Waseda Weekly早稲田ウィークリー

コラム

「中島半次郎関係資料」と高等学院の教育-【資料に見る早稲田】第3回

大学史資料センター 非常勤嘱託 山本剛(やまもと・たけし)

「資料に見る早稲田」というテーマの下に、第3回は「中島半次郎関係資料」を紹介しながら、高等学院初代学院長の中島半次郎(1871年~1926年)が同校創設時にどのような教育方針を掲げて、どのような授業を行っていたのかを明らかにしてみよう。

旧学制下(戦前)の早稲田大学に進学するためには、基本的に高等学院(第一高等学院と第二高等学院)を経なければならなかった。すなわち、早稲田大学の「専門学」教育は、高等学院における教育-高等普通教育(教養教育)ないし大学予備教育-に支えられていたのである。

中島半次郎は1920年に高等学院初代学院長として、学校行政の局に当たりながら中島自身も同学院で「修身」の講義を行った。中島は高等学院の教育方針を次のように述べる。すなわち、「諳記諳誦に没頭する代りに自習自学し、進んで独創的に考へしめ、型に入るゝ代りに自己の長ずる所に従ひて自発的に自由に伸びしむる学風」にしたい。これは教授の一方的な「講義」と、それをひたすら「筆記」して「暗記」する、という官立学校の教授・学習形態に対する批判でもあった。

中島半次郎と生徒達

中島半次郎(中列左から3人目)と生徒達

 

「先生は温厚篤実で、学生に対しては慈父の感」があった。生徒は中島をこう評しながら、当時の授業の様子を回想して、次のように述べている。

「先生の講義は五クラス二百人の合同講義だったにも拘わらず、毎学期の終りに試験をされた。それも決して形式的ではなく、一々の答案を詳しく読まれるのであった。と言うのは、新学期の最初の時間に、その前の学期試験の答案のうち、最高点をつけられた答案を必ず読み上げられたからである。しかも、そうした答案は、決して、先生の講義の忠実な理解だけにもとずく内容のものではなく、全くそれと懸け離れたり、むしろ相反するような内容のものであった」。(『早稲田の森』)

さらに生徒の回想を続けよう。

「私の友の一人が答案の中に国家否定の論を書いたのに然し、それが全然自分の講義の内容とは懸け離れたものであり、また御自身としては勿論之に賛同さるゝ筈もないのであるがその友が真剣に考へて叫んでゐるのを尊重して其答案に最高点」を敢えてつけた。(『学友会雑誌』)

生徒のノート「修身」(年代不明)

生徒のノート「修身」(年代不明)

 

「第一高等学院が私の魂に吹きこんで呉れたのは、真実の意味での自由の気魄」である。

統制と画一化に覆われた戦前の教育体制下で、早稲田大学の高等学院には「自治・自由」の雰囲気、生徒たちの知的人間的成長と青春の放胆を保障する独自の学校文化が生まれた。

原稿『人格的教育学の思潮』1914年2月(中島半次郎)

原稿『人格的教育学の思潮』1914年2月(中島半次郎)

 

引用:中島半次郎「高等普通教育の理想」『学友会雑誌』(早稲田高等学院、1921年)、酒枝義旗「第一学院の自由のために」『学友会雑誌』(第一早稲田高等学院、1937年)、酒枝義旗『早稲田の森』(前野書店、1966年)。

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