Alumni's Voices

友廣 裕一 氏
2008年商学部卒
2016年に蜂谷潤氏とともに合同会社シーベジタブルを共同創業。海藻の研究・生産から新しい食べ方の提案まで、人や組織をつなぎながら新たな海藻食文化の創出に取り組んでいる。
誰かの思いを、次の一歩へ。
在野精神で歩む「人をつなぐ」という生き方
2032年に創立150周年を迎える早稲田大学。今回、150周年記念事業のアンバサダーとしてメッセージを寄せてくださったのは、合同会社シーベジタブル共同代表の友廣裕一さんです。海藻を通じて持続可能な社会を目指す現在の仕事には「人と人をつなぎ、誰かの思いを後押しする」という姿勢が息づいています。その原点は、早稲田での4年間にありました。「当時の僕には、やりたいことがなかったんです」と振り返る友廣さんに、進むべき道を模索した学生時代と、現在の活動につながる経験について伺いました。
泥臭い現場には、いつも早稲田の人がいる
──早稲田大学150周年記念事業がスタートしています。卒業生として、今のお気持ちをお聞かせください。
創立150周年、本当におめでとうございます。僕は早稲田大学の教旨「学問の独立」に通じる「在野精神」という考え方が、すごく好きなんですよね。
2011年の東日本大震災の後、宮城県石巻市や牡鹿半島の復興支援活動に携わっていたのですが、どの現場にも必ずと言っていいほど早稲田大学の卒業生がいました。人の手が必要とされるいちばん泥臭い場所で、地に足を付けた活動をしている。地位や名誉、お金のためだけではないところで動けるハートを持っている。長い歴史の中で、そんな印象を持てる校友を輩出してきた大学であることに誇りを持っています。

――友廣さんのご出身は大阪ですよね。なぜ早稲田大学を志望されたのでしょうか?
高校時代はラグビー部に所属し、真剣に競技に取り組んでいました。当時は早稲田大学ラグビー蹴球部の黄金期。大学日本一に輝くチームの活躍を見て、憧れていました。しかし、自分自身は高校のラグビー部で思うような結果を残せないまま引退。勉強も完全に落ちこぼれ状態でした。「このまま大阪にいても何も変わらない。自分を変えるためには早稲田に行くしかない」と考え、早稲田大学だけを目指して受験。一浪を経て、何とか商学部に合格しました。
――入学後は、「早稲田リンクス」(以下、リンクス)というサークルに入られたそうですね。
ラグビーは高校までで一区切りと考えていました。これから何をしようか、自分がエネルギーを注げるものに出会いたいと考えていたときに、たまたま先輩に声をかけてもらい、「人と情報の交差点」をコンセプトにした活動を展開するリンクスに所属することにしたのです。
当時のリンクスはフリーペーパーの制作、イベント開催、Webサイト運営を通じてさまざまな情報を発信しており、サークル創設当初は大学の公式ポータルサイトができるよりも先に、自分たちで授業の休講情報などを発信し始めていたと聞いています。僕自身はメディアにもインターネットにも明るくなかったのですが、先輩や同期の熱量に影響されてすぐに活動にのめり込んでいったことを覚えています。
早稲田の街を舞台に、人と人をつなぐ
――リンクスでは、どんな企画を手がけられたのですか?
1年生の時には、早稲田祭の時に大隈講堂前のステージで「早稲田ウェディング」と名付けた結婚式を開催しました。主役は、学生結婚をしたものの、結婚式を挙げる機会がなかった在学生ご夫婦。ウェディングドレスを企業協賛でお借りすることから、式でのコーラス生演奏、応援部による演舞、人力車を使ったお披露目パレードなど、いろいろなサークルを巻き込んで結婚式を演出。1,000人以上のお客さんが二人を祝福しました。あの時の幸せな賑わいは、今も強く印象に残っています。
――3年生ではサークル代表となり、キャンパス周辺の地域の人たちと大きなイベントを開催したそうですね。
当時は、学食など大学の設備が充実していく一方、学生があまり早稲田の街に出なくなり、地域とのつながりが薄れていった時期でした。しかし、大学周辺のお店をのぞくと、おもしろい人たちがたくさんいます。その存在を学生に知ってもらいたいと考え、早稲田の街プロジェクトを立ち上げました。
早稲田界隈のお店を一軒一軒取材し、店主の趣味や人柄まで紹介する独自のマップを作成。例えば、北門を出てすぐにあるキッチンミキのマスターは、大のビートルズ好きなので、学生がビートルズの話題を振ると、一品サービスを受けられるという企画(※)を実施するなど、店主と学生との交流を活性化させる仕組みを街中に埋め込んでいったんです。
(※)現在は行っていません
そのプロジェクトの集大成が、南門通り商店街を歩行者天国にして開催したイベントです。警察や地域の皆さんの協力も得て、商店街の通りを舞台に飲食の屋台が並び、各サークルが音楽やダンスを披露しました。締めくくりには応援部が登場し、地域の方々と学生が肩を組んで早稲田大学の校歌を一緒に歌い、とても盛り上がりました。
――サークルで2万部を発行するフリーペーパーのスポンサー探しのため、何百軒という飛び込み営業も続けていたとお聞きしました。その原動力はどこからきていたのでしょうか。
当時のリンクスには、「これをしたい!」という明確な思いを持つ学生が何人もいました。でも、僕は自分は特にやりたいことがなかった。どちらかというと、想いを持った人をサポートしていくのが自分の役割かな、と思っていたんです。やりたいことのある学生と、企業や地域の誰かを掛け合わせることによって、大学も街も活気づいていく。自己満足のための活動だったら、エネルギーは沸いてこなかったと思います。

――その姿勢は、卒業後の活動にもつながっているのでしょうか。
まさにそうです。抽象度を上げると、やっていることは今もほとんど変わっていません。卒業後は、「ムラアカリをゆく」と名付けた旅に出て、人の縁を頼りに日本各地の農山漁村を訪ね歩きました。旅を終えてからは、東京都墨田区で食べる人とつくる人がつながるマーケットを始めたりしたあと、東日本大震災を機に宮城県石巻市にある牡鹿半島へ。そこで暮らす漁家の女性たちとともに弁当屋やアクセサリーブランド事業を立ち上げたりしてきました。これも、誰かのやりたいという想いを、いろんな人の力をつなぎ合わせていった結果でした。気づいたら、そうやって人の後押しをすることが自分の仕事になっていました。
今、メインで取り組んでいるのが合同会社シーベジタブルでの海藻に関する事業です。アワビと海藻の複合養殖という技術について研究していた共同代表の蜂谷潤と出会い、彼の思い描いている世界を一緒に実現してみたいと考えたのがきっかけです。海藻の食用としての可能性に着目し、基礎研究からはじまり、全国各地で陸上や海面での量産を行うことで海藻食文化を守り、さらに発展させていくことを目指しています。
「自分の役割」と「豊かさ」を学んだ2つの授業
――商学部ではどのような学びがありましたか?
自分の行動の原型を作ってくれたのが、友成真一先生(現在は退職)の「自分のプロジェクトを経営する」、通称「自分経営」という授業でした。友成先生は当時の通商産業省において官僚としてマクロ経済政策に携わってこられた方なのですが、「人はミクロな1対1の関係性でしか幸せにならないんじゃないか」という仮説から、この授業を始められました。
授業では、何人かのグループに分かれ、1人につき約1時間、その人の話だけに耳を傾けます。「何をやりたいのか、なぜそれを実現したいのか」を深掘りし、ひたすらその人の夢を応援し続けるんです。自分自身のことは案外分からないもので、人に照らされて理解が深まることはよくあるでしょう。応援する側も、誰かのことを全力で考えることで、自分のことがわかってくるんです。そうしたやりとりを半年続けると、不思議なほど考えが整理され、人生が前に進み出します。
当時、自分のやりたいことが分からないことを、どこかコンプレックスに感じていました。それならばと、誰かの夢を応援すること、伴走するようなことを自分のやりたいことだと定義してみると、それが自分にすごくしっくりきたのです。だから、「自分経営」は僕にとっての伝説の授業なんです。
――もう1つ、大きな影響を受けた授業があるそうですね?
高野孝子先生の「持続可能な社会と市民の役割」です。「サステナビリティ」や「持続可能性」という言葉が気になりシラバスを調べたところ、当時、その言葉が入っている唯一の授業でした。高野先生は、無動力で北極海を横断しながら教育の現場と中継をつなぐなどしてきた環境教育家の1人で、子どもや学生たちに豊かさとは何かを伝えられています。
授業では、夏休みになると、受講生たちがミクロネシア連邦のヤップ島に滞在します。電気もガスもない集落で10日間、自給自足に近い暮らしをしてくる。朝起きたら火を起こし、2、3時間をかけてご飯を作り、食べ終わればもう昼どきです。それから魚を獲りに行き、果物や野菜も採りに行って、生きるために最低限必要なことをやっているだけで1日が終わっていきます。
――ヤップ島での自給自足の生活ではどんなことを考えましたか。
交換経済や、新たな技術を開発したくなる気持ちがわかりました。生活を効率化できれば、大切な人に何かをしてあげる余裕も生まれる。人類はそうやって進化してきたのだと腑に落ちました。ただその瞬間、「じゃあ、科学技術が進んだ日本で暮らす僕らは、ヤップ島の人たちより本当に豊かで幸せなんだろうか」という新たな問いも生まれました。
その問いを抱えながら、秋には、新潟県南魚沼の中山間地での暮らしを経験しました。そこは65歳以上の方しかいない集落で、暮らしのほぼすべてが自給自足で成り立っています。食卓に並ぶのはイノシシや鹿の肉、そして、畑で採れた野菜。「ウサギはカレーにするとおいしいのよ」とおばあちゃんが教えてくれます。「限界集落」という言葉から想像していたイメージとはまったく異なる、豊かで鮮やかな暮らしでした。自分が学ぶべきことはこういうところにあるんじゃないかと思って南魚沼に毎月通うようになり、それが卒業後の旅につながっていったわけです。
――現在のシーベジタブルでの海藻事業も、当時からの考えの延長線上にあるのでしょうか。
確実につながっています。海藻は海の栄養と太陽の光だけで育ち、魚の住処にもなって海の生態系を豊かにします。おいしいものが食べられて、地域に雇用が生まれ、生態系も回復していく。あの頃に考えていた「持続可能性」や「豊かさとは何か」に対する、僕なりの1つの答えなのかもしれません。
5万人のなかに、出会うべき人が必ずいる

――これからの早稲田大学に期待することはありますか?
余白のある大学であってほしい、というのがいちばんの願いです。早稲田の街にもいろんな大人がいて、授業以外のところで学べる環境があります。勉強以上に打ち込みたいものがあれば、そこに時間を使えるのも学生時代の特権です。
もう1つ、早稲田大学の卒業生が、緩やかにつながれる機会があれば、世の中に対してもっとおもしろいことができるんじゃないかとも感じています。稲門祭のような大きな場には足を運ばないけれど、小さな良いつながりは持ちたい。そういう卒業生は少なくないはずです。150周年の節目は、卒業生同士のつながりをつくるよいきっかけになるんじゃないでしょうか。
――「在野精神」という考え方が好きだとお話しされていましたが、友廣さんご自身も、早稲田の街から始まり、全国の農山漁村、そして現在は海へと、さまざまな現場に飛び込んで人・地域・自然をつないでいます。あらためて、早稲田での4年間はご自身にとってどんな時間だったか、お聞かせください。
リンクスやヤップ島で一緒だった仲間たちとは、人生のいろんなタイミングで縁が重なり、今も社内外で一緒に働いていたりするんですよ。早稲田で得た人との出会いは、自分にとっての大きな財産となっています。
大学院も含めて約5万人もの学生がいる早稲田大学は、ちょっとした街よりも大きな社会だと言えます。だからこそ、狭いところに閉じこもっているのはもったいない。語学の授業にピンとくる人がいなくても、別の授業やサークルに行けば、新たな出会いがあり、人とのつながりも広がっていきます。必要なのはちょっとした勇気くらい。次の社会を担っていく皆さんも、卒業生の皆さんも、ぜひ動き出してみてほしいです。
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