Waseda Weekly早稲田ウィークリー

芥川賞作家・綿矢りさの12年<後編> 小説家として、母として、いま思うこと

学ぶことの楽しさと怖さを知った夜に小説・昼は講義の危うい大学生活

綿矢りささんが、作家として歩んできた12年間に迫る本特集。前編では、早稲田大学文学学術院の堀江敏幸教授とともに登壇した講演会「図書館と私」の模様をお届けしました。後編となる今回は、綿矢さんの単独インタビューから彼女の人生を振り返ります。当時、最年少で芥川賞を受賞し、文壇だけではなく芸能界やマスコミまでも注目していた「文壇のアイドル」から一転、綿矢さんに待ち受けていたのは、6年にも及ぶ長いスランプでした。学生時代には未完の小説を何本も手掛けて悪戦苦闘。卒業後いくつかの作品を発表しつつも、大失恋をきっかけにいったんは実家のある京都に帰郷し、創作活動とアルバイトを並行して行う、といった私生活を送ります。そんな「後にやってきた下積み期間」を経て、再び作家としての歩みを進め、2012年『かわいそうだね?』で大江健三郎賞を最年少受賞するに至ります。彼女の創作人生を追っていくことで浮かび上がってきたのは、作家として、人間として成長してきたひとりの女性の姿でした。

――早稲田大学在学中に、19歳で史上最年少の芥川賞受賞者となりました。ひとりの学生でありながら、芥川賞作家でもあった綿矢さんの大学時代はどのようなものだったのでしょうか?

綿矢りさ
(以下、綿矢)
学生時代は、ずっと小説を書いている毎日でした。けれども、なかなか完成させることができずに苦しんでいましたね。夜に小説を書いて、そのまま睡眠不足の状態で授業を受けていたんです。今振り返ってみると、いつ体を壊してもおかしくないような、危ういバランスで生活を両立させていました。

――小説家と学生、比率としてはどちらのほうが大きかったのでしょうか?

綿矢
小説家としての気持ちが強く、執筆に比重をおいていました。ただ、大学はちゃんと卒業したいと考えていたので、真面目に通っていたんです。今思えば、もっと大学生活をエンジョイしても良かったかもしれない。友達もあまりいなかったし、課外活動の思い出も、塾の講師のアルバイトを1年半くらいしていたことくらいしか記憶に残っていません。

――大学時代に苦しんでいた小説は、その後どうなったのでしょうか?

綿矢
書いても書いても最後まで完成させることができず、ようやく書けたと編集者に渡してもボツになって戻ってきてしまう。それをまた何回も書き直し、最終的には全然違う小説になってしまったり……。結局、最終的にその小説は完全に駄目になり、今ではもうパソコンの中に残っているだけになってしまいました。自分の全集にも、とても入れられません(笑)。

――講演会でお話されていたように、学生時代には千葉俊二先生のゼミに入り、谷崎潤一郎についての授業を受けていました。他には、どのような授業が印象に残っていますか?

綿矢
近代文学が好きだったので、伊藤整(戦前から戦後にかけて活躍した文芸評論家・小説家)についての私小説論の授業が印象に残っています。授業に出て、まず教わったのが「ししょうせつ」と読まずに、「わたくししょうせつ」と読め、ということ。それに、その授業で「私生活ばかり書いている小説家は行き詰まる」と言われたことは今でも心に残っています。

――作家としても、授業を通じて学んだ経験は大きいのでしょうか?

綿矢
そうですね。教育学部国語国文科は、年代ごとに授業が分かれているんです。平安時代から現代までの文学史を4年間かけて習うので、頭の中で文学の歴史に整理がつくんです。その知識は、小説を執筆する際にはだいぶ助けになりました。ただ、それを学んだことによる弊害もありました。授業で文学史や物語の構造を学ぶうちに、だんだんとそれがプレッシャーにもなっていったんです。これまで、文学には続いてきた歴史があり、その中で無数の構造が発明されています。それらは知識としてはありがたかったのですが、いざ自分で作品を執筆しようとするときには、それが障壁となり書けなくなっていったんです。大学生活では、学ぶことの楽しさと同時に、怖さも知りましたね。
時代の寵児・最年少芥川作家に訪れた“スランプ”という下積み時代

――芥川賞を受賞し、一躍時の人となった綿矢さんの顔と名前は、当時の早稲田の学生はほとんどが知っていたと思います。やはり、人目を気にしながら歩いていたのでしょうか?

綿矢
いえ、汚い格好でウロウロしていましたよ(笑)。デニムを履いて、生活も不規則だったから、頭もボサボサで、お化粧もちゃんとしていなかったです。

――いわゆる「ワセジョ」の典型ですかね(笑)。

綿矢
けれども、早稲田はそういう外見でも許される雰囲気がありますよね。冬なのにげたを履いているような奇抜な格好をしている人も大勢いますし。そういう人が許されていたから、私もだいぶなじんでいたんじゃないかなあ(笑)。

――キャンパスの中で覚えている風景はありますか?

綿矢
学生が建物の前でたばこを吸っている風景は印象に残っています。きっと学生運動やその前の時代から、学生たちはずっと外に出てたばこを吸っていて、その光景は昔からずっと変わっていないのでしょうね。もちろん学生はそのときどきで入れ替わりますし、建物も新しくなっていきますが、そんな昔の早稲田につながる光景を見つけると、どこか懐かしい気持ちになりました。

――早稲田が培ってきた歴史に触れる瞬間ですね。ところで学生の頃、綿矢さんは就職を考えなかったのでしょうか? 最近では、前回の『早稲田ウィークリー』に登場した直木賞作家の朝井リョウさんのように、会社員をしながら小説を執筆する作家も増えているようですが。

綿矢
小説をずっと書いていて、でもなかなか書き終えられない……。そんなことを繰り返しているうちに、気づいたら就職活動の時期が終わっていたんです。もちろん専業作家になることを考えていたのですが、「これからの生活がどうなるのか」という不安もあったので、そんなに固い決意があったわけではないんです。

――書いても書いても完成させられないスランプの時期は大学卒業後、いつ頃まで続いたのでしょうか?

綿矢
大学3年生の頃から、『勝手にふるえてろ』(文藝春秋)を出す2010年くらいまでですね。いくら書いても本にならずに編集者から原稿を突き返されてしまう苦しい時代でした。ただ振り返って考えれば、それも必要な時間だったのだろうと思います。芥川賞をいただいたことはとてもありがたいと思っていますが、それ以前に小説を練習する時間がほとんど取れていなかったんですね。だから、その時期にあらためて小説を書くための修行をしたんじゃないか、と考えています。

――デビューし、ベストセラー作家になった後に下積み時代がやってきた、ということですね。今振り返ると、何が原因でうまくいかなかったのでしょうか?

綿矢
そうそう、まさに後からやってきた下積み期間。あのときは、起承転結のうち「起承」だけを丁寧にやっていたら、描写に凝りすぎてしまったり、風呂敷を広げすぎるような状態に陥ってしまったんです。そのときに「転結」はある程度、強引にしないと終わらないんだなと学びましたね。…それと書けなかったとき、見放されても全然おかしくなかったのに、気長に待ってくれる編集者さんがいた。それが救いになって、また本を出せるようになっていったんです。本当にありがたかったです。

――スランプの時期には、大失恋を経験したということも公言されていますね。

綿矢
失恋をしたから、書けるようになったり書けなくなったりしたわけではありません。むしろ、だんだんと書けるようになり、興味が小説に集約していったため、私生活がおろそかになって下り坂になってしまったんです。でも今でこそ、そんな失恋も必要なものだったんだ、と諦めることができます(笑)。

――当時は、実家である京都に戻ってアルバイト生活も経験したそうですね。作家として挫折をする寸前の、ギリギリの日々だったのでしょうか?

綿矢
書いてばかりで一向に作品が進まないときにバイトをすると、少なくとも小説よりも生産性があり、気分転換にもなりました。ホテルや洋服屋、予備校の資料配布などいろいろなアルバイトを経験したんですよ。チケットのコールセンターでバイトをしていたときは、人気の公演のチケットを取れていないのに「取れました」と言ってしまい、お客さんから散々怒られました(笑)。

――お話を伺っていると、小説家志望の学生のようで、とても芥川賞作家の日常とは思えません(笑)。まさに、綿矢さんにとっての下積み時代だったんですね。

綿矢
けれども、そんなさまざまな仕事の経験が執筆の支えになっています。洋服屋のバイトで得た知識が小説にも役立つことがあったり。今では本当にスランプを経験して良よかった、と思っています。
書きたいと思った0秒後に書き始める“未完の大作”は強引にでも終わらせる

――最新刊『手のひらの京(みやこ)』(新潮社)は、故郷である京都が舞台となっていますね。いったいなぜ京都を描こうと思ったのでしょうか?

綿矢
観光地でもある街ですが、それだけでなく、自分が京都で過ごしてきた中でいいなと思った風景にいる女の人を書きたいと思いました。卒業後にいったん京都に戻って、結婚を機に生活の拠点を東京に移したことも、京都を客観的に見ることができるようになった一因かもしれません。やっぱり京都で一番の思い出は、家族と住んでいたことなので、家のことを思い出して書いています。

――結婚・出産などを経て変化してきた考え方も刻まれているのでしょうか?

綿矢
あえて変化を書きたいと思っていたわけではありませんが、登場する3姉妹の年齢設定がそれぞれ20代前半、20代半ば、30代だったため、書いているうちにその頃の自分がどんなことを考えていたかを、自然と思い出すことになりました。すると自分ではあまり変わったつもりはないのに、はっきりと変化していることが分かりましたね。

――スランプを抜け出した当初の作品『勝手にふるえてろ』(文藝春秋)は、自意識過剰な女性が主人公の話であり、現在作品とは手触りがまるで異なっていますよね。

綿矢
『勝手にふるえてろ』は、自分のことばかり考えている時期に書いた小説ですね(笑)。それから結婚して、家族のことを考えるようになると、興味の対象は移り変わっていったんです。

――昨冬にお子さんを出産したばかりですが、創作の時間は取れるのでしょうか?

綿矢
なかなか難しいですね。何とか書いていますが、子どもが寝ている間にゲリラ的に机に向かっている状態です(笑)。結婚し、出産を経験することで、初めて独身時代の創作に充てていた時間のぜいたくさがわかりました。子供ができると、自分のために使える時間はまったく変わってくるんです。以前は「自分のために」という意識すらなかったかもしれない。短編小説なら書けるかもしれませんが、長編はしばらく難しいでしょうね。

――早稲田大学の学生の中にも、小説家を目指している人は数多くいます。彼らにアドバイスをお願いします。

綿矢
何かを書きたいのであれば「大学が終わってから」とか「就職が決まってから」と先延ばしにせず、書きたいときに書くのが一番です。もし「今書きたい」と思ったら、ケータイでもパソコンでも何でもいいので、その0秒後に書き始めたほうがいい。特に女性は時間に限りがあります。書くのに早すぎるということはありません。それに、そのときの自分にしか書けないものは、必ずあります。以前、新聞社の企画で小学生に授業をしたのですが、小学生にしか書けない面白い話をたくさん読むことができましたから。

――綿矢さんなりの書くためのコツはありますか?

綿矢
頭のなかに浮かんでいるときはすごくいい作品に思えても、文字にしていくとあらが見えて投げ出したくなります。けれども、それでも書き続けて完結させることが大切です。終わらせてからあらためて見返してみると、また違ったふうに見えてきますから。

――ただ作品を「終わらせる」というのは、作家にとってとても難しい決断ですよね。

綿矢
小説を書く上で、一番難しいことかもしれません。そして途中で、延々と見直しをしてしまう、という……。けれども、一回強引にでも終わらせてしまえば、小説を客観的に眺めることができます。多くの場合、一つの作品の中にいろいろなものを盛り込んでしまいがちですが、外側から眺めることによって、その作品のスケール感が分かってくる。つまり、この小説に必要なのはどのくらいのメッセージ性なのか、それにはどれくらいの長さが必要なのか、説明をもっと簡潔にできる部分はないか、といった尺度ですね。自分の経験から言っても、未完の大作が一番危険なんですよ(笑)。

――綿矢さんの中で、学生時代から10年以上を経たいま、ご自身でどんな部分が変わったと思いますか?

綿矢
学生の頃は、無限にある……ように思えた、可能性を探っていたんだと思います。その頃に見つけた可能性を育てているのが、「今」なんじゃないかな。
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