【現代語訳】山梨日日新聞 明治44(1911)年5月8日付け
早稲田野球団、アメリカに到着 付記 三神吾朗氏の事

渡米前に大隈重信総長(前列右から4人目)と記念撮影する野球部。後列右から3人目に三神吾朗
▷無事到着と予定
ローページ氏(※1)の案内による早稲田大学野球団は、4月13日午後6時にサンフランシスコに入港する日本丸で無事上陸した。一行はこれから以下の日程予定でアメリカ国内を巡り、順路で東へ進み、シカゴ大学の招待に応じる予定である。
4月
18日 スタンフォード大学
20日 サンタクララ・カレッジ
20日 カリフォルニア大学
5月
1日 ユタ州立大学
3日 コロラド大学
6日 シカゴ大学第1試合
9日 イリノイ・マーモス・カレッジ
10日 ノックス・カレッジ
13日 ノースウェスタン大学
19・20日 アームス・カレッジ
23・24日 アイオワ大学
26・27日 ミネソタ大学
29・30日 ウィスコンシン大学
6月
1日 イリノイ州立大学
3日 シカゴ大学第2回
6日 グリネル・ウェスト大学
9・10日 インディアナ大学
12日 パデュー大学
17日 シカゴ大学第3回(以上)
▷盛大な歓迎会
一行がサンフランシスコに到着すると、サンフランシスコ・ハイスクール学生会員らは14日夜8時半から同会場で盛大な歓迎会を開催した。出席者は当夜の主賓である高杉監督(※2)をはじめ野球団一行、中林会長、早稲田交友会及び学生会員など総勢60余名であった。
村重氏の司会のもと、中林会長が会員代表として歓迎の挨拶を行い、次に黒石清作、橋戸頑鉄(信)(※3)、千葉日米新聞記者らの歓迎演説があり、高杉監督が野球団を代表して答辞を述べた。茶話会に移り、アイスクリーム、菓子、果物などでもてなされる中、学生会員2、3名による英語の歓迎辞があった。
野球団一行は雄壮な早稲田校歌でこれに応え、余興として主客双方より隠し芸の披露があり、薩摩琵琶、浪花節、英語暗唱、落語などが最も喝采を博した。互いにエールと万歳三唱を交換し、散会したのは11時30分であった。
▷本団の選手たち
選手14名中、北海道の伊勢田剛25歳を最年長として遊撃手を務め、最も若いのは東京の福永光蔵で捕手を務める。そして前記のほか各出身地は、東京4名、神奈川2名、鹿児島、新潟、茨城、福岡、岩手などである。
本県(山梨県)出身の三神吾朗氏は左翼手を担当する。氏は中巨摩郡大鎌田村の三神有長氏のご子息で、本年22歳である。
▷第1回の試合
一行は上陸した日から2日間静養し、16日日曜日午後2時から、サンフランシスコのゲアリー街と14番街の交差点にあるレクリエーション・パーク(※4)において、太平洋野球団との第1戦を開いた。両軍の対戦は以下の通りである。

こうして激しい戦いが繰り広げられ、さらに18日からは前記の順序により北米大陸を踏破する予定である。一行は元気極めて旺盛で、訪れる先々で日本人の歓迎が最も盛大であるという。
【補足説明】
※1)ローページ氏:H. Orville “Pat” Page氏と思われる。1910年にシカゴ大学の選手兼監督として来日。早稲田の1911年遠征をアレンジした。
※2)高杉監督:高杉瀧藏。早稲田大学教授で野球部長。本来は安部磯雄が行く予定だったが、所用があり高杉が代行した。
※3)橋戸頑鉄:橋戸信。頑鉄はペンネーム。野球部第2代主将で、第2回米国遠征時はサンフランシスコに在住していた。1903年に早稲田が慶應に送った挑戦状を書いたのは、橋戸であったと言われている。1905年の第一回野球部米国遠征の参加メンバー。都市対抗野球大会の創設者。1959年野球殿堂入り。
※4)レクリエーション・パーク:サンフランシスコにあった野球場
【原文】山梨日日新聞 明治四十四年五月八日付け
早稲田野球団着米 附 三神五朗氏の事
▷安着及豫定
ロページ氏の案内になる早稲田大學野球團は四月十三日午後六時桑港に入れる日本丸にて無事上陸せり、一行は是れより左の日割豫定を以て米國内地を巡り順路東行して市俄古大學の招待に赴かんとす
四月十八日スタンフォード大學
廿日サンクラー、カレージ
廿日加州大學
五月一日ユタ州立大學
三日コロラド大學
六日市俄古大學第一試合
九日イリノイ、マーモプス、カレージ
十日ナックスカレージ
十三日ノースウイタン大學
十九廿日アームスカレージ
廿三・廿四日アイオワ大學
廿六・廿七日ミ子そだ大學
廿九・卅日ウィスコンシン大學
六月一日イリノイ州立大學
十三日市俄古大學第二回
六日グイログウェスト大學
九・十日インデブナ大學
十二日バウドウ大學
十七日第三回市俄古大學(以上)
▷盛んな歡迎会
一行桑港に到着するや桑港ハイスクル學生會員等は十四日夜八時半より同會内に於て盛なる歡迎会を開催したるが來會者は當夜の主賓たる高杉監督外野球團一行中林會長早稲田交友及び學生會員等總て六十餘名にして村重氏司會の下に中林會長會員代表として歡迎の挨拶をなし次に黒石淸作橋戸頑鐡、千葉日米記者等の歡迎演説あり高杉監督野球団を代表して答辭を述べ茶話會に移りアイスクリーム、菓子、果物等の饗應中學生會員二三氏の英語歡迎辭あり 野球團一行は雄壮なる早稲田校歌を以て之に答へ餘興をして主客兩方より隠藝の出し合せをなし薩摩琵琶、浪花節、英語暗誦、落語等最も喝采を博し互にエール萬歳の三唱を交換し散會したるは十一時三十分
▷本團の健兒
選手十四名中北海道の伊勢田剛二十五を最年長として遊撃にあり最も靑年なるは東京福永光臓にて捕手にあり而して前記の外各出身地は東京四名、神奈川二名、鹿兒嶋、新潟、茨城、福岡、岩手等にて本縣出身の三神五朗氏は左翼を擔任す氏は中巨摩郡大鎌田村三神有長氏令息にして本年二十二歳なり
▷第一回の戰闘
一行は上陸せる日より二日を静養し十六日日曜午後二時より桑港グアレシヤ街を十四街の交叉點なるレクシヨンパークに於いて太平洋野球團との第一戰を開けり、兩軍の對陳左の如し

表は競技スポーツセンター作成
斯くて龍攘虎摶の激戰あり、更に十八日よりは前記の順序により北米の天地を踏破する由一行元氣頗る旺盛にて到る所邦人の歡迎最も盛んなりと
※原文ママ




