柴田元幸さん(国際文学館顧問)
2026.10.05
アメリカ文学研究者で、ポール・オースターやスティーヴン・ミルハウザー、レベッカ・ブラウンなど、アメリカの現代作家の作品を数多く翻訳してきた柴田元幸さん。
2023年に国際文学館の顧問に就任し、2024年度には「国際文学館翻訳プロジェクト」を立ち上げ、次世代の翻訳者育成にも取り組まれています。開館5周年にあたり、文学との出会いから学生時代の経験、翻訳の仕事を振り返るとともに、その活動を通して感じてきたことや、翻訳プロジェクトの今後の展望について、お話をうかがいました。
幼少期に物語を吸収したのは漫画から
僕は漫画も立派な文学だと思う
——柴田さんの文学との初めての出会いはどのようなものだったのでしょうか?
何を文学とするかによると思うけれど、物語を吸収するって意味でいうなら、漫画でした。僕は漫画も立派な文学だと思っています。
「少年サンデー」で連載されていた赤塚不二夫の『おそ松くん』が好きでした。赤塚不二夫って、ナンセンス漫画も描くけれど、結構センチメンタルな部分もあって……。これは大人になってから気づいたんですが、明らかにオー・ヘンリーの短編をベースにした話もあるんです。それから、水木しげるも好きでしたね。連載当初は『ゲゲゲの鬼太郎』ではなくて、『墓場鬼太郎』という題名だったんですが、今、読み返してみても、あれは立派な怪奇文学ですよね。家には全然本がなかったけれど、代わりに優れた漫画に出会えたことは、ラッキーだったと思います。
——ご自身のエッセイで、「中学生の頃、オー・ヘンリーの短編をノートに書き写していた」と綴られています。海外の文化や英語への興味はいつ頃から持ち始めたのでしょうか?
僕が中学生の時はビートルズやローリング・ストーンズ、ビーチ・ボーイズなど、英米のバンドの全盛期で、とにかく好きでも嫌いでも彼らの音楽が耳に入ってきました。だから、「こういう音なんだ」というところから英語に接し始めたんです。そう言うと、僕は当時から耳が良かったっていう話になりそうだけど、そうではなかったですね。ただ、英語の成績は良くて、教科書はすぐに読み終わっちゃうので、「教科書以外に何かないかな?」と思って本屋に行ったら、中学生向けに易しく書き直した英語の読本が並んでいたんです。それを一冊一冊、辞書を引きながら訳していきました。
大学で、永遠の文学青年と
訓詁学派に出会えたのはラッキーだった
——東京大学では英文科で学ばれたそうですが、アメリカ文学を専攻することは、高校生の時から考えられていたのでしょうか?
いやいや、高校時代は麻雀ばかりやっていて、大学で何をしたいとか、考えたこともなかったんです。今、思うと東大の文科三類は3年生に上がる時に専攻を決める仕組みだったのがよかった。情けない話ですが、英語が比較的得意だというだけの理由で、とりあえず英文科に進みました。そこで、アメリカ文学者で翻訳もされていた大橋健三郎先生の授業を受けることになるわけです。大橋先生は、授業では翻訳には触れず、学生を交えて文学談義をしていました。僕は文学の話が全くできなかったんだけれど、先生の話に感銘を受けて、「大橋先生がやっていることを自分もできたらいいな」と思いました。
もう一人の恩師、渡辺利雄先生はとにかく「徹底してOxford English Dictionaryを引きなさい」と指導する人で、ご自身でも「自分は訓詁学派ですから」と言っていました。翻訳には訓詁学は非常に大事ですから……。とにかく、大学時代に永遠の文学青年と訓詁学派の両方に出会えたことは本当にラッキーだったなと思いますね。
海外での評判や受賞歴を基準にせず
自分が「面白い」と思った作品を翻訳したい
——翻訳の仕事に携わるようになったのは、どのようなきっかけからだったのでしょうか?
30歳の時に東京学芸大学の教員になったんですが、大学で英語を教えていると、「この論文を翻訳して」などと、アルバイト的な仕事の依頼があるんですね。そこで、それなりの結果を出しているうちに、編集者の信頼を得ていったんだと思います。ある時、アメリカの文学作品を翻訳するチャンスがめぐってきて、僕はポール・オースターの『ガラスの街』(City of Glass)をやりたいと思った。そこで、出版社に版権を取ってもらい、訳し始めたところ、「他社が版権を持っていることをエージェントが忘れていた」って連絡があって…。その時は結局、同じオースターの『鍵のかかった部屋』(The Locked Room)を翻訳することになった。いずれにしても、当時の日本には、オースターに注目している人がそれほどいなかったということでしょう。
——「オースターの作品を訳したい」と思った理由は何だったのでしょうか?
これは村上春樹さんの作品とも共通していることなのだけど、オースターの文章は余計な気取りのようなものが感じられなくて、音楽のようにすっと入ってくる、でも、内容に深みがあると思ったんですね。
僕は子供の頃、ほとんど本を読まなかったから、「文学は難解なもの」という印象をずっと持っていたんです。だから、「文学とはこういうもの」という僕の思い込みからはずれるような作品に惹かれるのではないかと思います。
——それは今、翻訳する作品を選ぶときも変わらないのでしょうか?
結局、自分を基準にするしかないんです。つまり、読んでみて「これは面白い」、「日本語で読んでみたい」と思ったものを選ぶわけです。
東大でアメリカ文学を教えていた時に、授業で取り上げる作品を選ぶ理由も同じでした。学生から「なぜ、こんなつまらないものを読ませるんですか」って言われて、「海外で流行っているから」とか「文学賞をとっているから」という言い訳は通用しないことを痛感したんです。だから、自分が日本語で読みたいと思う作品で、できれば、自分が訳さなかったらこのまま誰にも訳されないかもしれない、そんな作品をやりたいんです。
——そうした心惹かれる作品とは、どういったシチュエーションでめぐり合うのでしょうか?
街を歩いていて洋書屋さんに入り、何も知らずに手に取ってというのが、最も理想的だと思いますけど、海外の書評で知ることもありますね。
最近増えているのは、自分が翻訳した作品の著者が「これ、面白かったよ」って薦めてくれるパターンです。僕が翻訳している作家なので、当然、趣向は似ているわけで、読んでみると、「アタリ!」ということが多いわけです。例えば、ブライアン・エヴンソンという作家は本当によく本を読む人で、彼が薦めてくれる本はだいたい面白い。新しい作家の本を読んでいて、「この人、いいな」と思って裏表紙を見たら、エヴンソンが推薦文を寄せていて、「またしても、先を越されたか!」と思ったこともありました。
さまざまな国や地域の翻訳者を招く
プロジェクトをさらに充実させていきたい
——2023年に国際文学館の顧問に就任され、2024年度からは若手翻訳者の育成や翻訳文学の発展、世界各国の翻訳者交流を目的とした「国際文学館翻訳プロジェクト」を始められました。海外から日本文学の翻訳者を招いたイベントでは、さまざまな国や地域の翻訳事情を知ることができました。
これまで英米のほか、チベットやインドネシア、モンゴル、エジプトから日本文学の翻訳者を招きました。今後は、この流れをもっと大きくしていかなければならないし、改善すべきところを考えていく必要もあると思っています。
「英語帝国主義」という言葉があるように、日本文学が翻訳されたというと、英語だろうと考える人は多いかもしれません。でも、それは世界の中では一部に過ぎないという意識を持っていたほうがよいと思います。例えば、今年6月に開いたイベントで、エジプト人翻訳者のヘバ・バクルさんが話されたように、アラビア語に翻訳された日本文学は、エジプトのほか、多くのアラビア語圏の国で読まれているわけですから。

Translators Talk 海外に広がる日本文学
エジプト・モンゴルの場合(2026年6月10日開催)
——海外の作家を招いたイベント「Authors Alive! ~海外文学最前線~」では、作家のカミラ・グルドーヴァさんや謝曉虹さんを招いた朗読会のほか、木村紅美さんとレベッカ・ブラウンさんという、日米の作家による対談が実現しました。
木村さんがレベッカのファンだということは知っていて、木村さんの『あなたに安全な人』の英訳本が出たばかりというタイミングだったので、英訳者の手嶋優紀さんにも声をかけたんです。アメリカと日本の作家がいて、それぞれ相手の作品を読んだことがあり、その翻訳者も二人揃うという、大変貴重なイベントだったと思います。こんなふうに日米の作家が対等な立場で対話ができるというのは、ひと昔前なら考えられなかったことです。これは、野茂英雄さんが、日本人が大リーグで活躍する道を切り開いたように、文学の世界では、村上春樹さんが世界への道を開いたからだと思っています。村上さんの作品がさまざまな国で翻訳され、受け入れられているからこそ、今、多くの日本文学が世界中で翻訳されるようになっているんです。

Authors Alive! ~海外文学最前線~
レベッカ・ブラウン×木村紅美 対談(2025年6月25日開催)

2025年度までのプロジェクトの取り組みを紹介する
小展示「翻訳は国境を越える翼」の様子(2026年11月8日まで)
——最後になりますが、国際文学館の魅力を教えてください。
まず、地下に「オレンジキャット」という良い感じのカフェがあるので、特に用事がなくても、ふらっとコーヒーを飲みに来てほしいですね。それから、国際文学館では、「レベッカ・ブラウンと木村紅美の日米作家対談」のような他所では聞けない面白い文学のイベントをやっているので、ぜひ、ホームページをチェックしてみてほしいですね。
(聞き手 国際文学館 橘晶子)
柴田 元幸
1954年東京都生まれ。米文学者・東京大学名誉教授。翻訳家。文芸誌『MONKEY』編集長。『生半可な學者』で講談社エッセイ賞、『アメリカン・ナルシス』でサントリー学芸賞、トマス・ピンチョン『メイスン&ディクスン』で日本翻訳文化賞受賞。翻訳の業績により、2017年第6回早稲田大学坪内逍遙大賞受賞。
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