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特集

60年前の早稲田へタイムスリップ!【創立記念特集】

60年前頃の大隈通りの光景(1966年『商学部卒業記念アルバム・早稲田人』から)

2026年、大学公式Webマガジン『早稲田ウィークリー』は創刊60周年を迎えました。その歴史は、1966(昭和41)年に創刊された前身の『早稲田』から始まります。そこで、今回の創立記念特集では、ワセダベアが60年前の早稲田へタイムスリップ! 当時の先輩たちは、何を着て、何を食べ、どんな一日を過ごしていたのでしょうか。ワセダベアと一緒に、現在との違いや意外な共通点を見つけてみましょう。

INDEX
▼【朝の支度】どこに住み、何を着て大学へ?
▼【通学】徒歩、バス、都電、地下鉄 大学へ向かう手段は?
▼【大学に着いたら】教室と図書館での学びは?
▼【お昼】どこで何を食べる? 1カ月の生活費は?
▼【放課後】サークル、喫茶店、仲間と過ごす時間

【朝の支度】どこに住み、何を着て大学へ?

今から60年前、早大生はどのような朝を過ごしていたのでしょうか。

1966年平均の下宿代(『早稲田』「1967年1月1日父母号」から)

当時は自宅から通う学生が多く、約60%の割合を占めていました(1967[昭和42]年度)。一方、下宿暮らしは30%ほど。一般的な4.5畳の1ルーム下宿の部屋代が月5,000~6,000円、2食付きなら1万~1万3,000円ほどでした(※1)。田無と東伏見に大学が運営する寮もありましたが、合わせても120人余りしか入れず、1967(昭和42)年度には約20倍もの競争率だったといいます。

※1 『早稲田』「1967年1月1日父母号」から

そんな学生たちの部屋を見てみると、当時の暮らしを物語る品々があります。1966(昭和41)年、生活協同組合(以下、生協)の新入生に向けた広告に並ぶのは、テープレコーダーをはじめ、「下宿・寮生活に」というキャッチコピーとともに、トースターや電気釜(炊飯器)、ポット、ヘア・ドライヤー、電気カミソリなど。自炊に便利な家電も普及し始めた頃でした。

朝食を済ませたら、身支度を調えて大学へ。この頃は角帽に黒い詰め襟、金ボタンの学生服のいわゆる“学ラン”スタイルの男子学生が多く、卒業アルバムの集合写真では7割ほどを占めていました(※2)。一方、1965(昭和40)年頃を境に、ブレザーやスラックス姿も増えてきました。生協の広告にも制帽や学生服と並んで、背広、ブレザー、スラックスが登場し、新しい生活スタイルが少しずつ広がっていったことが垣間見えます。また、女子学生の間では、ブラウスやセーターにスカートを合わせた装いや、ワンピース姿も見られました。

※2 『早稲田ウィークリー』『都の西北:建學百年』早稲田大学大学史編集所(早稲田大学)から

1960年代の早大生。当時のキャンパスファッションがうかがえます(1965年『政治経済学部卒業記念アルバム』から)。1966年の女子学生比率はわずか10.2%(『全国学校総覧 昭和42年版』[東京教育研究所]から算出)で、2025年は39.1%(早稲田大学ダイバーシティ推進室「Vision 150 数値目標に対する数字の推移」から)

当時は約6割が自宅通学! 今は国内外から学生が集まり、国際色豊かに。寮の争奪戦は今も続いているそうです。60年前は学生服姿の大学生が多かったなんてびっくり!

【通学】徒歩、バス、都電、地下鉄 大学へ向かう手段は?

早大生の通学を支えていたのは、徒歩を除くと、日本国有鉄道(以下、国鉄。現JR)、東京都電車(以下、都電)とバスでした。

国鉄の高田馬場駅からは徒歩で大学へ向かう学生が多く、大学に近づくにつれて増える古書店を眺めながら通っていたのでしょう。一方、飯田橋駅で降りる学生は都電を利用し、早稲田車庫前駅で下車。早稲田車庫と大隈庭園の間にあった「大隈横丁」を抜け、大隈記念講堂前へと出ていました。バスの場合は馬場下で降り、南門通りを経て早稲田キャンパスの南門か正門へ、または文学部(現戸山キャンパス)の正門へ向かっていました。

そんな風景を大きく変えたのが、1964(昭和39)年に開業した帝都高速度交通営団(現東京メトロ)東西線の早稲田駅です。当初は高田馬場駅と九段下駅間に早稲田・神楽坂・飯田橋の3駅で営業を開始。1966(昭和41)年には中野駅〜高田馬場駅間が開通し、国鉄との直通運転もスタートしました。市電やバスが行き交う街に地下鉄という新たな「足」も加わり、早稲田への通学はより便利になっていきました。

写真左:高田馬場駅前でバスの乗車を待つ学生たち(1966年『商学部卒業記念アルバム・早稲田人』から)
写真右:当時の地下鉄東西線・早稲田駅前(1966年『商学部卒業記念アルバム・早稲田人』から)

東西線は、この頃に加わった新しい通学手段なのですね! 現在は交通機関の発達とともに学部を超えて授業を受ける環境が整っています。

【大学に着いたら】教室と図書館での学びは?

1966(昭和41)年の早稲田大学の学生数は約4万人と、1950(昭和25)年の約2倍にまで増加し、一時は教室の整備が追いつかないほど。教室の増改築により徐々に環境は改善されるも、満席になった大教室の一部では拡声装置や文字・図表をスクリーンに拡大投映するOHP(オーバーヘッドプロジェクター)を使った講義も行われていました。

学生数が急増した1960年代の大教室での講義風景(1966年『法学部卒業記念アルバム』から)

同年に誕生した社会科学部の一期生は、とてつもない活気に満ちていました。教員の話にうなずき、面白ければ大笑いし、年度最後の講義では、終了時に拍手を送るなど、教室には熱気があふれていました(※3)。

※3 『社会科学部報』第31号から

授業を離れれば、図書館も学びの場の一つ。しかし学生の急増で、かなり混雑していたようです。1966(昭和41)年のアンケートに寄せられたのは、閲覧席の増設や照明の改善、冷房の設置などを望む声でした。入館者に占める蔵書利用者の割合は、1965(昭和40)年度で16.3%で、多くの学生は持参した本で勉強したり、新聞を読んだり、休憩室を利用したりして過ごしていたそうです。こうした蔵書閲覧率の低下は、本質的には学生の「図書館離れ」に起因するとの指摘もありました。

写真左:満席の図書館の様子(1965年『商学部卒業記念アルバム・早稲田人』から)
写真右:当時、試験時間割は掲示板に貼り出していた(1967年『商学部卒業記念アルバム・早稲田人』から)

大きな教室に学生がぎっしり! 現在はプロジェクターを使う授業も多く、パソコンやタブレットでメモを取るのが主流です。図書館が混み合うのは、今も同じですね。

【お昼】どこで何を食べる? 1カ月の生活費は?

生協食堂と学生ホールのメニュー(『早稲田』「1967年1月1日父母号」から)

昼休みになると、学生たちは学生ホールや生協食堂、大学周辺の食堂へ。1965(昭和40)年には、西門通りに現在も続く「三品食堂」がオープンし、当時の早稲田界隈には、中華そば屋や大衆食堂など、学生向けの店が約30軒並んでいました。主なメニューは、みそ汁付きの定食をはじめ、カツライス、カレーライス、カツ丼、ラーメン、タンメン、うどん、そばなど。一食100円以内で食べられる店も多く、学生たちのお腹を満たしました。

それでも食べ盛りの学生には足りなかったのか、15時頃には授業の合間を縫ってラーメンやそばを食べ、時には友人と喫茶店へ。下宿に戻り、慣れない手つきで即席ラーメンを作る学生も多かったようです(※4)。

※4 『早稲田』「1967年1月1日父母号」から

多くの学生でにぎわう当時の学生食堂(1967年『商学部卒業記念アルバム・早稲田人』から)

南門通りの様子(1966年『商学部卒業記念アルバム・早稲田人』から)

地下鉄開通以前の早稲田中学・高等学校周辺には、老舗のそば屋「三朝庵」や菓子屋「武蔵野」、材木店や食堂、飴屋などが点在する程度でした。ところが、地下鉄東西線の早稲田駅が開業すると、駅周辺にも学生相手の店が増加。喫茶店や立ち食いそば屋が登場し、街はにぎわいを増していきました。

とはいえ、学生にとって食費は大きな負担でした。高度経済成長の一方で物価も上昇し、授業料や書籍代、下宿代などとともに生活費は年々増加。特に下宿生など自宅外から通う学生は、生活費に占める食費の割合が40%前後と高く、住居費も約25%を占めました。下宿近くの一般的な飲食店が値上がりしていた当時、100円程度でお腹いっぱいになれる学生街の食堂は、早大生の懐に優しく胃袋を支える存在だったのです。

この時代も、学生のお腹を満たしてくれるお店がたくさんあったのですね! 今も「ワセメシ」は大人気。物価高の影響で飲食費は徐々に上がっていて、昼食代で1,000円台になることもしばしば…。学生たちは工夫しながら日々のご飯を楽しんでいます。

【放課後】サークル、喫茶店、仲間と過ごす時間

サークルや研究会の募集、広告などが並ぶ当時の学内掲示板(1966年『法学部卒業記念アルバム』から)

授業が終わっても、早大生の一日はまだ続きます。1960(昭和35)年度には、今でいう公認サークルである「学生の会」が134団体、会員は合わせて1万人以上に。さらに、既存の団体に捉われず自主的に活動するサークルも増え、1965(昭和40)年末から翌年にかけて約100団体を数えました。学部や学年を越えて仲間が集まるサークルでは、それぞれが関心を追いかけていました。

活動内容も実にさまざま。交響楽団(現・公認サークル)をはじめ音楽活動も盛んで、男声合唱団のグリークラブ(現・公認サークル)は大隈庭園や甘泉園で練習し、コンクール前の大隈記念講堂横の土蔵(土壁造りの倉庫)では、夜遅くまで歌声が響きました。その他、本庄から早稲田までを歩く「100キロハイク」を生み出した早稲田精神昂揚会(現・公認サークル)や、植林を通じて人を育てるという構想を持つ思惟の森の会(現・公認サークル)など、ユニークな活動も広がっていました。

「100キロハイク」の看板前に集まった学生たち(1967年『商学部卒業記念アルバム・早稲田人』から)

課外活動を終えた後の仲間との語らいも、放課後の楽しみでした。近郊の喫茶店や飲み屋でゼミやサークルの友人と親交を深め、時には教授と学生が議論をすることも。教室を飛び出してからも、早稲田の街には学生たちが学び、語り合う時間が流れていたのです。

一日を仲間と締めくくる光景は、今もキャンパスや街に受け継がれています。

早稲田キャンパス近くにあった喫茶店前(1966年『政治経済学部卒業記念アルバム』から)

60年前から、こんなにたくさんのサークルがあったのですね! 今も複数のサークルに所属したり、アルバイトに励んだりする学生は多いです。授業やサークル終わりにキャンパス周辺や高田馬場駅周辺の飲食店で友人と語り合う様子は、今も昔も変わらずすてきな光景です。

現在の大隈記念講堂前。時代は変わっても、多くの人が行き交う早稲田の風景は今も続いています

今回紹介したのは、60年前の早稲田の学生生活のほんの一部です。早稲田大学歴史館(早稲田キャンパス1号館1階)では、キャンパスに刻まれた早稲田の歴史をさらにたどることができるので、ぜひ立ち寄ってみてください。

早稲田大学歴史館

【参考文献】早稲田大学百年史

取材・文:相澤 優太(2010年第一文学部卒)
協力:早稲田大学歴史館、淺羽 真帆(『早稲田ウィークリー』学生スタッフ)

【次回フォーカス予告】10月26日(月)公開「ダイバーシティ特集」

早稲田が分かる大学公式Webマガジン『早稲田ウィークリー』。授業期間中の平日は毎日更新!活躍している早大生・卒業生の紹介やサークル・ワセメシ情報などを発信しています。

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