Waseda Weekly早稲田ウィークリー

コラム

「早稲田スポーツ」以前【第1回】

東京専門学校の「オリンピア」-運動会に集り散じる人びと-

大学史資料センター非常勤嘱託 北浦 康孝(きたうら・やすたか)

「早稲田スポーツ」と聞いて、何を思い浮かべるだろうか。野球部の早慶戦やラグビー蹴球部のエンジと黒のジャージだろうか。あるいは、箱根を駆け抜ける競走部や隅田川の春に華を添える漕艇部かもしれない。これらは多くの人がイメージする「早稲田スポーツ」であろうが、ここに挙げた各部のうち、最も早い野球部でもその創部は1901年11月である。しかし、東京専門学校(1902年9月に早稲田大学に改称)の学生たちは、1882年10月の学校創立直後から、さまざまな運動や武術に取り組み、親しんできた。そこで、今回から3回にわたって、「早稲田スポーツ」以前、東京専門学校時代の「スポーツ」について、紹介することとしたい。

1897年2月に制定された東京専門学校の体育部規則には、「体育の方法」として、郊外運動・器械体操・撃剣・柔術・弓術・テニス・ベースボールが明記されているが、このうち、「郊外運動」は運動会のことである。日本で最初の運動会は1874年3月に海軍兵学寮で行われた「競闘遊戯」とされるが、東京専門学校では、開校翌年の1883年5月に王子の飛鳥山で初めての運動会が行われた。小野梓はその日記に、学生が球を投げたり、旗を奪い合ったことを記している。また、当時の運動会は飛鳥山や向島の墨陀園などへ遠足して行われたが、自由民権運動が盛んであった頃には、旗などに政治的な主張を大書して会場まで行進することもあったという。

運動会委員の集合写真(1888年10月)。幟(のぼり)に「専門学校」とある

さて、運動会ではどのような競技・出し物が行われたのであろうか。1891年4月の春季大運動会は次のようなものであった(『同攻会雑誌』3、1891年5月)。

早朝から学校に集まった学生は、国旗や校旗を翻し、太鼓やラッパの合図で会場の墨陀園に向かう。当日は雨模様であったが、会場には学生や講師、校友ら「四百余名」が会した。百間競走や五百間競走などの短・中距離競走(1間は約1.8m)、走り高跳び、棒高跳び、相撲や撃剣などが行われ、優等者には金牌(きんぱい)や賞品が授与されている。また、二人三脚や障害物競走といった遊戯的な種目も設けられた。競技の後には酒宴が張られ、ユーモアや風刺を交えて景品名を言い表した滑稽福引(「高知県士族」=土佐鰹節、「官吏泣かせ」=帝国議会開会図など)といった余興も催されて、「快飲高吟」は夜まで続いたという。

明治後期の水上運動会(年月不詳)

また、一般の見物人も次第に増えていったようである。『早稲田学報』によれば、1902年4月の運動会では、牛込駅に人があふれ、臨時に貨物列車で運んだほどであった。この頃には会場は穴八幡前の広場になっていた。さらに同誌は続けて、「陸上に於て吾人は既に盛んなる運動会を行ひたり。軈て(やがて)水上に於ても覇を争ふに足る運動会を行ふを得んか。」と記している(『早稲田学報』67、1902年4月)。ここに示唆された水上運動会が初めて開催されるのは、その2年後の1904年10月である。

当時の運動会では、そのために歌が作られることがあった。そのひとつ、墨陀園で歌われた『遊技の歌』は、その一節に「此所(ここ)をしばしの オリンピア」といい、同じく『宴席の歌』は「隅田の流れも 飲み尽くし 空も轟(とどろ)に 歌ふ可(べ)し」と唱えている。運動会はその身体能力を競い、表現する場であるとともに、学生や講師・校友、さらには市井の人々も含めて、「スポーツ」を介し、しばしの間、一所に会する娯楽と交歓の場だったのである。

創立30年記念陸上運動会(1913年10月)。本文の内容と時期は異なるが、大正期の運動会の様子がよくわかる。会場は早稲田大学の運動場(現在の総合学術情報センターのあたり)。明治天皇崩御のため、記念行事は1年延期して行われた

 

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