歴史館に多く寄せられるご相談についてご紹介します。
Q. 小泉八雲と早稲田大学の関係は?
小泉八雲(ラフカディオ・ハーン/ヘルン)が早稲田大学で教えていた、という話は本当か。
A. 1904年、教壇に立ちました。
1903年[明治36]3月に小泉八雲は東京帝国大学を退職します。『早稲田大学百年史』は以下のように記述しています。
その後ラフカディオ・ヘルンは、畢生の大作『神国日本』(Japan: an Attempt at Interpretation)の著作に心血を振り絞った。これ彼の日本観の総括であり、結論であり、そして前の全著作の要約でもある。一読すると、執筆しながら、この著作と心中して倒れるのではないかとの危惧に時々襲われているのがよく分って、読者の背筋を寒くさせる。またその『怪談』(Kwaidan)もまとめた。
その時、夫人節子の遠縁でもあって、前々から小泉家の世話を見ている、法学博士梅謙次郎が早稲田に仲媒したと田部隆次が記している(『小泉八雲』二三三頁)のは、そちらから見てのことで、早稲田では、ヘルンを迎えてはの議が先ず文科学生の間から起り、当局を促し、高田の命を受けて内ヶ崎作三郎が使者としてヘルンを訪れたと伝えられている。市島は『避寒小録』巻二に「帝国大学では一週十二時間で一年四千出して居つたのを、早稲田では六時間一年二千円で交渉中だ」と三十七年一月に記しているが、結局、毎週四時間その教壇に立つことが実現した。
ヘルンはその頃の早稲田の未整備な野人的空気に、アット・ホームな安易さを感じた。東大では人を嫌って、決して教員室には入らず、放課時間には池の端のみを散歩するので有名であったヘルンが、早稲田の教員室の片隅で、鉈豆ギセルで煙草を喫みながら、時々は話の仲間に加わるというほどの変化を見せた。
また早稲田大学歴史館所蔵資料 早稲田大学本部書類 5-004-047「教員認可願(大学部文学科英文科)〔小泉八雲〕」は、小泉八雲を大学部文学科英文学教授として迎え入れるため、大学理事・鳩山和夫名で文部大臣・久保田譲に認可を求めています。
しかし早稲田での講義は短期間で終わりを迎えます。
また、日本文化の紹介者として高名な小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)も本学に招聘され、一九〇四年四月より英文学を講義したが、突然の逝去によりわずか五ヵ月間の授業担当に終わった。
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