- 伊藤
- 私は、気仙沼の市街地から30分ほどの場所にある唐桑という地域に暮らしています。早稲田大学に進学し、東京で初めてのひとり暮らしを満喫しているはずだったのですが…(笑)。2020年度はオンライン授業になってしまったため、今も唐桑の実家で生活をしています。
10年前の震災発生当時は、小学校3年生 でした。授業中に激しい揺れに襲われて、机の下に隠れてから校庭に避難しました。大混乱の中で家族が学校に迎えに来ることもできず、避難所で一晩を過ごしたことを覚えています。
幸い、家族は全員無事で、高台にあった家も津波の被害に遭わずに済みましたが、海の見える場所だったので、家にいた家族は、近所の家が流されてしまう様子を目撃したそうです。
そして、震災後、小学6年生ぐらいのときに(加藤)拓馬さんと出会い、拓馬さんが代表を務めている一般社団法人「まるオフィス」でも一緒に活動をするようになりました。今日はまず、お二人がどのようにしてボランティア活動へと踏み出していったのか、そのきっかけから伺いたいと思っています。
- 加藤
- 震災当時、僕はちょうど大学を卒業して、池袋にあるIT企業に入社する直前というタイミングでした。震災後、半月の間すごく悩んだ末、社長に「東北に行きたい」と話し、内定を辞退しました。そして、4月5日から気仙沼に入り、ボランティア活動を始めたんです。
- 伊藤
- 内定を辞退してボランティアを…。人生において、重大な決断ですよね。
- 加藤
- そう。でも、もともと、将来はNGOやNPOの道に進みたいと思っていたんです。東北で大きな災害が起こって多くの人が苦しんでいるときに、池袋でスーツを着て働いている自分を想像したら、違和感しかなかった。自分の気持ちに正直な方を選択しようと思ったら、自然と気仙沼に飛び込んでいました。
- 伊藤
- 被災した気仙沼の風景を見て、どんなことを感じましたか?
- 加藤
- 僕は子どものころに阪神・淡路大震災で被災している んです。気仙沼の町を見たときに思い出したのは、震災直後の神戸の町。道路に家が転がっているような風景を見ると、当時のことが頭をよぎりました。
でも、そんな悲惨な風景だけでなく、夜空に浮かぶ星がとてもきれいだった。震災からおよそ1カ月を経てもまだ電気が復旧していなかった気仙沼には、満天の星が輝いていたんです。
現地で行っていたのは、がれき撤去や避難所の運営補助といったボランティアでした。被災の規模からして、1、2週間でどうにかなる災害ではない ことは行く前から分かっていたので、復旧に一区切りつくまで長期間滞在しようと当初から考えていました。
- 伊藤
- 当時、ボランティアの活動はがれきの撤去がメインでしたよね。でも、そんな作業の中でご遺体に遭遇してしまうかもしれないという配慮から、地元の子どもはボランティア活動の現場を目にすることはできなかったんです。ただ、全国から多くの方々が駆けつけてくれているのを耳にして、すごくうれしかった のを覚えています。
でも、大きな災害が起こったからといって、普通なら、自分の進路を変えてまでボランティアに専念するのは難しいですよね。どうして拓馬さんは、そんな行動を取ることができたのでしょうか?
- 加藤
- 学生時代に、中国の山奥にあるハンセン病元患者の住む「回復村」でボランティア活動をした経験 が大きかったですね。日本人の大学生や中国人の若者が1、2週間泊まり込みながら、昼はトイレや道路の整備をして、夜はハンセン病元患者の人々と共に宴会をするんです。
ハンセン病はこれまで社会的に偏見や差別を受けてきた病気で、今もその差別は続いています。だから、周囲の住民たちは、この村に決して近づこうとしなかった。けれども、僕らが入ってボランティアをしたり楽しそうにしていると、気になって様子を見にやってくる。すると、この村が怖い村ではないことに気付くんです。
それまでにも政治家をはじめ、多くの人々が何十年もかけて取り組んできた差別の解消が、大学生たちが寝泊まりをしながら一緒に過ごすことで急激に前進 した。社会問題が氷の塊だとするなら、行政や政治家が外からお湯をかけても なかなか溶けなかった問題を、僕らが現場に入ることで内側から溶かしてしまった、というか。
そんな経験があったので、震災の発生直後にも「自分が行って貢献しなきゃ」という使命感 に駆られました。いざ気仙沼に行くと、自分にもやれることが山積していた。結局、夏までボランティアをする予定が、その後もずっと気仙沼で活動を続けていくことになったんです。
- 田中
- 私が初めて気仙沼でボランティアを行ったのは、2012年6月でした。その年の4月に早稲田大学に入学したのですが、せっかく大学生になったにもかかわらず、サークルにも入らずに毎日ただ漫然と授業に出席し、宿題をこなして寝るような毎日。
「一生懸命取り組めることってなんだろう」「今の状況を変えたいな」と思っていたときに、早稲田大学平山郁夫記念ボランティアセンター(WAVOC)のWebサイトで募集していた、気仙沼でのボランティア活動をたまたま見つけて参加したんです。
このときは、大型バスで100人の学生と共に気仙沼の大谷海岸に行き、がれき拾いをしました。当時、震災から1年3カ月を経た時期で、東京には震災の傷跡はほとんどありませんでした。しかし、気仙沼のがれきが散乱している光景を見て「まだこんな状況だったのか…」とショックを受けましたね。
また、現地の方々に話を聞くと、そんな現状が全国に伝わっていないことや情報を発信するための手段がないことなどが課題とされていました。そこで、WAVOCの気仙沼チームに参加し、気仙沼の人の声を東京に発信する活動 に関わろうと思ったんです。
- 伊藤
- 気仙沼チームでは、具体的にどんな活動をしていたのでしょうか?
- 田中
- 現地でのボランティア活動はもちろん、毎年3月11日には早稲田キャンパスの大隈ガーデンホールで追悼集会を開催していました。東京の学生だからこそできること を考え、早稲田の学食で気仙沼の食材を使ったメニューを企画したり、他大学の被災地支援団体とコラボした物産展を開催したり。
東京の小学生に向けて防災について伝えるため、気仙沼を扱ったドキュメンタリーを見せて現地の様子を伝える特別授業を行ったりもしました。最初は被災地の現状を被災していない自分が伝える、ということに戸惑いもありました。しかし、気仙沼で自分が見てきたことや聞かせてもらったことを発信していくことには意味があると思ったし、被災していない東京の学生だからこそ「こんな震災が東京で起こったとしたら、こういう行動をしなきゃいけないと思うんだよね」と子どもたちと同じ立場に立って伝えることができるんだと気付けて、とても新鮮でしたね。
学部から大学院まで、6年間にわたって気仙沼チームに携わっていたのですが、学生時代の7割は気仙沼のことを考えていました。
- 伊藤
- 7割も! いったい何が田中さんを突き動かしていたのでしょうか?
- 田中
- 同じ気持ちを持って活動している仲間の存在 が大きかったですね。気仙沼を訪れれば加藤さんのように現地で取り組んでいる人もいるし、気仙沼チームの仲間も熱心に活動しているから、自分も負けていられないと鼓舞されていました。
- 伊藤
- ただ 東京と気仙沼だと、震災に対する温度が異なりますよね。私が大学に入って驚いたのは、自分と同じような感覚で震災について考える人に、なかなか出会えないこと。気仙沼では震災があったことを前提に話すことができますが、東京ではそうではありません。
東京の人から見ると東北は「被災地」って感じで、どうしても距離がある場所 なんですよね。田中さんは、そんなギャップの中で、無力感に襲われることもあったのではないでしょうか?
- 田中
- そうですね。気仙沼と東京との距離もあるし、震災の日から経過した時間という距離もある。そうすると、新しく気仙沼でボランティアを行いたいという学生も減ってくるし、イベントをやろうとしても、なかなか参加者が集まらなくなる。
毎年3月11日には新聞社と協力して、渋谷で震災特集の号外を配っていたんですが、年を追うごとに受け取ってくれる人は少なくなりました。関心が徐々に失われ、震災が「風化」されていくのには、ただ自分の無力さを感じるばかりでした。
- 伊藤
- そんな状況に直面しながらも、どうやってくじけずに活動を続けられたのでしょうか?
- 田中
- 気仙沼の方々と交流する中で「来てくれてありがとう」とか「また来てね」という言葉をかけてもらったことが支えでしたね。そうやって言葉を交わすことで、だんだんと気仙沼が心の故郷になっていきました。
私は東京の出身なので、「故郷」というのが初めての感覚だったんです。社会人になった今でも、年に1回は気仙沼に行きたくて、ウズウズしますね。
- 伊藤
- (笑)。
- 田中
- 震災からしばらくして、初めて家族を気仙沼に連れて行ったときは、まるで恋人を紹介するときのように緊張しましたね。伊藤さんが住んでいる唐桑にも行ったし、気仙沼湾を見渡せる安波山にも登った。私が初めてのボランティアで訪れた大谷海岸にも行きました。
今では家族も東京のスーパーで気仙沼の食材を買ってきたり、気仙沼関連のニュースを一緒に見たりするようになった。気仙沼は、私だけでなく、家族にとっても特別な場所 になっています。
- 伊藤
- 拓馬さんは緊急支援のボランティアとして気仙沼に入り、2015年には、一般社団法人まるオフィスを設立して気仙沼のまちづくり活動を行っていますよね。緊急支援からまちづくりへと、その役割や気持ちはどのように変化していったのでしょうか?
- 加藤
- 緊急支援をしていた当初は、地元の人から「ボランティアさん、ありがとう」と言葉をかけてもらっていました。けれども、2011年末に地元の方と話しているとき、ふと、「これから一緒にやっていきましょう」と言われたんです。
それは、「被災者と支援者」という立場から「一緒に町をつくっていく仲間」へと、関係が変化した瞬間でした。そこから、だんだんと気仙沼のまちづくりを意識し始め、フリーペーパーを作ったり、まち歩きの企画を立てて気仙沼の魅力を探っていきました。夕妃と出会ったのもちょうどそのころだったよね?
- 伊藤
- はい、まち歩き企画の成果を地元の人に発表するイベントに、お客さんとして参加したときでした。なんか、すごく不思議な気持ちになったことをよく覚えています。
- 加藤
- 不思議って?
- 伊藤
- 私は生まれてから12年ずっと唐桑で育ってきたのに、よそからやってきた人が地元のことを自分よりもよく知っている。それがなんだか不思議だったし、同時に「私は地元の人間なのに…」っていう悔しさを感じた んです。だから、そのときの拓馬さんは「敵」っていうか、「ライバル」っていうか(笑)。
- 加藤
- (笑)。
- 伊藤
- それに、唐桑の魅力を紹介しているときの拓馬さんはすごく楽しそうだった んです。それまで、私は 気仙沼のことを「海と山だけの何もない町」と思っていて大嫌いだった。早く外に出たいと思っていました。
でも、拓馬さんたちの楽しそうな感じがうらやましくて、自分も輪の中に加わりたいって思うようになっていきました。
- 加藤
- 夕妃に限らず、実はそういう「嫉妬」って地元の人が僕らの活動に参加するモチベーションの一つ なんです。「なんでよそ者がうちの地元のことをこんなにも知っているんだ?」「なんでそんなに、うちの地元に対して一生懸命なんだ?」っていう気持ちから活動に参加すると、住んでいても知る機会がなかった地元の魅力に気付いていく。
- 伊藤
- 拓馬さんの戦略にハメられたんですね(笑)。中学生になって、まち歩きや漁業体験に参加すると、これまで知らなかった地元の人やモノの魅力に気付かされました。すると、どんどん見る目が変わって、いつの間にか気仙沼が大好きな町になっていましたね。
- 伊藤
- でも拓馬さん自身はもともと、気仙沼出身ではないですよね。気仙沼のまちづくりを通じて、何をしたいと思っていたのでしょうか?
- 加藤
- 気仙沼のまちづくりって、僕にとって「未来の社会との接点」なんです。それを感じられたのは大きなモチベーションになりましたね。
- 伊藤
- 未来の社会との接点?
- 加藤
- うん。気仙沼で活動していると、震災被害の 背景に一次産業の衰退や過疎化、少子化といった問題が存在している ことが見えてくる。これらは、気仙沼だけでなく、日本全国の地方が抱えている問題。気仙沼で起こっていることは、日本全国の地方が近い将来直面する現実 なんです。
そういう目で気仙沼を見ると、そこは 日本のさまざまな地域が抱えている課題が顕在化している最先端の現場。そんな場所で、自分に何ができるのかを考えると、すごくワクワクしたんです。
- 田中
- 加藤さんは、気仙沼にどんな未来を描いているんでしょうか?
- 加藤
- 以前は、地元の人が地元の魅力に気付くことによって、夕妃みたいな若い人たちが大学などに進学しても、いつかまた気仙沼に帰って活躍してくれるようになる。そして、人口減少に歯止めをかけて、気仙沼の持続性が保たれたらいいなと思っていました。
けれども、最近その考えは変わりつつあります。「気仙沼に帰ってきてほしい」という願いは、地域の持続性に貢献する一方で、若い人たちの将来の選択肢を狭める結果につながってしまいます。今は、気仙沼に帰ってくることを前提にするのではなく地域ぐるみで「あなたは何者にもなれる」と背中を押すことで、人生の選択肢を増やしたい。そうすれば、気仙沼に帰って来なかったとしても、ポジティブな関係を持続できますよね。
そうして、気仙沼とのポジティブな関係を持つ人が日本中や世界中に増えていく ことで、田中さんのように、気仙沼を第二の故郷と思ってくれるような人も増えていくでしょう。そうすれば、結果として 気仙沼の持続性 も保たれていきます。
- 田中
- すごく腑に落ちる話ですね。地域振興って、どうしても定住人口を増やす方向になってしまいますよね。私は、就職のときに気仙沼で働くという選択肢を選ばなかったこともあり、どこかもやもやした気持ちがあった んです。けれども、加藤さんの言うように「好き」という気持ちを持つだけでも、気仙沼の持続性が保たれていくなら自信を持つことができます。
- 加藤
- 今や副業・兼業も当たり前だし、オンラインでのコミュニケーションも当たり前。東京で本業を持ちながら気仙沼でプロジェクトを行うことだって、仕事を見つけて定住するのと同じくらい大きな関わり です。
定住だけではなく、プロジェクトベースで気仙沼に関わっていく関係人口を増やしたり、それを通じて「好き」という気持ちを増やす こと。それだけでも、気仙沼を盛り上げていくことができるんです。
- 伊藤
- 気軽に関わってもらうことで、気仙沼の未来を一緒に考えていける人、一緒にまちを作っていける人が増えてほしいですね。地元の人間だけでなく、拓馬さんのように地域に入ってを変えてくれる人、田中さんのように第二の故郷として外側から応援してくれる人。それぞれの関わり方で、いろいろな関係が結ばれているからこそ、気仙沼という街は続いていくことができます。
私は 将来、そんな外の人と気仙沼の中にいる人とを仲介するような役割を担っていきたい と思っているんです。気仙沼に関わりたいと思っている人が、気軽に自分の持っているスキルを提供できるようなプラットホーム を構築できたら、もっとみんなが関わってくれるようになるはず。そうすれば、気仙沼をより面白い場所にできますよね。
- 田中
- 期待しています!
- 伊藤
- 今日はありがとうございました。今回はリモートでしたが、今度は気仙沼でお会いしましょう!
- 伊藤
- 伊藤 夕妃(いとう・ゆき) 2001年、宮城県出身。早稲田大学社会科学部1年。中学時代から、宮城県気仙沼市唐桑地区で加藤さんの主宰する、まるオフィスのプロジェクトに参加。高校では地方創生や関係人口をテーマに研究やフィールドワークを行う。2020年度も気仙沼に在住し、オンラインで大学の授業を受講していた。
- 加藤
- 加藤 拓馬(かとう・たくま) 1989年、兵庫県出身。2011年、早稲田大学文化構想学部卒業。一般社団法人まるオフィス 代表理事。漁師体験からプロジェクト型学習まで中高生のアクションを応援する「じもとまるまるゼミ」を宮城県気仙沼市で主宰。学生時代に中国やエジプトのハンセン病回復村を回り、2011年東日本大震災を機に新卒無職で気仙沼に飛び込む。漁師まちの半島で移住者を増やしながらまちづくりに取り組んだ後、課題だらけの日本のローカルは探究型の学びに最適だと確信、教育事業に至る。
- 田中
- 田中 裕子(たなか・ゆうこ) 1992年、東京都出身。2018年、早稲田大学大学院先進理工学研究科修士課程修了。在学中、早稲田大学平山郁夫記念ボランティアセンター(WAVOC)の気仙沼チームに所属し、気仙沼と東京をつなげる活動を続ける。現在は、東京でコンサルティング会社に勤務。今でも年に1回は気仙沼を訪れ、現地との交流を続けている。
- 取材・文:萩原 雄太
- 1983年生まれ。2006年、早稲田大学第二文学部卒業。かもめマシーン主宰。演出家・劇作家・フリーライター。早稲田大学在学中より演劇活動を開始。愛知県文化振興事業団が主催する『第13回AAF戯曲賞』、『利賀演劇人コンクール2016』優秀演出家賞、『浅草キッド「本業」読書感想文コンクール』優秀賞受賞。かもめマシーンの作品のほか、手塚夏子『私的解剖実験6 虚像からの旅立ち』にはパフォーマーとして出演。http://www.kamomemachine.com/
- 編集:横田 大、裏谷 文野(Camp)
- イラスト:水谷 有里 http://www.yuri-mizutani.com/
- デザイン:中屋 辰平、林田 隆宏