重なり合うドラマ/「森」の行方

「村上春樹文学に出会う」シリーズの、2023年度第1回には山口大学の山根由美恵先生よりご寄稿をいただきました。
山根先生は村上文学研究界では非常に有名な方で、十数年前からお名前は存じており、斬新な角度からの村上作品のテクスト分析がいつも私を納得させて、さらに新たなヒントも与えてくれていました。
村上春樹ライブラリーでの勤務がきっかけで、一人の読者という立場からもっと近い距離で山根先生と交流する機会を得ました。昨年12月には国際文学館での講演会に来られ、世界中の『ふしぎな図書館』のイラストを紹介してくださいました。
日本で流通している2版(佐々木マキ版、カット・メンシック版)以外に、アメリカやデンマークなどでは異なるイラストで作品が解釈されていることは非常に興味深く、講演会参加者からも多くの好評を得ました。その際に、最近は映画研究もされていると伺って、ぜひその研究を紹介してもらいたく、エッセイを依頼したところです。
山根先生が取り上げている「土の中の彼女の小さな犬」は村上春樹最初の短編集『中国行きのスロウ・ボート』に収録されていますが、映画化された「森の向う側」はあまり広く知られておらず、私もまだ観ていません。というか観る手段が見当たらないのが現実で……。それでは、山根先生の解釈とともに、「森の向う側」を想像の世界で再現してみましょう。

監修:権 慧(早稲田大学国際文学館)

重なり合うドラマ/「森」の行方

―映画「森の向う側」(原作「土の中の彼女の小さな犬」)―

山根由美恵

1 「森の向う側」について
野村惠一監督「森の向う側」(1988)は、村上春樹「土の中の彼女の小さな犬」(1982)を原作とした自主製作映画である。1980年代に制作された数少ない村上作品のアダプテーションであるが、残念ながら認知度は低い1。しかし、本作は複数の村上文学の要素を有機的に組み込むことで、原作よりもトラウマとの向き合い方が深くなっており、オリジナルの結末は多様な解釈に開かれている。さらに、村上作品のみならず、映画「風の歌を聴け」(大森一樹監督)への応答と思われる部分もある2。私は最近シナリオ3を入手し、野村映画のプロデューサー山田哲夫氏(野村企画)をはじめ、映画制作関係者から貴重な情報を頂き、論考を発表した4。この度、コラム執筆の機会を頂いたので、「森の向う側」の紹介を行いたい。
野村惠一監督について基本情報を最初に記しておくと、1946生まれで2011年に没。1968年、日本大学芸術学部を卒業。同年大映京都撮影所に助監督として入社する。1971年大映倒産後、フリーで企業PR、VP、記録映画等を手がけた。監督した映画は全5作で、「森の向う側」(1988)、「真夏の少年」(1991)、「ザ・ハリウッド」(1998)、「二人日和」(2005、ドイツ・フランクフルト映画祭「ニッポンコネクション」グランプリ受賞)、「小津の秋」(2007)である。
本作のあらすじを次に示す。脚本ではシーンが80に分かれているが、ここでは便宜的に十場面(Ⅰ〜Ⅹ)に分けて記す。主人公Jは海に臨むリゾートホテルに宿泊をしている。絵葉書で「森をさがしにでかける」と告げた友人の手がかり探しも兼ねている(Ⅰ:シーン1〜4)。雨のためホテルから動けないJは、部屋で森のジグソーパズルをしたり、ホテル内で宿泊客の老人や若い女(彼女)を見る(Ⅱ:シーン5〜21)。図書室にいると彼女がやってきて、彼女の身の上を当てるゲームをし、「庭」という言葉で彼女は動揺する(Ⅲ:シーン23〜34)。食堂に移り、話を続けるが、最後にJが右手を見る癖の指摘をすることで彼女の表情が凍る(Ⅳ:シーン35〜38)。老夫婦と彼女、少年の挿話(Ⅴ:シーン39〜51)。Jのガールフレンドの追憶(他の男と寝た、友人がガールフレンドの死を告げる)。Jはガールフレンドの死に自らが関わっている可能性があると思っており、罪悪感を抱えている(Ⅵ:シーン52〜60)。Jは残りの宿泊日程をキャンセルするが、部屋に戻ると彼女からのメモに気づく(Ⅶ:シーン61〜69)。プールサイドで彼女と話す。彼女には愛犬がいたが、犬が死に、預金通帳と一緒に庭に埋める(Ⅷ:シーン70〜73)。高校生の時に友達のため犬の墓を掘り起こすが、恐怖を感じない自分に驚く。その時の匂いが手に残って、今でも消えないと彼女は語る。Jは手の匂いをかがせてほしいと頼み、「石鹸の匂いだけです」と彼女に伝える(Ⅸ:シーン74〜76〈77は削除〉)。森のジグソーパズルはほぼ完成し、Jは森に入り、森の奥に消えてゆく(Ⅹ:シーン78〜80)。
「森の向う側」は複数の村上文学の要素の融合が特徴である。原作の内容をほぼ網羅しながら、『風の歌を聴け』『羊をめぐる冒険』(「僕」と「鼠」の関係)、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(「森」の存在)の要素を組み込んでいる。冒頭(Ⅰ)と結末(Ⅹ)は友人の存在と「森」が強く印象づけられている。冒頭で友人が「森」を探すための失踪をし、Jが友人と「森」を探すためにこのホテルに来たことが断片的な形で明示されている。Ⅱ~ⅨにJと彼女の物語を主軸にした原作通りの展開と設定を変えたガールフレンドの挿話が挿入されている。老夫婦(Ⅱ)と少年(Ⅲ)というオリジナルキャラクターは、前半の山場であるⅣ(庭に関する話題と右手を見る癖の指摘で彼女が動揺)、後半のクライマックスⅦ~Ⅸ(犬に関するトラウマを話す)までの物語を「膨張」(ジュネットの用語)するために創られた人物である。彼らはⅣに至る前段階のⅡ・Ⅲ、クライマックスまでの展開Ⅴ・Ⅵに集中して登場し、単調になりがちのJと彼女の物語に変化をもたらしている。
さらに今回は境界領域の人々(老夫婦・少年)と「森」について着目してみたい。

2 心の傷を抱えた宿泊者たち ―境界領域の人々―
本作は原作で描かれた彼女のトラウマ開示の物語であるとともに、心の傷を抱えた人間達の群像劇となっている。老夫婦は娘(伸子)を37歳の若さで亡くしている。伸子には娘がいて、老夫婦は孫を慈しんでいるが、娘を喪った空虚感は満たされていない。二人がこのホテルに泊まるのは、伸子の新婚旅行先であるこの場が娘(死者)を見ることができる場だからである(夫婦はそれを信じている)。本作の海は死者が住む地となっており、このホテルは「境界領域」(浅利文子)と考えられる。浅利氏は「境界領域とは、本来、生と死、あるいは現実と虚構との境界領域を意味するが、ここでは、特に精神的な意味合い、すなわち、自身や親しい者の死に直面したり、病気や事故や天災等に遭遇したりして、従来身に着けてきた価値観や生き方を見失い、他との関係性において成り立っていた自己が根底から覆される危機的状況に直面した時に経験される内的世界も含めて用いている」と定義づけている5。夫婦は娘を喪った悲しみを、この場を訪れることで癒そうとしている。
老夫婦と同様に、新設された場面に登場する少年も、心に何かしらの問題を抱えている。Jを二度見たり、彼女の目の前で植物を傷つける行為は、話しかけてほしい、今の自分の状態を変えたいという密かなSOSとなっている。この少年の挿話は村上の短編「ハンティング・ナイフ」(1984)を意識したものだろう。
このホテルは、ガールフレンドを死に追いやってしまったことに対する罪悪感を抱えたJ、犬のトラウマで前に進めない彼女、娘が死んだ悲しみを癒やしきれていない老夫婦など、心に傷を抱え「身に着けてきた価値観や生き方を見失」っている人が集まる「境界領域」となっている。少年もその一人であるが、彼の物語は語られないまま終わる。映画では心が晴れ、現実に戻っていくことが予想できる彼女、海を見つめ、死者との邂逅を求めることを今後も続ける老夫婦、現実や死者の世界(海)とは違う世界(森)へ行くJという三様のパターンが描かれている。少年は死者の世界も含め、どの世界に行く可能性もあるが、未定のまま終わる展開は、「境界領域」に入った人達に様々な選択肢があることを示している。これは解釈の多様性に繋がると考えられるとともに、全てがハッピーエンド・バッドエンドといった決着が付けられるわけではなく、「境界領域」で迷ったままの人も多く存在する、いわば「普通の人々の弱さやもろさ、やさしさ」6に寄り添う人生の複層性を表している。

3 「森」の行方
Jと友人は「僕」と「鼠」を連想させる関係性にある。二人は酒場で出会い、毎晩酒を飲んでおり(ジェイズバーの連想)、分身的要素(「君は全く僕とよく似ている」、「でも、君はやさし過ぎる」)も付与されている。さらに、友人は「森をさがしにでかける」と絵葉書に書き残し、失踪しているが、これは『羊をめぐる冒険』の「鼠」が「僕」に絵葉書を送り、それを手がかりとして探す構造と同型である。その上で、本作の特徴は友人が「森」へ行く設定となっているところである。本作では「森」とジグソーパズル(「森」)の映像が何度も挿入される。パズルの映像は、シーン2(パズルが崩れる→11→52→57→69→79で登場し、シーン2で崩れたパズルをJが少しずつはめてゆき、結末部でほぼ完成する(ピースは数個残される)。「森」とパズルの映像が何度も重ねられていることから、Jが完成間近のジグソーパズルの「森」から友人のいる「森」へ入り、友人を探しに出かけたことを予想させる。つまり、ジグソーパズルは「入り口の石」(『海辺のカフカ』)を先取りしたかのような機能を果たしており、「森」は入る人が限られた特別な「場」となっている。また、本作の「森」は『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の「森」を連想させる。つまり、「街」に入るために「影」と離れたが、「影」を殺すことができず心を残し、「街」から追放された者が住む場である。Jは友人の代わりに彼女(友人の妹の可能性を有す)を「境界領域」から現実世界に戻させた。しかし、ガールフレンドを死に追いやったことに対する痛みは消えることはなく、現実世界にそのまま戻れない。そうした中、死の世界とは異なる「森」へ入り、友人を探しながら(分身的な要素があるため、半身を探すという意図も考えられる)、別の生き方を模索する結末となっている。

おわりに
村上は「自作を語る 短篇小説への試み」7において、「僕自身はこの作品がどうも気に入らなくて、あまり思い出したくなかったのだが、今回読み直してみて、まあこんな感じのものがひとつあってもいいんじゃないかという気はした。この作品にもほとんど手は入れなかった」と述べている。映画「森の向う側」はそうした作者の不満について村上作品の複数の要素を融合することで心の闇や空虚感を持つ登場人物を増やし、苦悩を深化させている。心に傷を抱え、現実世界で生きることに疲れた人々の一瞬の邂逅とその後に展開される様々な選択肢を見せることで、人生の複層性を丁寧に描き出している。
この映画は現在ビデオでしか見ることができないが、原作「土の中の彼女の小さな犬」に描かれたモチーフを作者以上に深めた、再評価すべき映画であると考えられる。

注:

  1. 『村上春樹 映画の旅』(フィルムアート社・2022)では掲載されていない。
  2. 今回は字数の関係で触れられなかったが、拙稿「重なり合うドラマ/響き合う「森」――映画「森の向う側」(野村惠一)」(『層』20233)で二作の関係性について述べている。
  3. 上記論文でも本エッセイでも、入手した「シナリオ」=脚本(奥付なし)を参照している。
  4. 注2で記した拙稿のこと。
  5. 浅利文子『村上春樹 物語を生きる』(翰林書房・2021、p253)。
  6. 『読売新聞』(1988年2月19日、夕刊)における「森の向う側」の紹介文。
  7. 村上春樹「自作を語る 短篇小説への試み」(『村上春樹全作品1979~1989③』別刷・オリジナルエッセイ、講談社・1990、Ⅸ頁)。

2023年5月2日


プロフィール
広島大学大学院文学研究科博士課程後期修了。博士(文学)。広島大学等の非常勤講師を経て、2021年10月より山口大学教育学部講師に着任。著書に『村上春樹〈物語〉の認識システム』(若草書房・2007)、『村上春樹〈物語〉の行方―サバルタン・イグザイル・トラウマ―』(ひつじ書房・2022)がある。

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