Waseda Weekly早稲田ウィークリー

コラム

「早稲田スポーツ」以前【第3回】

早稲田倶楽部から体育部へ

大学史資料センター講師 廣木 尚(ひろき・たかし)

ここまで「『早稲田スポーツ』以前」と題して、運動会や武道に熱中する学生たちの姿を追ってきた。その熱中の中から、どのようにして「早稲田スポーツ」は生み出されたのか。【第3回】では、学生たちの課外運動が学校の正式な活動として位置付けられていく様子を見てみたい。

創立まもないころの東京専門学校では、多くの学生が寄宿舎に入り生活を送っていた。しかし、血気盛ん、官憲の弾圧をものともしない彼らのこと、寄宿舎の日常はさながら「東洋豪傑合宿所のやう」(増子喜一郎、1893年卒)。日々、喧嘩(けんか)口論が絶えず、しばしば大立ち回りに発展して仲裁に入るのも命懸けという有り様だった。

1895年4月20日、寄宿舎生の親睦団体として早稲田倶楽部が発足した背景には、このような気風を矯正しようという意図もあったらしい。倶楽部の規約に「体育ヲ盛ニシ徳義ノ実践躬行ヲ重ンズ」とあるのは、運動を教育の一環として捉える思想が次第に広まりつつあったことをものがたっている。当時、帝国大学や慶應義塾など、都下の主要な学校では既に運動部の組織が成り立っていた。

早稲田倶楽部で行われる競技は撃剣・相撲・テニス・野球の4種目とされた。しかし、学生たちに人気だったのは、依然として撃剣などの武術であり、テニス・野球という「ハイカラな運動」(増子喜一郎)ではなかった。

もっとも、早稲田倶楽部は活動環境の面である重大な問題を抱えていた。寄宿舎生たちが武術に打ち込むべき専用の道場がなかったのである。そこで、寄宿舎では副舎長の柏原文太郎(1893年卒)らを中心に道場建設を計画する。難色を示していた学校側を説得し、学校敷地内に道場を建てる許諾を得ると、寄宿舎生たちは熱心に募金活動を行い、1896年12月、大隈家や校友、教職員、犬養毅・島田三郎ら政党政治家等の協力を得て、新道場「七徳館」が建設された。

この道場新設が東京専門学校体育部の設立に大きく関わっていたことが、最近、『早稲田大学百五十年史』編纂(へんさん)が進められる中で分かってきた。というのも、この道場は、完成の後は学校に帰属することとされており、早稲田倶楽部の会員である寄宿舎生だけでなく、全ての学生に開放されるべき施設だったからである。

撃剣部員と初代体育部長・市島謙吉(前列、左から5人目) 1890年代

その結果、1897年2月、学校は体育部規則を制定、初代体育部長には学校の幹事を務めていた市島謙吉が就任した。体育部では学生から毎月体育費を徴収し、高名な師範を招聘(しょうへい)して撃剣や柔術の活動が行われた。

このように、体育部発足後もしばらくは学生の体育活動は武術に集中していた。その傾向に変化が現れるのは、1901年10月、第三代体育部長に留学先のアメリカでテニスに親しんだ安部磯雄が就任してからである。安部体育部長のもと、1901年11月に野球部が、1902年には庭球部が発足した。こうして、いよいよ早稲田の名がスポーツ界を席巻する時代が到来するのである。

庭球部員と第三代体育部長・安部磯雄(中列、右から3人目) 1906年

「早稲田スポーツ」以前【第1回】

 

「早稲田スポーツ」以前【第2回】

 

Page Top
WASEDA University

早稲田大学オフィシャルサイト(https://www.waseda.jp/inst/weekly/)は、以下のWebブラウザでご覧いただくことを推奨いたします。

推奨環境以外でのご利用や、推奨環境であっても設定によっては、ご利用できない場合や正しく表示されない場合がございます。より快適にご利用いただくため、お使いのブラウザを最新版に更新してご覧ください。

このままご覧いただく方は、「このまま進む」ボタンをクリックし、次ページに進んでください。

このまま進む

対応ブラウザについて

閉じる