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【開催報告】コロキウム「二〇世紀東アジアにおける儒学の展開と「近代知」の形成」
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- Sun, 27 Sep 2026
2026年8月30日、「二十世紀東アジアにおける儒学の展開と「近代知」の形成」と題するコロキウムが早稲田大学早稲田キャンパスで開催された。本コロキウムは、日本学術振興会科学研究費助成事業・若手研究「熊十力・金岳霖・賀麟の本体論と認識論:二十世紀儒学の展開と近代知の形成」(研究代表者:胡婧、課題番号:26K15834)主催、早稲田大学先端社会科学研究所共催により、公益財団法人三島海雲記念財団の助成と東京大学東アジア藝文書院(EAA)の後援を受けて開催された。
本コロキウムでは、近代東アジアの知識交流における儒学の変容を取り上げた。哲学史の叙述、概念の翻訳、古典の解釈などの観点から伝統的な学問がいかに「近代知」の形成に関与したのかを考察した。また、普遍性・特殊性・歴史性の関係についても議論を行った。午前の個人研究発表と午後の国際シンポジウムの二部構成で、発表者のほか、拓殖大学の陳力衛氏や明治大学の丸川哲史氏ら都内の研究者20名余りが参加した。
一、個人研究発表:哲学史の叙述と文化を越えた思想受容
午前の個人研究発表は早稲田大学助教の胡婧氏が司会を務めた。まず、清華大学博士課程・国際日本文化研究センター外来研究員の張愉佩氏が「概念・方法・叙述――近代日本における『中国哲学史』の成立」と題して発表を行った。

張氏は知識史的な立場から、明治日本における「中国哲学史」という叙述体系の成立について考察した。西周による「哲学史」概念の導入によって、儒学を新しい「哲学」という学術カテゴリーに位置づける概念的な基盤が形成された。また、東京大学総長であった加藤弘之による「中国哲学」・「東洋哲学史」の制度化によって、中国の伝統学術を哲学的に研究するための制度が整えられた。井上哲次郎によって、中国の伝統学術が「哲学」という基準で再編成され、「中国哲学総論」と呼びうる具体的な叙述体系が構築された。この「中国哲学総論」と明治後期の「中国哲学史」に関連する著作との連続性も指摘した。質疑応答では、孫彬氏から井上哲次郎が「中国哲学総論」において清朝考証学を低く評価した理由について質問があった。

東京大学博士課程の李培煒氏は「儒教は汎神論か――章炳麟のスピノザ受容と中江兆民『理学鉤玄』」と題して発表を行った。李氏は、章太炎が「答鉄錚」において孔子の学を「スピノザの汎神説」として捉えたことに注目し、その形成過程と思想的意義を考察した。「無神論」と中江兆民『理学鉤玄』との比較を通じて、同書が章太炎のスピノザおよび汎神論理解の重要な知的媒介であったことを指摘するとともに、仏教的概念を用いた再解釈についても論じた。林少陽氏からは、このテキスト上の対応関係の重要性が評価され、章太炎における宗教の問題、汎神論と無神論の関係、その哲学における位置づけなどをめぐって議論が行われた。
二つの発表はそれぞれ学術的叙述の構築と具体的な思想概念の受容に着目し、近代東アジアの知識交流の異なる側面を示した。一方では中国の伝統学術が新たな知識分類のもとで再編成され、他方では西洋哲学もまた、言語を越えた伝播と解釈を通じて新たな理解を与えられたのである。
二、国際シンポジウム:儒学の再構築・概念の翻訳・古典の解釈
午後の国際シンポジウムでは早稲田大学の劉傑教授が司会を務め、林少陽氏、孫彬氏、建部良平氏が順に発表を行った。

澳門大学の林少陽氏は「明末以来の『西洋』、数学的普遍主義と情の普遍主義――清末における章炳麟の戴震解釈」と題して発表した。発表は、グローバル・ヒストリーと比較思想の視点から、明末以来の西洋数学・天文学の伝来を清代儒学内部の批判と再構築に結びつけて論じるものであった。林氏は、戴震による西洋学問の受容が暦算の知識にとどまらず、数学的な確実性と「情」の普遍性によって儒学を再構築する試みとも関わっていたことを指摘した。『孟子字義疏証』の分析を通じて、戴震が「情」「欲」を出発点として程朱理学の「理」を批判し、「理をもって人を殺す」という社会的抑圧の問題を明らかにしたことが示された。
発表ではさらに章太炎による戴震思想の継承と変容が検討された。林氏によれば、章太炎は清末革命の文脈において、戴震による「天理」批判の矛先をさらに「公理」へと向けた。普遍的な原理を標榜する言説もまた、個人を拘束し、暴力を合理化する根拠となりうるというのである。章太炎は仏教・荘子・清末の西学の資源を用い、個人の自主性と差異性を強調した。この考察を通じて、戴震から章太炎へと連なる思想的関係とそこに見られる科学と倫理、個人と権力の複雑な緊張関係が示された。

清華大学の孫彬氏は「西周における『先天』と『後天』概念の翻訳と移植――儒学との関連をめぐって」と題して発表した。発表では、中国古典および儒学における「先天」「後天」の意味をたどり、認識論・論理学・倫理学・学問体系という四つの側面から西周の思想における両概念の新たな用法を考察した。認識論の側面では、西周が「先天」「後天」によって a priori と a posteriori を翻訳し、時間・空間などの概念を通じてカントの認識論を紹介したことが論じられた。論理学の側面では、事物・思想・名称の関係をめぐり、事物の認識から名称の形成へと至る順序と既存の言語環境のなかで名称を先に知り、事物を後に知る場合とが検討された。
倫理学の側面では、孫氏は西周による「天倫」と「人倫」の区別を分析し、自然に形成される倫理関係と人為的に構築される倫理関係を理解するために「先天」「後天」がどのように用いられたのかを説明した。また、西周が「物理」と「心理」をそれぞれ「先天の理」と「後天の理」として捉え、両者を哲学において統一的に理解しようとしたことも論じられた。これらの分析から、儒学のカテゴリーは西洋哲学の翻訳・紹介に際して既存の言語的道具として用いられただけではなく、新たな問題や知識分類に応じてその意味自体も変容したことが示された。

明治大学の建部良平氏は「吉川幸次郎の翻訳論――『洛中書問』における儒者の翻訳」と題して発表した。大山定一と吉川幸次郎の往復書簡『洛中書問』に見られる翻訳論を整理した上で、それと吉川の戦後の訳業との関係を論じた。発表では特に、吉川訳『論語』において訳文と注釈が一続きの叙述として示される点が取り上げられ、そこに翻訳としての独自性があることが強調された。
三、全体討論:翻訳の創造性と普遍性の歴史的条件
全体討論は劉傑教授の司会により、三つの発表に共通する翻訳の問題を中心に進められた。劉教授はまず、翻訳は外部の知識を伝えるだけでなく、既存の思想に対する新たな理解をもたらすものでもあるのか、という問いを提示した。また、儒学の概念を用いて西洋哲学を解釈したり、中国の古典を現代の言語へと翻訳したりする際に、訳者は文化的差異を越える普遍性の問題をどのように扱うのかと問いかけた。
これに対して林氏は、儒学の普遍性と外来の知識との出会いに着目し、異なる思想資源の交流と競合が既存の学問の再構築をどのように促したのかを説明した。孫氏は、翻訳は近代東アジアの思想家が西洋の学問を理解し、普遍性とのつながりを築くための重要な過程であると指摘した。同時に、「哲学」などの概念の導入は自らの思想的伝統を再発見し、理解し直す契機にもなったという。建部氏は吉川幸次郎の古典研究に即して、吉川の翻訳活動には人間に共通する感情への探究が含まれており、その関心は中国文化の特殊性を示すことに限られるものではなかったと補足した。三者の応答を通じて、知識の伝達と思想の創造という二重プロセスとしての翻訳の意義がさらに掘り下げられた。
その後、議論は東アジアの近代における発展の差異へと移った。劉教授は、異なる地域が一定の思想資源を共有し、それぞれに翻訳と知の再構築を経験していながら、なぜ顕著な差異や格差が生じたのかと問いかけた。この問題をめぐり、発表者たちはまず「近代」の起点とその判断基準について論じた。林氏は、16世紀におけるグローバルな流通の展開にまで視野を広げ、長い時間的な幅のなかで知識交流を理解する重要性を強調するとともに、国民国家と「国語」の成立が従来の漢文世界のつながりや翻訳の条件をどのように変えたのかについても述べた。建部氏は、19世紀末から20世紀初頭にかけての新史料や出土資料の出現に注目し、既存の経典よりも古い資料が経典の権威や中国・日本などの歴史叙述の起点を問い直す契機となったことを指摘した。これらの応答は、地域間の差異をどのように説明するかが、「近代」とそれに関わる知の変化をどのように捉えるかにも左右されることを異なる側面から示唆するものであった。
これを受けて、劉教授はさらに普遍性と歴史性の関係を問題として提起した。歴史的な特殊性の強調は普遍性の問題を回避する理由となりうるのか。また、普遍性は具体的な歴史を離れて論じうるのか。発表者たちは思想史上の経験と文化を越えた理解の観点からそれぞれ応答した。議論では、一方で普遍主義の言説が支配や暴力の合理化に用いられうるという問題が取り上げられ、他方で、異なる歴史的経験のなかに共通する問題や感情をいかに見出すかが論じられた。ここでは普遍性が特殊性と対立する抽象的な概念にとどまらず、具体的な歴史的関係のなかで絶えず検討され、理解されるべき問題として捉え直された。
会場からの質問は議論をさらに「啓蒙」と知識の伝播における権力関係へと導いた。明治大学の丸川哲史氏からは、翻訳・移植・啓蒙が必ずしも対等な関係のもとで行われるわけではなく、概念が伝播する歴史的条件や、誰が誰に知識を伝え、誰がそれを受け取る側に置かれるのかといった問題を考察する必要があると指摘された。この質問では竹内好による魯迅理解にも言及しながら文学と啓蒙の関係が問われた。これに対して建部氏は思想史において主流とはされてこなかった人物や学問的実践に注目することで、既存の叙述によって見えにくくなっていた問題を再発見し、「押しつけ」ではなく「発見」を通じて理解を深められる可能性があると述べた。こうして議論は翻訳の歴史的役割から今日の思想史研究がいかに対象を選び、叙述を構成するのかという方法上の問題へと広がった。
最後に、主催者の胡婧氏が自身の研究に即して討論のなかで繰り返し取り上げられた普遍性と特殊性の問題に応答した。胡氏は、普遍性は必ずしもその現れ方の同一性を意味するものではなく、具体的な歴史・文化・宗教の文脈に即して理解する必要があると指摘した。そのうえで、両者を単純な二元対立として捉えるのではなく、普遍性とその具体的な実現形態との関わりや緊張関係をさらに考察する必要があると述べた。その後、発表者および参加者に謝意を表した。
「中国哲学史」の叙述の形成から西洋哲学の概念の翻訳・紹介、儒学内部の批判、中国古典の現代語訳に至るまで、本コロキウムでは、具体的なテキストと思想的実践に即して、東アジアにおける「近代知」形成の多様な道筋が検討された。各発表と全体討論を貫いていたのは知識がいかに言語や地域を越えて移動するのかという問いだけではない。既存の概念がいかに新たな意味を獲得し、異なる思想的伝統が歴史の変化のなかで共通する問題をいかに捉え直すのかという問いでもあった。