知識と技能を学ぶ夜間学校-その源流・早稲田工手学校
大学史資料センター非常勤嘱託 北浦 康孝(きたうら・やすたか)
19世紀末から20世紀にかけて、日本は日清・日露戦争を経て、軽工業、さらには重工業を急速に発展させた。工業技術に関する知識と技能への需要が高まる中、1911年に夜間課程として創設されたのが、早稲田大学付属早稲田工手学校である。
高等工業教育を行う理工科(現在の理工学術院)は1908年に設立されていたが、工手学校は、技師のような高等技術者と技術を用いて作業に従事する者の間に立って、実務を担う中堅技術者の養成を目的とした。これを大隈重信は1913年の第1回卒業式で、「此学校の目的は、紙の上の技手を造るにあらずして、実際の技手を造るにある。」(『早稲田学報』第217号(1913年3月発行))と表現している。
開校時は機械科・電工科・採鉱冶金科・建築科(後に土木科が加わる)から成り、2年半を5学期に分け、入学資格は第1学期の尋常小学校卒業相当から第4学期の中学校卒業相当まで、各学期で異なった。授業時間は午後5時30分から9時30分となっている。夜間のため大学の校舎や実験・実習設備などを利用できること、理工科をはじめ、大学の教員が講師の中心であることは、工手学校の強みであり、魅力であった。
昼間に仕事を持つ学生が多いため、入学者数は経済の影響を受けたが、工手学校には向学心の旺盛な学生が集まり、講師や職員もその熱意に応えた。昭和の初めに学んだある卒業生は、秋田の鉱山に勤めていたが、測量の知識を学ぶ必要を感じて上京、働きながら通学した。秋田では早稲田大学の中学講義録を購読していたため、工手学校の講師名には見覚えがあり、親しみが湧いたという。また、別の卒業生は、勤労学生を相手に休講はできないと言って病床から駆け付けた講師の思い出を記している。(「早稲田工手学校-勤労と向学と」『早稲田大学史記要』第17巻(1985年1月発行))。1928年には、工手学校の上級に早稲田高等工学校も設けられている(1951年閉校)。
戦後の学制改革に伴い、工手学校は1948年に早稲田工業高等学校(夜間の新制高校。1950年に早稲田大学工業高等学校に改称)となった。その後、高校卒業者相当を入学資格とする産業技術専修学校(1964年開校)、早稲田大学専門学校(1978年開校)を経て、早稲田大学芸術学校(2001年開校)へと、その歴史は引き継がれている。これらの学校も工手学校同様、工業技術の高度化に対応し、制度の変更を伴いながら、多くの人材を輩出した。また、現在の芸術学校は、総合芸術としての建築を目指して、高度建築家の養成をその理念に掲げている。工手学校から芸術学校まで、知識と技能を学ぶ早稲田の夜間学校の歴史は、すでに100年を超えた。そして、その歴史は今も日々積み重ねられている。