Waseda Weekly早稲田ウィークリー

「震災もコロナも何かのせいにしない」誰もが想像を超えて生きる世界の中で

コロナ禍の影響を受けて、地元・宮城県気仙沼市でオンライン授業を受けながらこの1年を過ごした伊藤夕妃さん(社会科学部1年)と共に、東日本大震災を経験した先輩たちへの取材を行っている今回の特集。前編では、気仙沼でのボランティアを経てまちづくりを行う加藤拓馬さんと、学生時代に早稲田大学気仙沼チームに所属してボラティアに明け暮れた田中裕子さんにお話を聞きました。

後編では、宮城県石巻市での復興支援活動を経て、現在は風景屋として様々な企画・設計に携わりながら、自身でも青森県の十和田湖畔にコワーキングスペース&ゲストハウス「yamaju」を開設した小林徹平さん(2012年大学院創造理工学研究科修士課程修了)・恵里さん(2009年国際教養学部卒業)夫妻を取材。大学院を修了後、東北大学で石巻の都市計画に携わってきた徹平さんと、一般社団法人ap bankでReborn-Art Festivalの開催に関わってきた恵里さん。二人は、いったいどんな目線で被災地の復興を見つめてきたのでしょうか? そして今、その経験はどのように生かされているのでしょうか?

※取材は2021年2月に行いました。

facebookアイコン シェアする twitterアイコン ツイートする

今しかできない仕事が求められていた

今しかできない仕事が求められていた

徹平さんが計画から携わった、宮城県石巻市の防災集団移転団地・河北団地

伊藤
今日はよろしくお願いします!
徹平
伊藤さんは、今も気仙沼に住んでいるの?
伊藤
はい、コロナの影響で上京できないので、2020年度は実家からオンラインで授業を受けたり、サークル活動に参加しています!
恵里
へえ〜、サークル活動も。実家は気仙沼のどこ?
伊藤
唐桑です。知っていますか?
恵里
もちろん! 石巻で仕事をしていたときに、何回か唐桑にも足を運んでいました。すごくいい場所だよね。
伊藤
ありがとうございます。今日はお二人が、どのようにして復興支援に携わりながら、十和田湖でゲストハウスを運営するに至ったのかを伺いたいと思ってます。
左上から時計回りに、先輩へのインタビューを行った伊藤夕妃さん、小林恵里さん、小林徹平さん
徹平
僕は大学院創造理工学研究科の修士1年の3月に震災を経験しました。当時所属していたのは、土木のデザインなどを学ぶ景観・デザイン研究室だったのですが、4月になってから宮城県名取市から岩手県の大槌町まで北上し、実際に現地を見に行きました。このときに見た、沿岸部の流されてしまった町の姿は何をどう言葉にすれば良いのか全くわかりませんでした。

修士1年の3月というと就職活動の時期ですが、僕は漠然と卒業後は海外に行きたいと思っていたこともあり、就職活動をしていなかったんです。ちょうどそのころ、研究室の先輩が在籍する計画コンサルタント会社に誘われました。迷ったのですが「勤務地を東北にしてください。勤務地が東北なら入社します」と話し、この会社で計画・設計の仕事に就きました。
伊藤
海外に行きたかったのに、なぜ東北での仕事を希望したのですか?
徹平
計画・設計の仕事の多くは、まち全体を設計するのではなく、部分的な改修をしていくこと。しかし、そのとき 東北で必要とされていたのは、津波で流された土地を考え直すこと でした。その場所で、今しかできないことに携わりたい と思いました。

残念ながら、入社した会社は7カ月で退職してしまったのですが、その後、東北大学の助手に転職し、石巻での復興プロジェクトに携わるようになりました。
恵里
私の場合は、東京で就職して3年目に震災を経験しました。当時は、徐々に仕事を覚えて、現場も任されるようになっていた時期。震災を受けて何かしたいと思いつつも、忙しさにかまけてボランティアに行くことはなかった んです。

その後、2012年に転職し、1年契約でGoogleに入社します。Googleでは、震災が起こった当日から情報提供するなど、会社として熱心に被災地支援に取り組んでいることを知りました。私が入社したころにも社内の有志で支援活動を行っていて、私も「未来へのキオク」という、震災前後の被災地の写真を集めてマップ上にアップロードしていく、アーカイブプロジェクトのお手伝いをしていました。

そんな中、社内の有志たちの間でバスを貸し切って、大槌・大船渡などに直接ボランティア活動に行くツアー を行うことになりました。当時、がれきなどはおおよそ片付いてきていましたが、高齢者の多い地域だからだと思いますがまだやるべきことが多く残っていて。私は公民館周辺の草むしりや掃除などをお手伝いしましたね。

その後、個人的に福島県の南相馬にも足を運び、短時間で微力ではありましたが、泥かきのボランティアもしました。南相馬は放射能の問題から復旧が進んでおらず、ほとんど手つかずの状況だったんです。
伊藤
学生時代にボランティア活動をしている人は多いですが、社会人になってからもボランティアに関わる人は少ない ですよね。どうしても時間が限られるので動きづらくなってしまいますし…。実際にボランティアを経験して、どんなことを感じたのでしょうか?
恵里
被災地にはまだまだ人手が必要だし、外部の力が必要なんじゃないか ということですね。この経験から、復興に寄り添うことを仕事にしたい、と強く思うようになった んです。そして、Googleとの契約が終わると、ap bankの復興支援担当者の求人を見つけて2013年の秋に入職しました。

はじめは東京に暮らしながら被災地に出張して仕事をしていましたが、東京にいたらこの仕事は全くできないなと、2ヶ月ほどで痛感しました。そこで、2014年2月に石巻に移住したんです。

その場所にとっての最適解を見つけていく

その場所にとっての最適解を見つけていく

石巻の限界集落・波板で徹平さんが携わる「ナミイタ・ラボ」で取り組んだ、防潮堤に集落で採れる雄勝石を貼るワークショップ(最上段中央が徹平さん、最下段左が恵里さん)

伊藤
実際に東北に入り、お二人が行ったのはそれぞれどのような仕事だったのでしょうか?
徹平
東北大学でプロジェクトに携わるようになってから、最初の2、3年はひたすら図面を描いていましたね。東北大学では 石巻市と協定を結び、復興計画の情報を集約 していました。一つの地域でも、防潮堤と道路、公園など、それぞれの部署が同時に動いているため、どうしても計画に齟齬が出てしまう。そこで、各セクターと調整しながら、適切な計画を練り直し、図面に落とし込んでいくのが私の仕事だったんです。

当時は、2週間に1回会議があってプロジェクトの情報を共有してもらっていました。それを受けて、プロジェクトに問題があれば図面を描き直していく。1週間で素案を作ってまた次の会議へ…と、ほとんど休みなく仕事をしていましたね。

というのも復興計画は、3カ月に1回開催される市議会の承認を経なければ前に進みません。僕らの仕事が少しでも遅れてしまうと、計画の実行が3カ月遅れてしまうかもしれない。それに間に合わせるために、2、3日連続の徹夜も当たり前という感じでした。
宮城県石巻市中心部の旧北上川沿いに生まれたテラスと堤防
伊藤
すごく重要なことを決めていくプロジェクトなのに、時間との戦いだったんですね。
徹平
はい。ただ、いま振り返ると、計画があってから、用地の買収やさらに詳細な設計など、さらに大変な仕事があり、思っている以上に復興事業は進みづらいのだなぁと本当に痛感しています。

東北大学に入って最初に手掛けたプロジェクトは、石巻にある大島神社の復興計画でした。この神社は松尾芭蕉の句にも出てくる歴史ある神社。河川堤防を嵩上げすることによって、神社が持つ象徴的な役割と防災とを両立させることを計画していたんです。
実はこの大島神社の復興計画は、用地買収や事業計画などで時間がかかってしまったため、現在も続いています。また、2013年に図面を描いていた、宮城県の牡鹿半島の鮎川地区にある観光施設「ホエールタウンおしか」も、完成したのは2019年のこと。ひとつ言えるのは、10年を経た今も、いまだ復興は道半ばにある、ということですかね。
防潮堤により嵩上げした敷地に建つ「ホエールタウンおしか」は2019年に完成(写真提供:一般社団法人鮎川まちづくり協会)
伊藤
復興計画を練る中で、どのような計画を理想としていたのでしょうか?
徹平
僕の仕事領域は、行政が立案する計画のお手伝いだったので、自分の理想を実現させていたわけではありません。ただ当時から「その場所がその場所であり続けるための価値を残す」ということは意識していましたね。
伊藤
「場所の価値を残す」というと…?
徹平
例えば、石巻にある浜と、伊藤さんが住んでいる唐桑にある浜では、地形も歴史もまったく異なりますよね。そこに、チェーン店をつくるように同じ設計の道路や防潮堤をつくるなら、場所が持っている価値を無視することになってしまいます。

場所ごとに固有の地形を考慮したり、そこに住む人々が培ってきた歴史や文化をリサーチしたりしながら、地形と一体化する道路や、地元に必要とされる建物を考える。そうやって、場所が持つ価値に応じた最適解を見つけていかなければならない と考えていたんです。
恵里
私がap bankで行っていた復興支援も、同じように最適解を見つけていくような仕事でしたね。入職してから手掛けていたのは、NPO法人ETIC.と協働で被災企業の伴走者になるような人材のマッチングを行う「右腕派遣プログラム」や、専門家を派遣する「ap bank プロフェッショナルアドバイス」といったプロジェクトでした。被災地と他の地域の人材をつなげることで、復興のお手伝いをしていた んです。

初めてお手伝いをしたのは、「気仙沼フェニックスバッティングセンター」。このバッティングセンターは、震災でご家族を亡くされた本業は牛乳屋さんのオーナーさんが、生き残った息子さんや地域の子どもたち、また元野球少年たちのために一念発起して作りたい! と立ち上がり、当時建設中でした。

現地でヒアリングを重ねながら、デザイナーをマッチングしてバッティングセンターのロゴをつくったり、アーティストが描いた壁画を収めたり。相手が何を求めているのか? 相手が本当に必要としていることは何か?お話を注意深く聞きながら、最適な答えを見つけ出すことで、「ここにいま必要な人」をマッチングしていった んです。

今では、オーナーさんの「楽しいことが本当に好きだし、これからの気仙沼にはそれが必要だから」という人柄もあって、バッティングセンターという枠を超え、音楽フェスをはじめ、さまざまなイベントが開催され、多くの縁をつなぐコミュニティとなっています。
伊藤
ap bankでは、2017年から石巻でアート・食・音楽の総合祭「Reborn-Art Festival」も開催してますよね。
恵里
そうですね。「Reborn-Art Festival」の設立は、私にとっても、とても印象深い仕事でした。私が入った当初は、被災沿岸部のどこかでフェスティバルを開催したいということ以外、具体的な内容は決まっていない段階でした。それまでにap bankが持っていた人的なつながりを一番活かせるのは石巻なのではないかと考え、当時の石巻市長に話をしたところ「ぜひ石巻で開催してほしい」と言っていただけたことや、その他様々な事情を一つずつクリアしたことで、ようやく実施に向けて第一歩が踏み出せました。

ただ正直、当時はまだまだ復興自体ままならないことも多く、「フェスなんてやっている場合か」といった声も多くありました。イベント実現にあたっては、街なかだけでなく半島部など市内各所を芸術祭の会場とするために、本当にさまざまな人のお話を聞いてまわりました。

同じ石巻といっても場所ごとに文化や歴史も違うし、被災の状況も異なります。各地域を訪ね歩き、皆さんの話を聞きながら、「どういうイベントなら地域の方々に喜んでもらえるか」「どういうものがこれから先のための希望の光にできるのだろうか」ということなどを少しずつ探っていった。

そして、アーティストたちのアテンドをしながら、現地の被災状況や地元の人たちの思いをできる限り伝えた上で「どんな作品を作りたいか」「どんな展示にしたいのか」を検討するフェーズに移ってもらえるように配慮しました。ほかにも、行政と打ち合わせをしたり、地元の方々に様々な協力いただきたいことをご相談したりと、本当に毎日毎日、目まぐるしく動き回りました。

そうして、2015年に実行委員会が立ち上がり、2016年にプレイベントの開催、ようやくその2年後の2017年に1回目の「Reborn-Art Festival」が実現したんです。
「Reborn-Art Festiva2017」参加アーティスト名和晃平氏の作品「White Deer」は、牡鹿半島・荻浜に設置された
伊藤
そんな苦労があったんですね。実は、私も1回目の「Reborn-Art Festival」には参加していました。
恵里
え、そうだったんだ!?
伊藤
当時高校1年生だったんですが、前編で対談をした加藤拓馬さんと共に、地元・唐桑の名産品を出店しに行ったんです。物を売るという経験も初めてでしたし、地元で有名なアーティストのステージを見られたというのもあって、すごく楽しかったのを覚えています!

もともと石巻には、気仙沼とは違って映画館もあるし、若者が遊べるところもたくさんあります。若者向けのアートを受け入れるような土壌もあったのでしょうか?
「Reborn-Art Festival」で伊藤さんが唐桑の名産品を出品した時の様子(写真左端が伊藤さん)
恵里
う〜ん。正直、土壌はあまりなかったですね...。新しいものに対して、楽しんだり、協力したいと思ってくれる人もいましたが、やっぱり同時に見たことも聞いたこともないものを敬遠する人も多かった。

行政側の立場で見ても、当時の役所は激務に次ぐ激務。「芸術祭で余計な仕事を増やされても困る」「芸術祭に金をかけるよりも、他にやることがあるだろう」っていうムードもあったと思います。
伊藤
そうだったんですね…。
恵里
代表理事を務める音楽プロデューサーの小林武史さんをはじめ、ap bankでは、物理的な復興だけでなく「心の復興」や「復興のその先」を見据えて「Reborn-Art Festival」を企画しました。しかし現地では物理的な復興もまだまだ行き届いていない。開催を決める直前まで「本当にやっていいのか」「やめるべきではないか」という議論は小林さんと何度もしました。

数年がかりの準備期間を経て実現したアートフェスティバルには、延べ20万人以上の来場者が集い、21.75億円の経済波及効果が生まれ、私が退職した後も隔年で開催しながら規模を拡大しています。ただ、もちろん 芸術祭を行う意味は、人々が集まる華やかさや経済効果だけではありません。

例えば、このフェスをきっかけにして、アーティストが石巻に住んだり、アーティストによる高校生向けのアートスクールが開催されたり、地域のこれからを担う若い人たちに還元できる場所が生まれ始めています。

また、アーティストに限らず、石巻に魅力を感じて移住してくる人がいたり、その土地に新しい価値を生み出していくこともまた、芸術祭が果たす大きな役割の一つ。設立に携わった私としてもすごくうれしいし、意義のあることだと思いますね。

自分の想像を超えた経験を受け止める

自分の想像を超えた経験を受け止める

波板地区の石を貼った防潮堤の前で、お世話になった地元の方と一緒に撮影(写真左から3人目が徹平さん、4人目が恵里さん)

伊藤
石巻での復興支援の経験を経て、現在、お二人は十和田湖畔にコワーキングスペース&ゲストハウス「yamaju」を運営していますよね。石巻での経験は、現在にも役立っているのでしょうか?
「yamaju」は、もともと「山寿」というお土産屋さんがあった建物をリノベーションして作られた
徹平
もともと、十和田と関わり始めたのは、十和田湖畔に景観のルールを作ってほしいと行政から依頼されたことがきっかけでした。十和田湖畔は、かつて観光地として年間350万人もの人々を集めていた地域ですが、徐々に観光客が減り、空き家が目立つなど街並みも著しく悪くなっていました。そこで、景観を見直すためのルールが必要とされたんです。

ただそれは、いきなり外からやってきて「こんなルールで運用すればいい」と決めるだけのものではありません。街の景観を見直すためには、行政側だけでなく、地元の人々がその必要性を理解し、本心から「変えたい」と思わなければ意味のない押し付けになってしまいます。

石巻でも同じような経験がありました。置かれている状況を地元の人が理解し、「地域を変えたい」と思わなければ、結局は何も変わらない。いくらよい計画であっても、外から来た人間が、勝手に計画を進めてもほとんど意味なんてないんです。

地域の中に入り込み、地元の人々と話し合いながら、ゆっくりと信頼関係を作っていかなければならないと思って、向き合っている感じです。
四季折々の風景が美しい十和田湖では、カヌーを楽しむこともできる
伊藤
石巻で考えていた「場所の価値」という話にもつながるお話ですよね。外からルールを当てはめるのではなく、その場所に最適なルールを地元の方々と探っていく。
徹平
被災地ではないけれど、十和田にあるそれぞれの建物や、そこに住む家族には築き上げた時間があります。ただ、そんな長い歴史は、何時間かけて話をしても、外から来た人間には簡単には分からないことばかり。

でも、分からないからこそじっくりと話を聞き、逆に地域にとって本当に必要なものは何かを一緒になって考えてもらう。そうして、相手が本当に自分を必要としてくれるのを待つしかないと思っています。場所の価値を作っているのは、そこに居る人 だから。

そうやって時間をかけて待つためには、待つための拠点が必要ですよね。そんな個人的なニーズから、「yamaju」をつくったんです。
「yamaju」には、県外からワーケーションに訪れる人、地域の人などさまざまな人が集まる
恵里
じっくりと相手の話を聞くことの大切さ は、私も石巻で身に染みて感じました。被災地で色んな人にお会いすると、やはり震災の体験を聞くこともありますよね。「津波に流されながらも屋根に引っ掛かり、命からがら助かった」「まだ見つかっていない娘を探している」そんな経験を通じて感じた痛みや悲しみは、いくら想像しても私には理解が及びません。

被災者のお話を聞きながら、簡単に理解した気になるのではなく、自分の想像を超えた経験をなんとか受け止めようとしました。そうしないと、被災者の前に立つことすら失礼なことのように感じたんです。

そして、それは被災地でなくても同じこと。世の中に生きている人は、どんな人であっても、自分の理解の及ばないようなさまざまな経験をしています。その人がこれまでどんな風に人生をサバイブしてきたのか。その経験や時間の積み重ねを尊重するためにも、簡単に理解するのではなく、相手の話にじっくりと耳を澄ますことが必要 なんじゃないかと思っています。
伊藤
こうやって、さまざまな経験を積んできた先輩たちの話を聞くと、圧倒されてしまいます。お二人のお話も、簡単に理解することはできませんが、私にとって、とても大切な時間になりました。

それと同時に、自分の小ささを感じて「私なんて…」と思ってしまいます。けれども、こうして話を聞き、それを咀嚼しながら「自分にできることは何だろう?」「自分が持っているものは何だろう?」と考えると、それは 気仙沼で震災を経験しながらも、ワクワクしながらいろいろな活動をしてきたこと。そんな自分の経験だけは、自分の言葉で話すことができるんです。

今もコロナで上京できないことに対して、環境のせいにしようと思えばいくらでもできてしまう。でも、それでは何にも始まりません。自分の今いる環境だからこそできること、これまでの経験があるから伝えられる言葉があります。それは自分にしかできないこと だし、これからもそういうワクワクするようなことを見つけていきたいです。

今日は本当にありがとうございました。
プロフィール
プロフィール

伊藤

伊藤 夕妃(いとう・ゆき) 2001年、宮城県出身。早稲田大学社会科学部1年。中学時代から、宮城県気仙沼市唐桑地区で加藤さんの主宰する、まるオフィスのプロジェクトに参加。高校では地方創生や関係人口をテーマに研究やフィールドワークを行う。2020年度も気仙沼に在住し、オンラインで大学の授業を受講していた。

徹平

小林 徹平(こばやし・てっぺい) 1988年、神奈川県出身。 2012年、早稲田大学大学院創造理工学研究科修士課程修了。同年、宮城県仙台市へ移住。都市計画系コンサルタントで復興計画策定に従事した後、東北大学災害科学国際研究所助手として、石巻市の復興計画策定に都市計画・土木・建築の観点から参画。 2017年風景屋 ELTASとして独立。 現在は、青森県・十和田湖畔でメンバー登録制のコワーキングスペース&長期滞在者専用ゲストハウス「yamaju」も経営。

恵里

小林 恵里(こばやし・えり) 1985年、東京都出身。2009年、早稲田大学国際教養学部卒業。震災後、東京で働きながら被災地へのボランティアに参加。2013年、一般社団法人ap bankに入職、2014年にReborn-Art Festival(芸術祭)の立ち上げのため宮城県石巻市に移住。2017年に第1回Reborn-Art Festivalの開催を経て退職後、夫・徹平さんが主宰する風景屋ELTASへ参画。イベント企画運営、ブランディング、ディレクション業務を担当する。現在は徹平さんと共に「yamaju」を経営。

取材・文:萩原 雄太

1983年生まれ。2006年、早稲田大学第二文学部卒業。かもめマシーン主宰。演出家・劇作家・フリーライター。早稲田大学在学中より演劇活動を開始。愛知県文化振興事業団が主催する『第13回AAF戯曲賞』、『利賀演劇人コンクール2016』優秀演出家賞、『浅草キッド「本業」読書感想文コンクール』優秀賞受賞。かもめマシーンの作品のほか、手塚夏子『私的解剖実験6 虚像からの旅立ち』にはパフォーマーとして出演。http://www.kamomemachine.com/
編集:横田 大、裏谷 文野(Camp)
イラスト:水谷 有里 http://www.yuri-mizutani.com/
デザイン:中屋 辰平、林田 隆宏
facebookアイコン シェアする twitterアイコン ツイートする

公式アカウントで最新情報をチェック!

Page Top
WASEDA University

早稲田大学オフィシャルサイト(https://www.waseda.jp/inst/weekly/)は、以下のWebブラウザでご覧いただくことを推奨いたします。

推奨環境以外でのご利用や、推奨環境であっても設定によっては、ご利用できない場合や正しく表示されない場合がございます。より快適にご利用いただくため、お使いのブラウザを最新版に更新してご覧ください。

このままご覧いただく方は、「このまま進む」ボタンをクリックし、次ページに進んでください。

このまま進む

対応ブラウザについて

閉じる