6月19日(月)、早稲田大学大隈記念講堂に千田健太氏(フェンシング元日本代表・ロンドンオリンピック男子フルーレ団体銀メダリスト)をお招きし、「フェンシングが教えてくれたこと」と題した講演会が開催されました。当日は体育各部員1,185名が参加し、超満員の会場は熱い熱気に包まれました。
千田さんは身長170cmでリーチも短く、フェンシング選手としては体格に決して恵まれていませんが、粘り強く俊敏な動きで対戦相手を圧倒し、猛練習の成果により、国内外の大会で輝ける実績を挙げ、2度のオリンピック出場を果たすと共に、2012年ロンドンオリンピックでは見事にフルーレ団体で銀メダルを獲得しました。
千田さんのお父様(千田健一氏)は、1980年の幻のモスクワオリンピック(※1)の日本代表選手。千田さんが通っていた気仙沼高校の社会科教諭であり、フェンシング部の顧問であったため、健太さんは日々、学校と自宅で厳しい練習漬けの毎日でした。
中央大学へ進学後、寮生活を送りながらフェンシングに集中して厳しくセルフコントロールを実践し、大学2年生の時にワールドカップで第3位に輝き、ナショナルメンバーに定着しました。その後、ウクライナから来日したナショナルコーチとの良き出会いに恵まれ、全体練習後にも個人練習で徹底的に鍛え、誰にも負けない練習量と粘り強いフェンシングで見事、2008年北京オリンピック日本代表に選出されました。
※1:西側諸国が旧ソビエト連邦のアフガニスタン侵攻に反対してオリンピックへの参加をボイコットした大会であったため、オリンピックに参加不可となった大会
2011年3月に東日本大震災が発生し、生まれ故郷の気仙沼市では、津波により1,000名以上の方々が犠牲になりました。千田さんも幼馴染の親友を失い、一時は目標を失いかけましたが、親友の死という悲しい体験の中で故郷の仲間からも励まされ「自分の役割は、ロンドンに行ってメダルを獲得すること」と気持ちを切り替え、再び海外を転戦して実績を挙げ、見事にオリンピック日本代表に選ばれたのでした。
「勝ってメダルを獲得する」「今までお世話になった方々へ恩返しをする」「震災で亡くなった親友のためにも、今度こそメダルを獲る」という目標と重圧を抱えながら、気負い過ぎないようにメンタルトレーニングにも励みました。大会期間中、日本チームは勝ち進み、なんと強豪ドイツとの戦いでは、ラスト2秒で同点に追いつき、延長戦で勝ち見事に銀メダルを獲得しました。
競技引退後、筑波大学大学院修士課程を修了し、現在は博士課程を目指しています。「これからは、スポーツを別の角度から眺めるとともに、今まで知らなかった世界にも積極的に関わって視野を広げたい。フェンシング選手として厳しい日々のトレーニングと様々な試練を乗り越えてきたように、社会の荒波に揉まれながら自分が志した研究者への道を、最後まで絶対にあきらめずに目指していきたい」と熱く語っていました。
日時 | 講師(敬称略) | テーマ |
第1回 (2014/6/9) |
刈屋富士雄(1983年 社会科学部卒・漕艇部OB) エグゼクティブアナウンサー |
「オリンピック実況アナウンサーを目指して」 |
第2回 (2014/11/17) |
阿久根健司(1984年 商学部卒・野球部OB) FC東京代表取締役社長 |
「自立~自ら考え行動する」 |
第3回 (2015/3/9) |
及川晋平(車いす男子バスケットボール日本代表ヘッドコーチ) | 「可能性と選択肢」 |
第4回 (2015/7/6) |
斎藤治子(本学人事部調査役) 小塩康祐 (2011年 政治経済学部卒・ラグビー蹴球部OB) 弁護士・TMI法律事務所 |
「ハラスメント防止と危機管理」 「コンプライアンスについて」 |
第5回 (2015/12/21) |
大渕隆(1993年 人間科学部卒・野球部OB) 北海道日本ハムファイターズ スカウトディレクター |
「文武一道」 |
第6回 (2016/3/7) |
後藤太輔(2002年 人間科学部卒・米式蹴球部OB) 朝日新聞東京本社スポーツ部 |
「アスリートは社会のリーダーに」 |
第7回 (2016/6/20) |
河合純一(2005年 教研終了・水泳部OB) 日本パラリンピアンズ協会会長 日本スポーツ振興センター研究員 |
「夢追いかけて」 |
第8回 (2016/9/26) |
メディア業界関係者 | 「リオデジャネイロオリンピック・パラリンピックを振り返って」 |
第9回 (2017/3/9) |
芝スミ子(日本バドミントン協会 ナショナル強化部長) | 「気配りで人を動かす~リオ金メダル 獲得の理由~」 |