大学史資料センター助手 伊東 久智 (いとう ひさのり)
「本校ハ修学ノ速成ヲ旨トシ政治、経済学、法律学、理学及ヒ英語ヲ教授ス」―これは1882年9月に発表された東京専門学校(早稲田大学の前身)の開設広告の一節である。そこに示されたように、同校には開校(10月21日)と同時に政治経済学科・法律学科・理学科の正規三科および各科の生徒が選択受講する英学科が設けられた。
理学科は前年まで政府にあって殖産興業政策に尽力していた大隈重信の重視するところではあったが、生徒数が伸び悩み、程なくして募集を停止するに至った。従って、以降は政治経済・法の二学科が同校の双璧を構成することとなる。
政治経済学科は、その学科名からしてすでに斬新であった。というのも、他学科に包含されるのが一般的であった政治学と経済学とを並立させ、なおかつ一つの学科として独立させたのは東京専門学校が先駆けであったからである。
そもそも、小野梓や高田早苗をはじめとする同校の創設メンバーたちは、政変によって下野した大隈と志を同じくし、政府とは一線を画しながら、近代国家の形成という政治的使命感に突き動かされていた。「都の西北」に政治経済学科という新風を呼び込んだのは、そうした彼らの実践的気風であったのである。
しかし、「大隈の政治学校」とも呼ばれたその独自性は、政府の側からすれば脅威以外の何物でもなく、さまざまな圧迫にさらされることともなった。例えば法律学科は、政府が官学の教師や判・検事の私学への出講を禁じたことで教員確保に難渋することとなり、学内からは都心(具体的には神田地域)への移転計画や学科廃止案すら持ち上がるありさまであった。議論は紛々まとまらず、最終的な判断は大隈に委ねられた。その時下された判断が英断であったということは、現在でも「早稲田」に法学部が「ある」という事実によって知れるであろう。