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[FAQ]大隈遭難関係資料はあるか?

歴史館に多く寄せられるご相談についてご紹介します。

Q. 大隈遭難関係資料はあるか?

1889年10月18日の「大隈重信遭難事件」に関係する資料は所蔵しているか。

A. 関係すると思しき資料を所蔵しています。

まず事件について早稲田大学および大隈本人がどのように記述しているかを簡単に確認します。

遭難の経緯について、『早稲田大学百五十年史』は以下のように説明しています。

 その後、条約改正に対しては、政府部内からも反対の声が大きくなる。一方で黒田清隆首相は一貫して大隈を擁護し、反対派の攻勢に怯むことなく改正交渉の継続を主張した。こうした紛糾状況をまとめるべく、一八八九年一〇月一五日、一八日と天皇臨席の上での閣議が開催されたが、結局この閣議でも議論がまとまることはなかった。議論に決着をつけたのは、閣議ではなく、その帰途におこった事件であった。すなわち、一八日の閣議後、大隈は馬車で官邸に戻る途中、霞が関の外務省門前において爆弾を投擲され、重傷を負うことになった。爆弾を投げたのは福岡の国権派団体玄洋社の社員で、来島恒喜(くるしまつねき)という二九歳の若者であった。来島は爆弾を投げた後、その場で短刀で喉を突き自殺した。

『早稲田大学百五十年史』第一巻、第一部 近代国家像をめぐる相克と「学問の独立」―東京専門学校時代>第三章 公教育制度の整備と東京専門学校―一八八六~九三年―>第四節 東京専門学校と政治>一 条約改正問題と学生・卒業生

また『早稲田大学百年史』は、事件を以下のように描写しています。

 明治二十二年十月十八日夜、東京の各新聞社は、何れも号外を発行して「大隈外相の遭難」を報じた。この報道は各新聞とも、翌十九日から一せいに詳報を載せたが、当時の新聞は多少なりとも各政派の御用新聞か、機関紙であったため、記事の取扱い方に親疎があったことは否めない。よってここでは、『大隈侯八十五年史』第二巻第五編の、同事件の記事から抜粋して、その真相を伝えてみよう。
事件の起ったのは、前述の如く十月十八日。当日は閣議があったのでこれに列席し、午後四時五分頃、首相官邸を出て馬車を利して霞ヶ関の外務省へ向った。馬車が外務省の門を過ぎようとした頃、フロックコートを着た三十歳ぐらいの男が足早やに車に近づいて来たので、怪しと見た馭者は馬に一鞭をあて、車を反転して門前の下水橋に差し掛かった。ちょうどこの時一・五メートルぐらいの距離に迫った件の男は、手に持った包みを馬車の真上に投げつけた。途端に一大爆音が地上を震動させ、馬車の一部はかなりの損傷を受けたが、からくも難を逃れて門内深く姿を消した。この爆音を聞きつけた護衛の警部は、直ちに馬車から飛び降りてその男を追ったが、彼はこと成れりと考えたものか、矢庭に懐中から白刃を取り出し、咽喉に突き立て、朱に染まって路上に倒れた。
一方大隈もまた血に染まりながら、玄関側の広い一室にかつぎ込まれた。偶然この時外務省門前を通り掛かった高木兼寛海軍軍医総監は、変事と見て省内に駆け込み、大隈の遭難を目の当りに見ることができた。一方兇変に接した関係者達は、直ちに佐藤進医師、帝国大学のベルツ博士、その他伊東、岩佐、池田三侍医を招き診察した結果、右足の膝関節以下が砕け、その上部辺りから切断しなければならなかった。手術は午後七時五十五分に始まり、八時三十七分に終ったというが、時間にして約四十分間、これほどの大手術を短時間で完了できたのは、さすがに当時一流の国手達の手腕によるものと敬服せざるを得ない。なお、切断された足は現在でも日赤に保存されている。
被爆の時、唯一声「馬鹿っ」と大喝した大隈は、顔色も変えずに自ら車から降りようとして叶わず、漸く広間に運ばれたが、逸速く駆けつけた加藤高明秘書官の手を握った時、加藤はその握力の強いのに驚いたという。日頃、生死を国家に託した大隈は、これぐらいのことでは微動だにしなかった。その政治家としての信念の偉大さを改めて感じさせられるではないか。

『早稲田大学百年史』第三巻>第三編 東京専門学校時代後期>第一章 帝国議会の開設>二 大隈の遭難

また『大隈伯社会観』(1910年)などいくつかの書籍に「吾輩が暗殺者に爆裂弾を投付けられし当時の追懐談」などのタイトルで、この事件の思い出が掲載されています。

大勇気ある来島恒喜

そこで、吾輩が爆裂弾を喰つた当時の光景は、ドンな風であつたかと云ふに、そりや実に悽然たるものであつた。君等は爆裂弾の味は知るまいが、喰はした奴は実に壮快だと感じたであらう。
吾量が爆裂弾に会ふ順序は斯うだ、我輩は内閣に於て、盛んに条約改正問題を討議し、大なる抱負と腹案とを持して、意気揚々馬車を駆つて、外務省に赴かんとし、まさに門内に入らんとする一刺那、彼の時遅く、此の時早く、轟然たる響と共に、馬車は半は空に飛び、主人公の我輩は地上に人事不省の姿となつて横はつた。
「大臣がやられた!」
といふや、省の内外は大騒ぎとなり、大混雑を極めんとする時、爆裂理を投げた来島恒喜は、我輩の卒倒したのを見て、首尾よく目的を達したと思ひ、遊然として割腹して仕舞つたのである。

ブランデーでは痛みは去らぬ

が我輩は暗殺者の見込み通りに、さう容易くは往生しない。兎に爆爆裂のお見舞ひを頂戴したのだから、一時は気絶したが、直ぐ気が付いた。けれども何処をやられたかどうも解らない、唯だ脳の具合が激くポンヤリして居るから、サテハ頭をやられたなと思ひ、ソツと頭に手を当てゝ見ると、依然として存在して居る、其中に北川といふ外務省の小使、──今は邸に居るが、──其者に扶けられて、省の玄関を上らうとしたが、一方の足が少しも利かない。利かない筈だ、此時すでに微塵に砕けて居たのである、けれどまさか乞食や何かの様に、玄開にゴロリと寝る訳には行かないでとう/\一本の足で室に辿り着き すぐ寝台の上に横臥して見ると一方の足が、ヅン/\と痛みを感じて来て、どうも其痛い事は堪らぬ、其処でブランデーを飲んで少しでも其痛みを減さうとしたが、ブランデー位では屁の役にも立たない。
さう斯うして居る中に、橋本と佐藤の両博士が、宙を飛んて駆け付けて来て、診断すると、一刻も猶予は出来ないといふので、外務省で直ちに足一本切られて仕舞つた。爆裂を浴びた上に、また切られるとは割に合つた話でない。

大隈重信ほか『大隈伯社会観』(文成社、1910年)。国立国会図書館デジタルコレクション

 

それでは関係資料を見てみましょう。

1. 「遭難服」

庶務課移管資料090「〔シルクハット〕」、同094「〔老侯服〕(大隈重信の遭難服・靴)」
早稲田大学写真データベース(原版写真)A018-01「大隈重信遭難(1889年10月18日)時の衣服」

早稲田大学写真データベース(原版写真)A018-01「大隈重信遭難(1889年10月18日)時の衣服」

2. 座布団

庶務課移管資料100「〔座ぶとん、ひざ掛け〕」

収蔵資料の棚卸しの際、東伏見移転以来触れた形跡のない包みを開梱したところ、汚損した座布団2枚と厚手の敷布様のものが確認されたため、防虫・防カビ処置をすることになりました。来歴等の記述は目録に見当たらず、この時点では、旧大隈邸にあったものではないかという認識でした。

庶務課移管資料100「〔座ぶとん、ひざ掛け〕」。下の2枚の画像は反対面

庶務課移管資料100「〔座ぶとん、ひざ掛け〕」

庶務課移管資料100「〔座ぶとん、ひざ掛け〕」

のちに別の資料群を整理していた際、アーキビスト・スタッフは『第三回大隈記念祭展覧会陳列目録』という資料を手にしました。

『第三回大隈記念祭展覧会陳列目録』

ページをめくると、そこに「老侯遺品」の「明治二十二年遭難当時の遺品」として、「フロック・コート」「シルクハット」「靴」等と並んで「膝掛・毛布」「座布団」という記述がありました。

『第三回大隈記念祭展覧会陳列目録』部分

また『早稲田清話』(1922年)に「遭難当時の服装全部」という写真版が掲載され、「フロック上衣、ズボン、胴衣、シャツ、ヅボン下、ホワイトシャツ、靴一足、座蒲団膝掛、夫人の丹前、帽子等、黒く汚れたるは斑斑たる血痕、破れたるは弾痕なり」と付記されています。

『早稲田清話』p. 161

これらの記述、資料群としてのまとまりおよび資料の状態を総合的に勘案すると、遭難時あるいはその直後に使用していたものと推定されます。座布団の黒くなっている部分は血痕のようにも見えます。

3. 療養に関する資料

大隈信幸氏寄贈大隈重信関係文書

資料群「大隈信幸氏寄贈大隈重信関係文書」には、遭難後の大隈の容態に関する資料や通信等が小分類「大隈重信遭難関係」としてまとめられています。

大隈信幸氏寄贈大隈重信関係文書5-(イ)-1-1「大隈重信容態記録」

大隈信幸氏寄贈大隈重信関係文書5-(イ)-1-2「大隈重信容体書」

大隈信幸氏寄贈大隈重信関係文書5-(イ)-1-3「書翰(中井薬局)」

大隈信幸氏寄贈大隈重信関係文書5-(イ)-1-5「封筒(「御遭難当時御容体書類」)」

大隈信幸氏寄贈大隈重信関係文書5-(イ)-2-1「解熱丸 包紙(中井薬局)」

大隈信幸氏寄贈大隈重信関係文書5-(イ)-2-1「解熱丸 包紙(中井薬局)」。「キニーネ」など薬品名が書かれている

大隈信幸氏寄贈大隈重信関係文書5-(イ)-2-1「解熱丸 包紙(中井薬局)」。包紙の内容物

大隈信幸氏寄贈大隈重信関係文書5-(イ)-2-2「療養食事献立」

大隈信幸氏寄贈大隈重信関係文書5-(イ)-2-3「処方」

大隈信幸氏寄贈大隈重信関係文書5-(イ)-2-4「御睡眠時間表」。画像三点は全て同一資料である

大隈信幸氏寄贈大隈重信関係文書5-(イ)-3「診断書」。 大隈遭難事件によって黒田清隆総理大臣を含む全閣僚(ただし大隈を除く)が25日に辞表を提出したため、天皇は黒田のみを辞任させ、三条実美内大臣に総理大臣を兼任させた。この診断書は三条宛となっている

大隈信幸氏寄贈大隈重信関係文書5-(ハ)-1「栃木県上都賀郡他八郡、横尾輝吉他連署見舞状」

大隈信幸氏寄贈大隈重信関係文書5-(ハ)-1「栃木県上都賀郡他八郡、横尾輝吉他連署見舞状」

大隈信幸氏寄贈大隈重信関係文書5-(ハ)-1「栃木県上都賀郡他八郡、横尾輝吉他連署見舞状」

大隈信幸氏寄贈大隈重信関係文書5-(ハ)-2「新潟県東京専門学校校友市島謙吉他連署見舞状」

大隈信幸氏寄贈大隈重信関係文書5-(ロ)-2「書翰(高橋種紀[成田虎治])」

大隈信幸氏寄贈大隈重信関係文書5-(ロ)-8「書翰(日本赤十字病院)」

4. 療養中の写真

早稲田大学写真データベース (原版写真) B068-01「1889年遭難後静養中の大隈重信と近親その他(看護婦4名他)」

早稲田大学写真データベース (原版写真) B068-01「1889年遭難後静養中の大隈重信と近親その他(看護婦4名他)」

5. 松葉杖・義足

庶務課移管資料088「〔ステッキ・松葉杖〕」

庶務課移管資料088「〔ステッキ・松葉杖〕」『図録 大隈重信』p. 109より転載

庶務課移管資料091「〔義足〕」

庶務課移管資料091「〔義足〕」『図録 大隈重信』p. 109より転載

ところで冒頭に引用した『早稲田大学百五十年史』は、次のように続けています。

 特筆すべきは、来島の所属する玄洋社に参加し、その葬儀の手配を行なった学生が東京専門学校にいたということである。木原勇三郎(一八九〇年邦語政治科卒業)がその一人である。木原はかつて秘密出版事件でも逮捕されており、おそらく大隈案に対しても反対の姿勢をとっていたと推察される。しかし、それに対する排斥運動が学内でおこった形跡はなく、木原も普通に学校を卒業している。学校内で条約改正に対する反対の動きがなかったことは、本学が大隈や大隈系党派に対する異論を許さなかったとか、特定の党派に誘導するような教育を行なっていたのではないことが、この一事からもわかる。

『早稲田大学百五十年史』第一巻、第一部 近代国家像をめぐる相克と「学問の独立」―東京専門学校時代>第三章 公教育制度の整備と東京専門学校―一八八六~九三年―>第四節 東京専門学校と政治>一 条約改正問題と学生・卒業生

早稲田大学図書館は「古典籍総合データベース」にて、「兇徒来島恒喜之像」の画像を掲載しています。

早稲田大学図書館 ヌ06 09309「兇徒来島恒喜之像」

来島恒喜の墓所は、東京都台東区の谷中霊園と、福岡市崇福寺の玄洋社墓地に所在しています。

本Web記事のテキストおよび画像の引用にあたっては以下の情報を出典として付記してください。


早稲田大学歴史館は、歴史資料を収集・整理・保存・公開するアーカイブズであると同時に、教育研究・学生・卒業生の活動に関する展示を行う博物館として、建学以来の個性と越境性を広く世界に発信しています。

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