Waseda Weekly早稲田ウィークリー

コラム

戦没学徒兵の残した1冊のアルバム – 【資料に見る早稲田】第1回

教育・総合科学学術院非常勤講師・大学史資料センター非常勤嘱託 望月 雅士(もちづき・まさし)

柳田喜一郎のアルバム

今回の「早稲田に歴史あり」は「資料にみる早稲田」と題し、3回にわたって大学史資料センターの所蔵資料から、早稲田の歴史のひとコマを掘り下げていく。

10年程前、1冊のアルバムが大学史資料センターに寄贈された。贈り主は関東地方のある古書店主。古書市場にて高値で仕入れたものの、アルバムをめくるうちに値段が付けられなくなり、貼付されていた学生証を頼りに寄贈を決意したのだという。

このアルバムには学徒出陣で出征し、フィリピンの戦場で戦死した、一人の早大生の手紙や写真などが貼られている。その早大生とは、柳田喜一郎。早稲田大学は、このアルバムの寄贈で初めて柳田の戦死を知った。すでに戦後60年がたっていた。

1943年11月30日出征の日。見送りに来た家族と新宿駅駅頭での撮影。写真中央で角帽をかぶっているのが柳田

柳田は1921年生まれ、1943年の学徒出陣時、商学部2年生という情報以外、彼がどのような学生生活を送ったのかわからない。1943年12月、東部第六十三部隊に入隊した柳田は、翌年5月前橋陸軍予備士官学校に入校した。だが卒業を待たずに第十四方面軍教育隊へ転属、南方派遣が決定した。

博多から南方へいよいよ出航という日、柳田は1通の手紙を1枚の写真と一緒に父母に送った。アルバムに貼られたその手紙には、「常に念頭にありありと光り輝くものは、我が家に在りし日の事どもなり。父の姿、母の姿、毎朝夢醒むるとも脳裏に浮かぶなり。…父母よ、許し給へ、吾れ何等為す無くして出で立つとは」とある。これが柳田の絶筆となった。

1944年9月下旬、博多港出航直前の前橋陸軍予備士官学校の生徒たち。向かって左端が柳田。写真に写る15人の生徒のうち、不明1名を除き、12人が戦死した

1944年9月25日博多港を出航、11月11日マニラに入港したが、すでにレイテ沖海戦で連合艦隊は壊滅し、食糧や弾薬の輸送も困難な状態に陥っていた。1945年1月アメリカ軍のリンガエン上陸に伴い、日本軍はルソン島北部への転進を開始した。第十四方面軍教育隊も北部へと移動、アメリカ軍が迫りくる2月、教育隊の卒業を機に、柳田は第百三師団に転属となった。

柳田を待ち受けていたのは、サラクサク峠をめぐる攻防戦だった。アメリカ軍との激戦が続いた。柳田は機関銃小隊長として昼なお暗き密林地帯の渓谷を、磁石1個を頼りに懸命に戦った。そして4月10日の戦闘中、柳田の頭部から顔面に銃弾が貫通した。

今に残る柳田の遺品は、前橋陸軍予備士官学校のこのアルバム、ただ1冊だけである。その末尾には、墨痕あざやかに次の言葉が記されている。

「憧れの南の国へ 美しき夢を懐いて 懐しの故国を去る さらば父母よ 友よ 幸福あれ 喜一郎」

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