爵(※2)に相談申し上げたところ、伯爵は即座に「ただ行け」との命令であった。
これで僕らの渡米は確定した。これは2月末だったと思う。それから選手は練習を始め、渡米の準備に取りかかった。その後、シカゴ大学から手紙が来て、アメリカでは早稲田大学野球団が来るということで非常に盛り上がっており、特に各大学は歓迎準備に忙しいとのこと。
出発前のエピソード
僕らは早く行きたくて仕方がなかったが、予科(大学準備課程)の生徒は3月20日頃から試験があるので、選手の中の4人は出発前日まで試験を受けるような次第で、同じ月の28日、横浜出航の日本丸(※3)でいよいよ出発と決定した。
監督と選手たち
一行は選手14名、監督1名、都合15名であった。監督としては有名な安部先生(※4)がその任に当たるべきところだったが、所用があり、野球部長であった高杉先生(※5)がその任に当たられた。先生は幼い頃からアメリカにいて十数年現地で勉強し、帰国後早稲田大学で教鞭をとられている方で、英語は日本語よりもむしろ上手なくらいだから、甚だ好都合であった。特に英語の演説となったら最も得意とされるところである。
選手名簿―日本全国からの代表
さて、選手のメンバーは以下の通り。
投手:大村隆行【鹿児島】、松田捨吉【神戸】、山本正雄【山口】
捕手:山口武【新潟】、福長光藏【北海道】
一塁手:大井齊【水戸】
二塁手:原慧徳【福岡】
三塁手:深堀政信【横浜】
遊撃手:大町正隆【高知】
左翼手:八幡恭助【岩手】
中堅手:小川重吉【東京】、三神吾朗【山梨】
右翼手:増田稲三郎【横浜】
マネージャー:伊勢田剛【鹿児島】
ほとんど日本の端から端まで集まっており、日本全国の代表と言っても過言ではないと思う。なお、選手の年齢はもちろん中学卒業生なのであまり若い者はいないが、捕手の福長19歳を最年少に、伊勢田の25歳を最年長として、平均22歳くらいである。
【補足説明】
※1)1910年のシカゴ大戦で早稲田は全敗(3戦3敗)した。
※2)大隈伯:大隈重信。早稲田大学創設者で当時の総長。伯爵の爵位を持つ
※3)日本丸:当時の太平洋航路客船
日本丸級貨客船 – Wikipedia
※4)安部先生:安部磯雄。早稲田野球部創設者で監督
※5)高杉先生:第二代野球部長・高杉瀧藏
【原文】山梨日日新聞 明治四十四年八月廿五日付け
米國野球界の印象(一)
本縣出身早大野球選手 三神五朗
今度貴紙から僕の渡米談を書いてくれと御依頼故彼地で見た事感じた事などを書いて見やようと思ふ。
先づ僕等が渡米するに至つた順序を書いてそれから面白かつた事苦しかつた事などを書く事にする、御承知の通り昨年の秋米國中部のシカゴ大學の選手が我早大の招待を受けて來朝した、尤も招待の事故旅費及び滞在費は此方持なる事勿論である。シカゴ大學の選手は東京で、早稲田慶應を各三回宛試合をやつて全勝し、それからマニラに行つて數回の試合をなして歸國した。
此シカゴ大學が日本に來る樣になつた時は既に僕等は近き將來に於て渡米する事が出来る樣になつていた即ちシカゴ大學との約束が御禮として僕等を招待すると云ふ條件であつたのである。然し僕等は昨年の秋滅茶苦茶に敗死したので到底本年は渡米することは出来ない事を思ひ、學校の勿論その考へで居つた。然るに本年一月頃シカゴ大學より本年是非渡米せられたしとの書面が來たので少しく活氣づく色々相談の結果總長大隈伯に相談申した處伯は即座に只行けとの御命令であつた。
これで僕等の渡米は確定したので之は二月末だつたと思ふ、それより選手は練習を初め渡米の準備にとり掛かつた、その後シカゴ大學から書面が來て米國は早稲田大学野球團が來るので非常な活氣で殊に諸大学は歡迎準備に忙しいとの事、僕等は早く行きたくて仕方がなかつたが豫科の生徒は三月廿日頃から試驗があるので選手中の四人は出發前日まで試驗を受けた樣な次第で同月廿八日横濱出帆の日本丸で愈々出發と決定した。
一行は選手十四名監督一名都合十三名であつた。監督としては有名な安部先生がその任に當らるべき所家事上の都合で野球部長であつた高橋先生がその任に當られた、せんせいは幼時から米國に居で十數年彼地で勉強し歸朝後早大に教鞭をとられてゐる人で英語は日本語よりも寧ろ上手な程だから甚だ好都合であつた殊に英語演説と来たら最も得意とせらるる處である。
扨て選手の面々は投手大村【鹿兒嶋】松田【神戸】山本【山口】捕手山口【新潟】福長【北海道】塁手大夫【水戸】二塁手原【福岡】三塁手深堀【横濱】遊撃手大町【高知】左翼手八幡【岩手】中堅手小川【東京】右翼手增田【横濱】マネーヂャー伊勢田【鹿兒嶋】中堅手三神【山梨】で殆ど日本の端から端まで集まつてゐる日本全國の代表と云つても過言ではあるまいよ思ふ。尚選手の年歯は勿論中學卒業生であるから餘り若いのは居らないが捕手の福長十九歳を一番下伊勢田の廿五歳を頭にして平均廿二歳位である。
※原文ママ




