村上春樹に私が出会ってから、台湾が出会った頃まで 村上春樹に私が出会ってから、台湾が出会った頃まで

村上春樹に私が出会ってから、台湾が出会った頃まで

村上春樹ライブラリー開館とともに「村上春樹文学に出会う」エッセイ連載を始めることになりました。本コーナーではさまざまな形で村上文学と関わってきた方々に、村上作品との“出会い”や“絆”について語っていただきます。
今年のクリスマスイブには台湾の村上文学翻訳者である賴明珠先生が珠玉のエッセイを送ってくださいました。賴先生とは数年前に東方国際学者会議で初めてお会いしたのですが、オールド・フレンドとの再会のような親近感を覚えました。その後も連絡をしつづけており、たまに電話で村上文学の話や翻訳の話などをすると時の経つのを忘れて、つい数時間も会話がつづくほど、不思議な縁を感じております。
私が調査した限り、村上作品を最初に外国語に翻訳し、海外の読者に紹介したのは賴明珠先生であり、それは1985年のことです。中国語圏ではまだ村上文学があまり知られておらず、賴先生の名訳は台湾だけでなく、中国大陸の文芸誌などにも掲載され、中国語圏が村上文学に出会うきっかけとなりました。
それでは、1980年代、賴先生がどのように村上文学に出会ったか、見ていきましょう!
最後に、Happy Birthday and White Christmas(『風の歌を聴け』式に)!!!。

監修:権 慧(早稲田大学国際文学館)

村上春樹に私が出会ってから、台湾が出会った頃まで
賴 明珠

村上春樹の名前を初めて見たのは、日本から台湾に戻ってからだが、日本の雑誌の中だった。若くして芥川賞を取った「村上龍」の方は、日本留学時代に『限りなく透明に近いブルー』を読んだこともあり、名前を見ていたのだが、もう一人「村上」が出たなんて面白いと思って、それまで見たことがなかったその名前を覚えたのだ。
しかも一回限りではなく、続いて何回も、何種類もの雑誌の中で村上春樹の名前を見た。好奇心が湧いて、会社のデザイナーたちが定期的に取っていた週刊誌や月刊誌、主に女性誌や広告関係の最近三か月の雑誌を調べたら、なんと十何回も出ていたのだった。1982年10月に『羊をめぐる冒険』が「野間文芸新人賞」を受賞した前後には、多くの雑誌のブックレビューで紹介されていた。そうした記事から、処女作『風の歌を聴け』が「群像文学新人賞」を取ったことや、『1973年のピンボール』が若い読者に受けていることを理解した。
私は当時広告会社でコピーライターの仕事をしていて、中山北路にある日本語書籍専門の永漢書店へ村上春樹の本を探しに行った。そこに村上春樹の初期三部作『風の歌を聴け』『1973年のピンボール』『羊をめぐる冒険』がそろっていた。佐々木マキのカラフルで不思議な絵の表紙にもひきつけられ、三冊全部買って、村上春樹の本を読みはじめた。

『風の歌を聴け』では、冒頭の一言に惹かれた。

完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。

完璧な絶望? 普通絶望を形容するのは「完全」ではないだろうか。しかし「完璧」な絶望は意外と印象が強い。これは作家の特別な考えなのだろう。村上春樹の言葉使いは人に意外性を感じさせる。私はこの最初の一言を中国語で訳してみた。

「所謂完美的文章並不存在。就像完美的絕望不存在一樣噢。」

中国語の習慣なら「完美的絶望」はちょっと矛盾していて、「完全的絕望」の方が一般的だろう。しかし「完全的絶望」では平凡で、ユニークさと意外性がなく、言葉に遊びや楽しさがなくなるだろう。一冊全体を訳すことになったとき、「完全」にするか、「完美(完璧)」にするか、かなり迷った。だが、だんだんこの作家の独特な個性や文体がわかってきて、村上春樹は完璧主義者であろうと感じた。
「完璧な絶望が存在しないようにね。」の語尾の「ね」はとても日本語的で、中国語にはこんな語尾は少ない。それで、訳すときに残すか、略すか、考える。日本語の会話の語尾は相手の気持ちを尊重し、つねにお互いに緊密に呼応する。そんな日本語の心遣いを読者に感じさせたいと思って、場合によって語尾の「ね」を、訳すことにして「噢」として残した。
初期三部作では印象に残るシーンと出会った。

「あと25万年で太陽は爆発するよ。パチン……OFFさ。25万年。たいした時間じゃないがね。」
風が彼に向ってそう囁いた。
……
「太陽はどうしたんだ、一体?」
「年老いたんだ。死にかけてる。私にも君にもどうしようもないさ。」
「何故急に……?」
「急にじゃないよ。君が井戸を抜ける間に約 15 億年という歳月が流れた。君たちの諺にあるように、光陰矢の如しさ。君の抜けてきた井戸は時の歪みに沿って掘られているんだ。つまり我々は時の間を彷徨っているわけさ。宇宙の創生から死までをね。だから我々には生もなければ死もない。風だ。」

現実と非現実との変換は自由自在で、時間と空間のスケールは無限に広がって、生と死の事を直接言い出すのも面白い。

やあ、元気かい?こちらはラジオN・E・B、テレフォン・リクエスト。また土曜日の夜がやってきた。……今日はレコードをかける前に、君たちからもらった一通の手紙を紹介する。
……
僕は・君たちが・好きだ。
あと10年も経って、この番組や僕のかけたレコードや、そして僕のことをまだ覚えていてくれたら、僕のいま言ったことも思い出してくれ。

『風の歌を聴け』の中で、村上は自分でラジオN・E・BのTシャツを描いていた。40年後の今、村上春樹は自分で実際に「村上RADIO」のDJをやっていて、レコードを自分で選んで、読者と一緒に音楽を聴いたり、話したり、またUNIQLOと提携して、Tシャツを作って、作品関係のあるデザインを読者に選べて買えるようにした。
『1973年のピンボール』で、双子の女の子は名前がなく、スーパーの開店記念Tシャツの番号208と209で呼ばれていた。
『羊をめぐる冒険』は、いるかホテル、十二滝部落、アイヌ青年、羊博士、羊男、開拓民の歴史、満州の戦争など…次々に不思議な物語が展開していった。

村上春樹のほかの作品も全部読みたくなって、また永漢書店へ行った。そして、三部作のほか、短編『カンガルー日和』、『中国行きのスロウ・ボート』、稲越功一と共作の写真集『波の絵、波の話、』、安西水丸と共作のエッセイ集『象工場のハッピーエンド』、そして村上春樹の作品を詳しく解読した川本三郎の評論集『都市の感受性』など、村上春樹に関する本を全部買って次々読んだ。
こんな素晴らしい作家の作品を台湾の読者にも紹介したいと思って、以前僑聯企画という広告会社の同僚だった『新書月刊』の編集長周浩正に話したら、「翻訳して見せて、本当に素晴らしければ、雑誌に載せてあげる」と言われた。そしてできあがったのが、1985年8月『新書月刊』23号での「村上春樹の世界」の特集である。
私は川本三郎さんの『都市の感受性』から「都市の中の作家たち」、「一九八〇年のノー‧ジェネレーション」と「村上春樹の世界」を訳し、村上春樹の文体を紹介して、また、三つの短篇「街のまぼろし」、「1980年におけるスーパー・マーケット的生活」(『波の絵・波の話』より)、「鏡の中の夕焼け」(『象工場のハッピーエンド』より)の訳文を加えて、10頁の特集になった。『新書月刊』の「村上春樹の世界」で、「村上春樹」の名前が初めて台湾の読者に知られることとなった。(後に、これは日本国外でも初めて村上春樹の名前が紹介されたということを知った)。
ところが、『新書月刊』誌は次の24号で休刊になり、周編集長は転職して、時報出版社の編集長になった。そこで、村上春樹の作品を引き続き出版してくれるかと聞いたら、翻訳したものを見せてもらわなければ判断できないと言われた。
それで、村上春樹の作品を翻訳するため、会社を辞め、アメリカへ旅行に出た。兄と友人を訪ねて、旅行中『風の歌を聴け』と『1973年のピンボール』を訳して、訳稿を時報出版社の周編集長に送った。

1985年8月『新書月刊』23号、「村上春樹的世界」

また、暫くニューヨークで滞在した時、6番街の紀伊國屋書店で、谷崎潤一郎賞をとった村上春樹の新作『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を見つけた。読み始めると、新しい文体で、二つの物語が交互に進んでいく。エレベーター、金色の獣、図書館、影、壁、世界の終わりの地図……どれも新鮮で、映画を見ているようにわくわくしながら読み進めた。ニューヨークは夏が過ぎ、綺麗な秋が来て、金色の落葉が道端に一面に敷かれた。気温はだんだん低くなって、寒さが厳しくなり、東京の冬を思い出して、異郷で読む『世界の終り…』は、とても感じが奇妙だが、雰囲気は意外と合う、たしかに『The End of the World』と『Hard-Boiled Wonderland』をまさかニューヨークという場所で読むことができたのは信じられないほど完璧な出来事であろう。
紀伊國屋書店で同時に買った『Happy Jack鼠の心 村上春樹の研究読本』は、各分野の人が書いた評論や感想が面白かった。その中で征木高司が書いた「和魂洋装の世界」が特に印象的で、大いに共感した。それは自分が翻訳した最初の二冊に感じた事と一致していたからだ。
私は『羊をめぐる冒険』と『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』も訳したいと思った。それで台北に帰って、周編集長に出版の意向を聞いた。
編集担当の陳雨航も作家で、「自分も村上春樹の文体はさわやかで好きです。ただ、処女作の『風の歌を聴け』は暫く後回しにして、『1973年のピンボール』を先に出したい。そして、新しい作家は短編の方が読者に受け入れやすいので、もう一冊短編集を訳してほしい」と言われた。
そこで『カンガルー日和』を翻訳して見せたら、「内容は面白くていい。ただ、タイトルは童話っぽくて誤解されるかもしれない。だから、ほかの短編、「四月のある晴れた朝に 100%の女の子に出会うことについて」を使おう。本のタイトルは短くして『遇見100%的女孩』(100%の女の子に出会う)にしよう」ということになった。このタイトルは良かった。一部の読者は2冊を買って、一冊は自分に、一冊は恋人か友達にあげるそうで、後にロングセラーになった。
1986年6月15日に『1973年的彈珠玩具』が出版され、半月遅れて7月1日に『遇見100%的女孩』が出版された。『風の歌を聴け』は一年九か月後の1988年4月1日に出版された。

ニューヨーク滞在時の頼先生

もっと多くの読者に村上春樹の素晴らしさを知ってほしいと思い、私はもう一つの雑誌「日本文摘」創刊一周年の1987年1月の特集に「日本80年代の文学旗手」で村上春樹の紹介と、短編作品「中国行きのスロウ・ボート」の翻訳を投稿した。
同年9月10日に『ノルウェイの森』が日本で出版された。
表紙には「今一番激しい100%の恋愛小説」と書かれ、短期間でベストセラーになった。
この情報をいち早くつかんだ「日本文摘」は、すぐに関連企業の故郷出版社で五人の翻訳者、劉惠禎、黃琪玟、傅伯寧、黃翠娥、黃鈞浩を集めて翻訳し、1989年2月25日に『挪威的森林』を出版した。
台湾で多くの読者が「初めて村上春樹の作品を読んだのはこの『挪威的森林』だ」と言っている。
読者は村上春樹の作品を読んで、その文体の斬新さや物語の発想の自由さに引き付けられた。また、簡単な言葉を使って、豊富な内容を生き生きと表現できることに親近感を感じ、刺激され、啓発された
「自分も何か書けるかもしれない。」
「思うままに書きたい。」
村上春樹の作品に励まされて、文章を書いたり、絵を描いたり、作曲したりするなど、自ら創作活動に挑戦し始めた読者は少なくない。
長年読者の一人としても、訳者の一人としても、何より楽しくて、幸せだと思う。

2021年12月24日

プロフィール
賴明珠:台湾・苗栗県生まれ。1969年に中興大学農業経済学部を卒業、同大学研究助手を務めた後、1975年に日本・千葉大学園芸学部に留学。78年帰国後はコピーライターとして広告会社勤務。1985年村上文学翻訳に着手して以来、合計40点以上の村上作品を翻訳。谷崎潤一郎『春琴抄』をはじめ、数多くの日本文学を中国語圏に紹介。

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