Waseda Weekly早稲田ウィークリー

乙武洋匡、叩かれても前に進む理由 『五体不満足』原点・早稲田商店街で語る

早稲田大学在学中に執筆した『五体不満足』(1998年、講談社)が600万部を超える大ベストセラーを記録した乙武洋匡(おとたけ・ひろただ)さん(2000年政治経済学部卒)。社会から期待された「清く正しい乙武君」は卒業後、スポーツライターや、教員、東京都教育委員などの職を経験。都内で「まちの保育園」の運営に携わるなどして、政界への進出も検討していました。

しかし、2016年にその生活は一変。週刊誌で不倫スキャンダルが報道されると、全国から非難の声が殺到。彼がこれまで積み上げてきたものの多くが失われました。スキャンダル以降、一時は海外に移住することも考えていたという乙武さんでしたが、2018年末、自身のブログで「乙武洋匡、第二章」を宣言。「『何をいまさらキレイゴトを…』という皆さんの心の声が聞こえる」としながら、「一人一人の価値が尊重され、平等にチャンスが与えられる社会を実現したいという想いだけはやっぱり捨てられない」と強い決意を表明しました。そして、義足プロジェクトをはじめとする新たな活動を展開しています。

再出発を表明した乙武さんは、今後どのような道を歩んでいくのでしょうか? 「早稲田いのちのまちづくり実行委員会」の実行委員長として、早大生だった20歳の乙武さんを見つめていた安井潤一郎さんと共に、“原点”を振り返りつつ、未来への野望を語ってもらいました。

左から安井潤一郎さん、乙武洋匡さん

「商店街の乙武」の生みの親 早稲田の「恩師」から学んだ言葉

お二人はどのようにして出会ったのでしょうか?

乙武
大学1年生の冬に、知人の紹介で「早稲田いのちのまちづくり実行委員会」に参加したことがきっかけです。安井さんは、この実行委員長を務めていました。

学内のサークルで同年代と一緒に活動をすることも魅力的ですが、20歳くらいだと、なかなか他の世代の人間と関わることも少ないですよね。この実行委員会では、学生だけでなくさまざまな年代の人と出会うことができる。

また自分の場合、学生としても早稲田に通っているし、実家も早稲田にあったため、早稲田のまちづくりに関わることは自分の地元をつくることだったんです。
安井
「早稲田いのちのまちづくり実行委員会」に学生が関わるようになったのは、乙武が入ってくる半年ほど前のこと。今の学生はみんな勉強に忙しく、地域と関わる場所なんて、小学生の時に利用した児童館くらいしかありませんよね。

しかし、早稲田で生まれ育った俺の世代は、小学校の頃から近所の大学生たちに早慶戦に連れて行ってもらっていたから、「都の西北」や「紺碧の空」を歌えることも当たり前だった。そんな昔の早稲田にあったつながりを復活させるために、まちづくりを通じて学生と緊密に関わろうという方針から立ち上がったんです。

当時の乙武さんは、世間では無名の大学生でした。第一印象はどのようなものだったのでしょうか?

安井
大隈記念講堂の小講堂でやったイベントに、乙武が電動車いすでやって来たのを覚えています。入り口が階段になっていたため、車いすから降りて近づいてきた乙武が「一緒にまちづくりをしたいです」と、話し掛けてきた。

そこで、子どもたちの車いす体験のリーダー役を与えて活動してもらったんです。乙武は、いつも電動車いすに乗りながら、どこがバリアフリーかそうでないかをよく見ている。子どもたちの車いす体験を任せるには適任でした。

以降、乙武さんはこの実行委員会のメンバーとして、学校での講演活動や、シンポジウムの企画などを展開していきました。当時、何がモチベーションになっていたのでしょうか?

乙武
本人を目の前にして言いにくいのですが…やっぱり安井潤一郎の魅力は大きかったですね。普通に学生をしていたら、こんなに面白いおっさんに巡り会うことはできません(笑)

ただ話していて面白いだけでなく、抜群の行動力と周囲を巻き込む力にどんどん引き込まれていく。安井さんのそばでいろいろ学びたいという気持ちは大きかったですね。
安井
23年分ほめられた気がするよ(笑)。
乙武
安井さんの口からは名言が連発するんです。当時、安井さんが言っていた「失敗と書いて経験と読む」という言葉は、今の私にとって大きな指針になっています。この人のそばにいることで、人間が豊かになり、さまざまなヒントを得られる。そんな存在でした。
安井
俺の近くには、商店街の人だけでなく、行政や企業の人などがいたため、普通の大学生では会えない人が早稲田の商店街にたくさん訪れます。普段できない経験は、いっぱい与えられたと思います。

ただ商店街の中には、初めのうち「乙武としゃべるときに、どこを見てしゃべればいいか分からない」というメンバーがいたことも事実です。しかし2回、3回と接することによって、みんな「普通に接すればいいんだ」ということに気付いていく。

そして、だんだんと商店街全体に受け入れられるようになり、「商店街の乙武」というキャラが確立していきました。

乙武さんが商店街に関わるようになり、街にも変化があったのでしょうか?

安井
障害に対して「助けてあげなきゃ」というサポートする気持ちばかりでなく、乙武本人ができることを探し、商店街の仕事を手伝ってもらうようになっていった。障害者は「サポートすべき存在」ではなく、「できることを協力してもらう存在」であることに気付かされましたね。

戻れる場所のあるありがたさ 「おかえり」と言える街

22歳のときに『五体不満足』でブレイクした後の乙武さんの活躍を、安井さんはどのように見ていたのでしょうか?

安井
まず、本が爆発的なブームを巻き起こした当初、一部の人は、乙武に対してバッシングをしていました。中でも、いちばん乙武をバッシングしていたのは、健常者ではなく障害者たちだったように思う。

1998年に発売した乙武さん初の著書『五体不満足』(講談社)。

実際、俺のところにも「あんな風に乙武が紹介されるので、他の障害者も乙武と同じように見られてしまう…」っていう苦情が舞い込んできたんです。しかし、もちろん乙武は乙武だし、他の人は他の人。健常者でも障害者でも、人によって違うのは当たり前ですよ。

乙武さんの中にも、ブレイクを経験したことによる戸惑いもあったのでしょうか?

乙武
やっぱり戸惑いはありましたね。商店会でまちづくりの活動はしていましたが、その他は一般的な大学生活を送っていただけ。それなのに、週刊誌記者に張り込まれたり、歩いているとサインや写真を求められたり、授業の合間にはリーガロイヤルホテルで取材を受けまくる…そんな日々に変わってしまったんです。

けれども、そんな状況の中でも浮足立たずにいられたのは、両親や友達、それに安井さんをはじめとする商店街の皆さんが、それまで通り受け入れてくれたから。
身近な人の態度も変わっていたら状況に流されていたのかもしれませんが、早稲田に戻れば一学生だし、安井さんの一兵卒としてまちづくりを行う存在に過ぎない。「戻れる場所」があるのは、とてもありがたかったですね。

早稲田という街があるからこそ、「ベストセラー作家」という肩書に流されなかった、と。

安井
人間は、戻る場所があれば安心して動くことができます。卒業生が来る時、商店街では「おかえりなさい」と出迎えているんです。学んだのは大学ですが、育ったのは早稲田の街。商店街は、彼らにとって地元のような存在でありたいと思っているんです。
乙武
私も、長い期間離れていて早稲田に来ると「ただいま」という気持ちになります。「帰ってきた」という感じがありますね。

その後、乙武さんはスポーツライターや教員として活躍し、ボランティア団体の立ち上げなどを行いましたが、3年前の不倫スキャンダルによって生活は一変します。スキャンダル以降は、どのような生活を送っていたのでしょうか?

乙武
海外を放浪しながら「自分は何をやりたいんだろう?」と見つめ直す時間を過ごしていました。このスキャンダルによって、できなくなったこともあるし、舞い込むものもあった。その中で、「やりたいこと」や「できること」を真剣に考えていった。その結果、行き着いたのはやっぱり「多様性」という言葉でした。

私のような身体障害だけでなく、いろいろな境遇によって選択肢が狭まり、フェアな勝負ができない人は大勢います。これからはそんな人々が、せめてスタートラインだけでも揃えられる環境をつくるために活動したいと思っているんです。

およそ1年にわたる海外生活で、どんなものを目にしていたのでしょうか?

乙武
半分は観光、半分は生活をしながら、現地の文化や人々の考え方に触れていました。特にロンドンの生活は印象的でしたね。

ロンドンって、東京を上回るビッグシティという印象が大きいですが、いざ暮らしてみると、人は働かないし、ミスは多い、仕事も遅い。私にとっての生命線であるエレベーターもすぐ壊れ、復旧までに3週間なんてこともあったんです。

とにかく不便でルーズなイギリスの生活に対して、初めの2週間くらいはストレスを感じていました。しかし、3〜4週目になると、ロンドンの仕組みは「健全」なのではないかと思うようになっていきます。

不便なのが「健全」とは?

乙武
日本人のようにしゃかりきに働かないからこそ、イギリス人は、家族と過ごしたり、プライベートの時間を確保できるんです。ある時、閉店5分前の薬局に入店したところ、店員さんは本当に嫌な顔をして接客をし、私を追い出すように閉店作業をして帰っていきました。

日本の客商売ではあり得ないことですよね。でも、彼らの感覚では普通なことだし、それで客との合意がなされているなら、ロンドンの不便さはむしろ健全なのではないでしょうか。

仕事よりも人生の方が優先順位が高いと。

乙武
その一方で、明らかに不健全だと感じたのが移民への対応です。イギリス人がルーズな性格であっても社会が回っているのは、ポーランドを中心とした移民の人々が勤勉に仕事をして社会を支えているから。

しかし、イギリス人は彼らに感謝するどころか「仕事を奪われた」と感じており、それがブレグジット(※イギリスのEU離脱問題)にまでつながっている。とても身勝手な話だと思います。

ただ、日本を振り返ってみると、労働者としてやってきたベトナム人やフィリピン人に対して同じような態度を取っているのではないか。私が日本に帰った頃から、入管法(出入国管理及び難民認定法)の改正など外国人を巡る議論が高まってきています。今後も、人種・国籍によるマイノリティーの問題はさらに大きくなっていくでしょうね。

海外移住に気持ちが傾いたこともあったそうですが、なぜ帰国を選んだのでしょうか? あれだけのことがあって、どうやって気持ちを保っていられたんでしょう…?

乙武
オーストラリア第2の都市であるメルボルンは、バリアフリーも進んでおり、世界で最も住みやすい街と言われています。ここに6週間にわたって滞在したときには、全てを切ってオフにできる本当に理想的な街だと感じました。そのままメルボルンに住んだらとても楽に暮らせたはずです。だから、気持ちが切れなかったかって聞かれたら、それは嘘。当事は本気で移住を考えていました。

しかし、そんな理想的な場所で暮らしていると、自分が死んだ時に「よくやったな」と言ってあげられないと感じてしまったんです。理想的な場所で生活を送るのではなく、自分にしかできないことが待ち受けている環境で生きていきたい。そう自覚したので、帰国を決意したんです。

40歳からの新たな挑戦 広告塔を引き受けた理由

現在、乙武さんはソニーコンピュータサイエンス研究所と共に、ロボット技術を駆使した最新の義足で歩く「OTOTAKE PROJECT」を展開しています。一体、どのような理由から、このプロジェクトを手掛けることになったのでしょうか?

2018年に始動した乙武さんが義足での歩行を目指すプロジェクト『OTOTAKE PROJECT2018』。

乙武
一番の理由は、単純に、暇だったからですね。

身も蓋もない理由です(笑)。

乙武
開発者の方からお話をいただき、とても面白そうだと思ったのですが、スキャンダル前の分刻みのスケジュールだったら引き受けられなかったでしょう。けれども、お話をもらった時は、1年先までスケジュールが真っ白という状態。正直、やることもなかったのでプロジェクトに参加することにしたんです。
そもそも私自身は、義足で歩きたいと強く願っているわけではありません。3歳から電動車いすに乗っていたし、いまさら肉体改造をして歩けるようになりたいわけではない。けれども、その一方で、後天的に足を失って「歩きたい」と強く願う人もいます。それがモチベーションとなって、引き受けることになったんです。
このプロジェクトは、これまで歩くことを諦めていた人々に対して、「将来歩けるようになるかもしれない」という希望を与えられるもの。そして、その意義を最大限に高めるためには、まずこんな義足が開発されたということを知ってもらわなければならない。それがモチベーションとなって、引き受けることになったんです。

自分自身のためではなく、他の歩けない人のために引き受けた、と。

その意味では、広告塔というものをポジティブな意味で引き受けています。「悪名は無名に勝る」と言いますからね(笑)。私のような人間がチャレンジしているという情報を通じて、こういう義足ができたことを知ることができる。それは価値のあることですよね。

ただ、40歳から何かを大きく変えていくのは、とてもハードルの高いことだと思いますが…。

そうかもしれませんね。でもそれこそ、安井さんなんてすごく感覚が新しいんですよ。早稲田の商店街では、現在キャッシュレス化を進めており、ブロックチェーンの技術を活用しようとしているそうです。

安井さんは今69歳ですよね? この年齢にして、そんな最先端の議論をできるのは本当にすごい! 話をしていても刺激を受けるし、先輩の後ろ姿を見て、こうありたいと強く思います。
安井
乙武が早稲田を卒業して以降、こんなに面と向かってちゃんと話す機会はなかったから、今日はこちらもたくさん刺激を与えてもらいました。義足の話を聞いていても分かるように、乙武はいつも希望を持って活動をしています。そして、昔から、希望を持って乙武が動くことによって、さまざまなことが変わっていったんです。

乙武さんが動かなければ、日本中の、障害を取り巻くイメージは全く別のものだったでしょうね。

乙武
これまで障害者って、“絶対にたたいてはいけない存在”だったはずですよね。しかし、私のスキャンダルによって、こんなにフルスイングでたたけることが証明された(笑)。

たしかに、こんなにバッシングを受けた障害者は前代未聞です。ただ、それは乙武さんが「健常者と同じ世界に生きている」と、世間から認識されていることの証左だとも言えますね。安井さんは再出発した乙武さんについて何を思われますか。

安井
失敗を経験することによって、いろいろなものが見えてくるんですよ。今の学生は「一度失敗をすると人生が終わってしまう」と思いがちですよね。それは世間がそういう失敗をしたり、しくじった者に対して厳しく、なかなか再出発させようとしないからだと思うんです。しかし、失敗しない人間なんていないんですよ。

世間の風はなかなか冷たいですよね。

安井
だからこそ、特に若い人に対しては、「今、失敗しないならいつ失敗するんだ!」と言いたい。「誰かの顔色ばかり気にすんな、失敗にめげてばかりいるな、本当に自分のやりたいことを言ってごらん? それをどんどんやりな」って。本来、その後ろ盾を持ってやるのが「大人」だと思うんです。乙武を見てごらん。あれだけ社会からたたかれても、希望を失わずに戦おうとしているでしょう、ってことなんですよ。

乙武さんも今回の「失敗」によって、別のものが見えてきましたね。

乙武
私の場合は周囲に迷惑をかけてしまったので前向きに捉えることは難しいのですが、一般的に言えば、挑戦そのものや成功したことだけでなく、仮に失敗してもそれがもっとポジティブに語られたら、「立ち直ろう」という気持ちが芽生えやすい状況になると思うんですよね。

特に大手マスコミは成功ストーリーしか伝えませんから。先ほども言いましたが、私は誰もが安心してフェアな勝負に望める社会にしたい。茨の道を歩むことになるのが分かっていても、その気持ちがどうしても、捨てられなかったんです。これからはそのために自分の人生を使いたいと思っています。
プロフィール

乙武 洋匡(おとたけ・ひろただ)

1976年、東京都生まれ。2000年、早稲田大学政治経済学部卒業後、スポーツライター、小学校教諭などを務める。1998年、早稲田大学在学中に著した『五体不満足』(講談社)が600万部のベストセラーに。現在は、文筆家のほか、AbemaTV『AbemaPrime』の金曜日メインMCを務めるなど多岐に活躍。『だいじょうぶ3組』(講談社文庫)、『だから、僕は学校へ行く!』(講談社)、『オトことば。』(文藝春秋)、『車輪の上』(講談社)など著書多数。

安井 潤一郎(やすい・じゅんいちろう)

1950年、東京都西早稲田生まれ。早稲田中学、早稲田高等学校、早稲田大学(中退)に学ぶ。早稲田商店会相談役 前衆議院議員。環境を切り口とした商店街活動に取り組み「NPO法人東京いのちのポータルサイト」の立ち上げや、地域通貨・エコマネー「アトム通貨実行委員会」を設立するなど活動の幅は多岐にわたる。現在は、早稲田の商店街のキャッシュレス化に尽力する。

取材・文:萩原 雄太

1983年生まれ、かもめマシーン主宰。演出家・劇作家・フリーライター。早稲田大学在学中より演劇活動を開始。愛知県文化振興事業団が主催する『第13回AAF戯曲賞』、『利賀演劇人コンクール2016』優秀演出家賞、『浅草キッド「本業」読書感想文コンクール』優秀賞受賞。かもめマシーンの作品のほか、手塚夏子『私的解剖実験6 虚像からの旅立ち』にはパフォーマーとして出演。 http://www.kamomemachine.com/
撮影:加藤 甫
編集:横田 大、裏谷 文野(Camp)
デザイン:中屋 辰平、PRMO
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