【ウクライナボランティアレポート】
第3弾「現地で活動をしてみて感じたこと」
学生スタッフ 4年 内田雅子
2月に始まったロシアのウクライナへの侵攻は、今月で開始から10ヶ月が経ちました。ウクライナ本土では、緊張状態が続く中、冬を迎えるなど、状況は厳しさを増しています。また、1500万人以上*が、安全を求めて国境を越えて国外へ避難しています。
※2022年11月現在。国連UNHCR協会による。
その様なウクライナの人々へ人道支援をしたいという思いで、ボランティアをしている早大生がいます。この「ウクライナボランティアレポート」では、早大生とウクライナに関するボランティアをテーマに、数回にわたって記事をお届けします。早大生が現場で見たもの、感じたことをお伝えしていきます。ぜひ最終回までご覧ください!
第3弾では、ウクライナ近隣国でのボランティア活動を通じて感じたことを、参加学生に語ってもらいました!
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- ライター:早稲田大学 早稲田大学 社会科学部2年 齋藤凜花
WAVOCと協力協定を結んでいる日本財団ボランティアセンター(https://vokatsu.jp/)の学生ボランティア派遣事業「The Volunteer Program for Ukraine」の第1陣としてグループ1に参加させて頂き、2022年5、6月に2週間、ポーランドとオーストリアにて活動しました。
5月に出国した私たちは約2週間、ウクライナの国境で活動しました。避難民受け入れ施設や国境付近において、物資や備品の管理・配布などの避難民支援を行うNGOの後方支援に携わりました。

ポーランドとウクライナの国境
なぜ、ウクライナ避難民支援ボランティアに参加しようと思ったのですか。
私は大学で障害者の社会参画について研究しているのですが、自分自身も生まれつき感音性難聴という重度の聴覚障害がある、という理由が大きいです。手術によって、聞いたり話したりすることにはほとんど不自由がなくなりましたが、避難民にならざるを得なかった人たちと同じマイノリティだからこそ、何かできること、気付くことがあるのではないか、と感じて「絶対受かりたい!」という強い気持ちで応募しました。
現地の避難民の方はどの様な様子でしたか?また、どのように感じましたか?
銃弾が飛び交うような中を、子どもの手を引っ張りながら必死に逃げてきた若いお母さん。大切な夫や父親を戦争に見送ったという家族。たったの15分で、生まれてからその日までの荷物をまとめて命からがら逃げてきた親子。彼らが口々に話してくれたバッググラウンドはとても壮絶で、人の手によっておきた災いの不条理さを感じました。
現地に行くまで、ロシアの軍事侵攻や、テレビの前に広がる戦争を嘘のように感じていたのは、私たちがたまたま生まれ育った国が戦争を放棄し、何十年と平和をつくりあげてきたから。いま、国のために命をささげろと言われて戦いにでる日本人や若者は、どれだけいるのでしょうか。
自分の生まれ育った国で、好きなことをして生きたかっただろうに、沢山の夢を抱いていただろうに、それを奪われた市民が沢山いること。戦争の是非は沢山の意見があるけれど、現実はこういうことなのだと感じました。

これからアイルランドに避難する子どもと
渡航前とのギャップはありましたか。
現地で出会った、ボランティアメンバーの出身地は本当に多様でした。アジアからは私たち日本と韓国、欧州各国や北欧はもちろん、アメリカ、カナダ、ブラジルなど。
最も心が揺れ動いたのは、ロシア人の方がいたこと。ロシア語とウクライナ語の語彙共通度は6割程度と言われており、ウクライナ避難民にとって、ロシア人ボランティアは、”言語が伝わる” “言いたいことが伝えられる” 存在。
一方で、ロシア人ボランティアの活動には、かなりのリスクが伴っています。現在ロシアでは、戦争に反対するロシア国民は、罰金を課せられたり、訴えられたりする可能性が高いです。現地で出会ったロシア人は、誰もが戦争を望んでいませんでした。そこには、世界史の教科書で触れるような、西洋諸国の倫理では説明できない、この戦争の複雑な背景が見えてきました。

世界中から届く手紙
帰国後は何か活動されていますか。
直近の取り組みでいえば、早稲田大学でのウクライナ避難民を受け入れるプロジェクトに関わっています。やはり同年代の私たちが文化や生活について紹介することが、日本になじむ第一歩になります。
ただ、そのとき意識しているのは、「同じ大学生」として接するということ。ウクライナ人学生たちは、助けられる対象としての避難民ではなく、一人の学生として大学に溶け込みたいと口にします。その気持ちを大事にしたいと考えています。
今回の活動をして、将来を考える上で何か影響はありましたか。
幼い頃から、将来は国際的な機関で自分と同じような障害者の社会参画に携わりたいという夢を持っていました。しかし訪問後、マイノリティは障害者だけじゃないことを実感し、障害とそもそも認定されないような「制度の狭間で生きる人たちに寄り添うことをしていきたい」という思いが強くなりました。
また、不安定な世界情勢の中で、私自身が今思う、人生でできる一番成長できることは、『コンフォートゾーン つまり 快適な空間を飛び出す』ことだと思います。大きな変化である必要はありません。小さな変化の重なりが、自分自身を別の場所へ連れていってくれるんだと体感しました。
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第3弾は以上になります。最後までご覧くださり、ありがとうございました。
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