「これまでで最も素晴らしい大会」。11月2日に閉幕したラグビーワールドカップ2019日本大会(以下、W杯)を、国際統括団体ワールドラグビーは高く評価した。そんな特別な大会を端的に示した言葉こそ、大会公式キャッチコピー「4年に一度じゃない。一生に一度だ。―ONCE IN A LIFETIME―」ではないだろうか。
実はこのキャッチコピーを考案したコピーライターの吉谷吾郎さんは、早稲田大学の卒業生(2011年政治経済学部卒)だ。しかも、ラグビー蹴球部の出身であり、W杯で全試合に出場、活躍した山中亮平選手(2011年スポーツ科学部卒)とは同期かつ同じポジションという関係性だった。
W杯の盛り上がりを陰で支え、山中選手とも大会中にさまざまなやり取りをしていたという吉谷さんに、キャッチコピーに込めた思い、ラグビーの魅力を伝えるきっかけとなった早明戦のエピソードなどを語ってもらった。
試合会場をはじめ、街中を彩った大会公式キャッチコピー「4年に一度じゃない。一生に一度だ。- ONCE IN A LIFETIME -」は、「2019ユーキャン新語・流行語大賞」にもノミネートされた
W杯キャッチコピーの原点にあった「最後の早明戦」
社会に出たらラグビーとは全く違う世界で勝負したい…。そんな理由から、ラグビー蹴球部出身者のいないブランディング会社のコピーライターという職種を選んだ吉谷さん。だが、入社当初はなかなか仕事で芽が出なかったという。そんな状況から、いかにしてラグビー業界に携わり、W杯の仕事を手掛けるまでになったのか?
「きっかけは卒業から2年後、2013年の『最後の早明戦』です。あれがなかったらきっと今のようにラグビーの仕事をしていなかったと思います」
そうきっぱりと言い切る吉谷さん。『最後の早明戦』とは、解体前の旧・国立競技場でのラストゲームとなった2013年12月のラグビー早明戦のことだ。節目を迎える伝統の一戦を満員の競技場で行いたいと、当時の早稲田大学ラグビー蹴球部監督・後藤禎和氏(2003年大学院アジア太平洋研究科修士課程修了)が中心となり、少数精鋭の集客プロジェクトチームを結成。そのメンバーに吉谷さんが誘われ、企画・ディレクションを任されたのだ。
「仕事というよりもほとんどボランティア。それでも、早稲田も明治も関係なく、チームの仲間と一緒に目標に向かって寝食も忘れて取り組んだ結果、前年約2万人だった観客がその年は約5万人集まりました。うれしかったのはその結果だけでなく、あらためて『ラグビーっていいスポーツだな』と思えたことです」
このプロジェクトをきっかけに、ほとんどお金にならないけれど、価値のあるラグビー関連の仕事を積極的に行うようになり、次第に日本ラグビーフットボール選手会の立ち上げや、さらには日本初のプロラグビーチーム「サンウルブズ」の立ち上げにも関わるようになった吉谷さん。その延長線上に「ラグビーW杯のキャッチコピー考案」という大舞台が待っていたのだ。
「小さな仕事をわらしべ長者のように積み重ねていった先に、幸運にもこの仕事に携わる機会をいただけた。こんな機会はきっともう二度とやってこないはず。これは自分にとっても一生に一度のチャンスだ! と感じました。だから、その気持ちをまっすぐコピーに込めたんです。そのような、個人的だけれど強い実感のある思いが、大会に関わる皆さん、そしてラグビーファンの皆さんに共感いただけたのなら、これほどうれしいことはありません」
写真左:吉谷さんが制作に携わった、岩手県釜石市「釜石鵜住居復興スタジアム」のロゴマークがデザインされた旗(右端)
写真右:フィジー対ウルグアイ戦が行われた釜石鵜住居復興スタジアム。吉谷さんが制作した「スタジアムブック」ブース前で(前列右が吉谷さん)
それ以降も、W杯の会場の一つである「釜石鵜住居復興スタジアム」のロゴマーク作りや、スタジアムのブック作り、こけら落としイベントの企画から、ラグビータウン熊谷の「スクマム!クマガヤ」という地域活性のプロデュースなど、さまざまな形でW杯の盛り上げ役の一助を担った吉谷さん。だが、大学在学中は「ラグビーへの強い劣等感があったんです」と、当時を振り返った。
「人はどこまでも成長できる」と学んだ、山中選手のW杯でのプレー
「僕は4年間、Aチームだけが袖を通せる“赤黒ジャージー”とは無縁。あの赤黒を着て、部の誇りと伝統の重みを背負って試合をしたことは一度もありませんでした」
全国から猛者が集う早稲田大学ラグビー蹴球部で、自身の存在意義を模索する日々。そんな吉谷さんと同期で、同じポジションで光り輝いていたのが山中亮平選手だった。
「僕は高校から本格的にラグビーを始めて、ラグビーが大好きだったんです。彼はその高校時代からスターで、メディアからも『天才』とか『ファンタジスタ』と呼ばれていた選手。僕も高校3年次の花園の試合をテレビで見ていて、『とんでもないやつがいるな』と感じました。実際に入部前の新人練習で一緒にプレーをしたら、とにかくデカイ、速い、うまい。僕がラグビーを嫌になっちゃったのは、山中のせいと言えるかもしれません(笑)」
大学に入って本物の才能を目の当たりにし、さらに度重なるけがもあり、3年生まで「ほぼ腐りかけていた」という吉谷さん。だが、最終学年になって心境の変化があった。
「後輩たちには、僕みたいに腐ってほしくなかった。あっという間の4年間を全力で駆け抜けてほしかったし、何より『早稲田でラグビーをして良かった』と思ってもらいたかった。そのために僕がやったのは、誰よりもラグヒーを楽しむこと。きつい練習の前にみんなが沈んでいたら僕が盛り上げる。反対にチームのみんなが緩くなっていたら締める。時には部室でギターを弾いてみんなで歌ったりもしました(笑)。そうやって、自分が部にいる意味を見い出せたのが4年の春ころでした」
その思いは、同じポジションで練習してきた山中選手にも伝わっていた。
「最後の全国大学選手権の決勝戦前夜、僕から『山ちゃん、明日頑張ってね』という内容のメールを送ったら、『俺は吾郎が熱いやつで、ラグビーが好きなのを知ってるぞ』と返信をくれたんです。ずっと腐っていたことも含めて報われたというか…。こいつが試合に出て負けるなら、もうしょうがない、と思えました。本人は『そんなの覚えてない』と言うのですが(笑)」
結果的に、「最終学年での日本一」という栄光には届かなかった。だが、決戦前夜のやり取りがあったからこそ、卒業後、2人の関係性は在学中以上に強固になった。
「前回、山中がW杯の出場を逃してからのこの4年間は、ラグビーの話に限らず、身の回りのことからファッションのことまで、毎日のように連絡を取り合いました。代表が決まった瞬間にもすぐに連絡をくれて。うれしかったですね。僕の方が泣いていたかもしれない」
2015年のW杯のメンバー入りを惜しくも逃した当時、山中選手は27歳。運動量が激しいラグビーにおいて、しかもより俊敏さが求められるバックスにとって、「4年後」を考えるのは厳しい年齢とも言える。「それでも諦めずに戦い続け、悲願の代表入りを果たした山ちゃんには、本当に元気と勇気をもらえました」と語る吉谷さん。W杯のピッチで奮闘する山中選手の姿は、吉谷さんにとって格別なものだった。
いけーーー!!ぜんぶ、ぶつけてこーい!#RWC2019 #JPNvSCO pic.twitter.com/2l09am8ZB1
— 吉谷 吾郎 (@nitta_shiyo) October 13, 2019
W杯期間中、吉谷さんは山中選手へのエールを何度もツイートした
「今回の日本代表のシステムだと、彼のプレーは役割的に地味で目立たないんですけど、W杯の舞台では、これまでのつらかった思いを全部吐き出しているようなプレーをずっとしていました。大学時代は『天才』『ファンタジスタ』と呼ばれる司令塔だった山中が、以前は消極的だったタックルに何度も挑み、起き上がってはまたタックルしてるんです。人はどこまでも成長できるんだと感じて、勇気をもらいました」
山中選手をはじめ、代表メンバーの懸命なプレーが生み出したともいえる空前のラグビーブーム。この熱い熱を、今後どうすれば大学ラグビーに転化することができるだろうか?
「W杯と同じように見るのではなく、大学ラグビーには大学ラグビーの素晴らしさがあります。それは、大学の名をかけて争うからこそ、互いの交友を深められるということ。そして、それはラグビーの原点でもあります。難しく考えず、『授業中、隣の席に座ってるアイツのカッコいいところを見に行こうよ』という軽い気持ちでいいと思うんです。今年の早慶戦・早明戦はきっと満員のはず。例年以上に盛り上がるお祭りを、ぜひ楽しんでください」
取材・文:オグマ ナオト(2002年第二文学部卒業)
写真撮影:石垣 星児
【プロフィール】
株式会社パラドックス クリエイティブ・ディレクター/コピーライター
東京都出身。早稲田大学ラグビー蹴球部OB。2011年政治経済学部卒業。ラグビーワールドカップ2019™大会公式スローガン「4年に一度じゃない。一生に一度だ。」や、釜石鵜住居復興スタジアムのこけら落としイベント「キックオフ!釜石 8.19」、Jリーグ・湘南ベルマーレの企業理念やスローガン「たのしめてるか。」など数多くの日本スポーツ界のクリエイティブを手掛ける。
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