トレーニングの個別化に向けた網羅的解析の必要性
運動適応の分子機構の解明とその応用の具体案を提唱
発表のポイント
- 競技スポーツ選手のトレーニングに対する分子レベルでの応答に注目するスポーツオミックス※1に対し、持久性オミックス(Enduromics)と抵抗性オミックス(Resistomics)は、より広範な人々における持久性トレーニングないし筋力トレーニングの独自の分子適応を解析します。
- 持久性オミックスは、酸素利用効率や脂質代謝、ミトコンドリア新生を支える分子経路を解析する複合的オミックスを活用し、持久性トレーニングに対する適応への包括的理解を提供します。
- 一方、抵抗性オミックスは、筋肥大、タンパク合成、神経筋の適応などをもたらす分子メカニズムを解析し、筋力トレーニングの影響に関する評価につながります。
- このような個々人の分子プロフィールを活用することによって、個別化された運動処方(トレーニング)を提供し、健常者のメタボ予防や健康増進、病者のリハビリテーションに貢献します。
概要
早稲田大学スポーツ科学学術院の鈴木 克彦教授とスペイン・Department of Health Sciences, Miguel de Cervantes European Universityの研究チームは、健康増進や疾病予防、リハビリテーションにおける運動トレーニングの効果を高めるために、網羅的解析技術※2の活用と応用について具体案を提唱しました。
心血管系、代謝系、神経内分泌系など全身の生理学的な面への効果から、運動は全般的な健康増進に不可欠です。従来の侵襲的な運動負荷試験では、運動によって引き起こされる分子レベルでの適応の理解にまでは及びませんでした。本論文では、スポーツオミックスから持久性オミックスと抵抗性オミックスを区別して解説しました。具体的には、スポーツオミックスが競技スポーツ選手のトレーニングによる分子応答に注目するのに対し、持久性オミックスと抵抗性オミックスは、さまざまな人々において持久性トレーニングと抵抗性トレーニングそれぞれへの分子応答に着目するものになります。
これらの分野は、有酸素運動ないし無酸素運動で生じる多くの生理学的応答への正しい理解を提供するために網羅的解析技術を活用し、生体応答システムを統合し、バイオマーカーや代謝的特徴を同定することによって、健康を増進し、けがのリスクを減らし、運動の継続を支援する個別化されたトレーニング計画を実現します。競技パフォーマンスや一般人の健康のための持久性オミックスと抵抗性オミックスの革新的な可能性を実証するために、あらゆる人々とトレーニングに関するさらなる研究が必要となります。
本研究成果は、『Sports Medicine – Open』(論文名:From Multi-omics To Personalized Training: The Rise of Enduromics and Resistomics)にて、2025年5月14日(水)にオンラインで掲載されました。
これまでの研究で分かっていたこと
運動は健康増進の基本のひとつとして、認知、免疫、神経内分泌、筋骨格、心肺機能などに効果があります。そのため、運動は個々の臓器を超えて全身の健康に有益です。従来、運動生理学における詳細な分子レベルのデータ取得は筋生検など侵襲的方法※3によるため被験者数や検体量に限界があり、実施可能な検査は多くありませんでした。人体には110,000もの異なる代謝物があり、46,000もの代謝経路が存在します。運動代謝学や生理学の多くの研究が少数の代謝物を測定し、一度に1つか2つの代謝経路しか調べていないことを考えると、現在の研究では部分的な調査しかできていないことは明らかです。このような状況から、運動による組織の変化や代謝経路の同定には網羅的でバイアスの少ない、非侵襲的な解析が求められています。実際に、運動は複数の器官や組織に重要な生理学的変化をもたらすため、そのような変化が多数の分子と関連する経路に関して明瞭な理解が必要になってきます。この点で、台頭しつつある「システム生物学」の枠組みにおける網羅的解析は、包括的でバイアスがなく、高速で侵襲の少ない分子レベルの解析を運動生理学の分野に導入しました。
身体活動は糖尿病、心血管疾患や肥満などの慢性疾患の予防や治療に効果的であることが認識されるようになり、健康のために定期的な運動を促進することは、体力増強のみならず、各種疾病を予防するために医療費削減にもつながります。持久力と筋力のトレーニングは異なる代謝や分子レベルの適応をもたらし、異なる側面の体力維持に不可欠です。また持久性オミックスはミトコンドリア新生や有酸素能力、脂質酸化などを、抵抗性オミックスは筋肥大や筋力増強を正確にとらえることができます。そのため、さまざまな人々のニーズに合わせて、トレーニングを最適化するのに有用です。
今回の研究で新たに実現しようとしたこと、明らかになったこと
持久性オミックスと抵抗性オミックスは持久性トレーニングと抵抗性トレーニングに特化した分子レベルの適応に関して、さまざまな網羅的解析を組み合わせて全容を解明することを目標としています。具体的にはgenomics(遺伝子変異)、epigenomics(遺伝子修飾)、transcriptomics(遺伝子発現), proteomics(タンパク質の変化)、 metabolomics(代謝産物の変化)、lipidomics(脂質の変化)などの各種網羅的解析で得られるデータを統合し、血液や尿、細胞外小胞※4などの体液中の変化と経路を調べます。これらには個人差がありますが、さらに各トレーニング様式がどのように筋力や心肺機能、代謝などの健康効果をもたらすかについてより完全な知見を得るために、これらの網羅的解析は健康関連体力の評価に組み入れられるべきです。本論文では、個々人のデータとニーズに基づいてトレーニングの最適化を実現するために、まずプロトタイプとして持久性オミックスと抵抗性オミックスの概念を提唱しました。
研究の波及効果や社会的影響
従来のトレーニングはしばしば個々人の遺伝的、代謝的差異を無視して標準化されたプログラムを当てはめるものでした。一方、持久性オミックスと抵抗性オミックスは、運動適応に関連する具体的なバイオマーカーや生理的特徴の知見を個別化された運動処方※5に導入する斬新なアプローチです。これにより、病者、健常者ともに運動効果を高められ、よりよい代謝、体力、リハビリテーションの効果が実現されます。この個別アプローチは、トレーニングの限界や障害を予知し、体調や結果の改善を通じてやる気やスタミナを高めるばかりでなく、持続可能な長期的な体力維持と健康状態の目標達成を支援します。さらに、トレーニング内容が個人の運動耐容能や回復力に合わせて調整され、けがのリスクを減らし、コミットメントの維持を促進します。
今後の課題
現在、網羅的解析は限られた研究施設でしか実施されておらず、高額な費用がかかる点もネックとなっており、簡易化や低コスト化による普及が不可欠です。また、網羅的解析に基づく個別化された運動処方にも関わらず、この知見を現実の行動変容にどのように応用するかという課題もあります。網羅的解析データをリアルタイムにウェアラブル技術に統合することはこの分野をさらに進歩させ、その場で生理的応答を踏まえてトレーニングを調整する適応的なフィードバックもできるようになります。ウェアラブル技術のさらなる開発が必要となりますが、これによって疲労の蓄積を避け、栄養や水分補給のタイミングを最適化し、個々人のニーズに合わせた回復法を個別化できるようになるでしょう。
さらに、これらの概念の適用範囲を拡大し、個別化された運動処方やそれに基づく疾病予防・健康管理の理解を促進するために、高齢者や慢性疾患などの異なる対象やトレーニング条件(強度、頻度、様式)で検討する必要があり、課題も残されています。
研究者コメント
持久性オミックスと抵抗性オミックスは、トレーニングを最適化するための分子レベルでの理解を用いて個別化されたトレーニングを実現するための有効なアプロ―チです。これらの開発中の研究領域は、スポーツパフォーマンスのみならず、それぞれの人々の独自の体質や環境を踏まえた科学的根拠に基づく勧告を提供することによって、人々の健康状態を改善する取り組みです。
用語解説
※1 オミックス(omics)
後述する網羅的解析技術のことで、遺伝子変異や遺伝子発現、タンパク質、脂質、代謝産物などジャンルごとにあらゆる成分を測定する技術。
※2 網羅的解析技術
サンプル中の物質群を同時に解析して、その中で何が変動しているかを相対評価する技術。例えば、タンパク質の網羅的解析はプロテオミクスとよばれるが、尿などの生体サンプルを二次元電気泳動という技術でふるいにかけて平面に展開し、異なるサンプルでどのスポットが増減しているかを比較する。
※3 侵襲的方法
生体負担が大きい検査。例えば筋生検は、筋肉に数ミリの針を刺して、筋肉の一部を採取する検査で、出血や神経損傷、感染などのリスクがあるため、一般的には病気の診断目的に医療機関の手術室で実施される。
※4 細胞外小胞
体内の各種細胞が放出する微細な顆粒で、血液循環を介して遠隔の細胞に作用する。その表面には遠隔細胞への運搬や結合を担うタンパク質や脂質が発現し、内部にはマイクロRNAなどの遺伝子発現を調節する物質も含まれる。一部はエクソソームと呼ばれ、臓器連関の仲介因子として注目されている。
※5 個別化された運動処方(トレーニング)
個々人のニーズに合わせた運動トレーニング内容のこと。20年数前に、肥満や高血圧の遺伝子変異(SNP)に着目して効果的に減量や降圧を勧める提案がなされて以来、個人の体質や環境に応じて実現可能な運動処方が研究されてきている。近年の個別化医療ないし精密医療の時流のひとつとも考えられる。
論文情報
雑誌名:Sports Medicine – Open
論文名:
執筆者名(所属機関名):鈴木 克彦 * (早稲田大学スポーツ科学学術院) , Kayvan Khoramipour, Sergio Maroto-Izquierdo, Simone Lista, Alejandro Santos-Lozano (Department of Health Sciences, Miguel de Cervantes European University)
掲載日時(現地時間):2025年5月14日
掲載日時(日本時間):2025年5月14日
掲載URL: https://link.springer.com/article/10.1186/s40798-025-00855-4
DOI: 10.1186/s40798-025-00855-4
研究助成
なし