早稲田びと
演劇から生まれた日本初の子どもシェルター
――目の前の子どもと向き合い、社会に小さな灯をともし続ける
SETSUKO TSUBOI
坪井 節子 氏
1978年第一文学部哲学科卒
日本初となる民間の子どもシェルター「カリヨン子どもの家」を開設。社会福祉法人カリヨン子どもセンター理事、弁護士として40年近くにわたり、虐待や貧困など困難な状況にある子どもたちの声に向き合い、人権を守り続けている。
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早稲田大学第一文学部哲学科に入学し、在学中に司法試験に合格。1980年の弁護士登録後、「子どもの人権110番」での相談活動をきっかけに、子どもが抱える問題に取り組み始めた坪井節子さん。その後は、演劇「もがれた翼」の上演や「カリヨン子どもの家」の運営へと活動の幅を広げていきました。子どもをひとりぼっちにしないこと、子どもの話を親身に聴くことを何よりも大切にしながら、「そのままのあなたでいい」というメッセージを送り続けています。
「まず、聴くこと。」
子どもの一言が導いた人権擁護の原点
早稲田大学を卒業し、弁護士としてスタートを切った坪井さん。しかし、当初から子どもの人権問題に情熱を燃やしていたわけではありませんでした。弁護士会には公害、障がい者、外国人、女性などにまつわる人権問題に取り組む諸先輩も多く、「私にはとてもできない」と感じる日々。「弁護士法の第一条には『弁護士は、基本的人権を擁護し、社会正義を実現することを使命とする』と書かれていますが、まったく実感が持てませんでした」と当時を振り返ります。
転機が訪れたのは1987年。東京弁護士会が取り組んでいる「子どもの人権110番」の電話相談員の募集でした。「私も昔は子どもでしたし、今は親でもある。大人の複雑な人権問題は難しくても、子どもの人権ならわかるかもと思い、手を挙げたのです。今考えると、とんでもない思い上がりですね」と苦笑します。
いじめ、不登校、体罰、そして家庭内虐待。現場で知る子どもたちの苦しみは、大人の想像よりもはるかに深いものでした。答えを出せない相談の多さに打ちのめされ、相談員の職を辞することも頭をよぎる毎日。そんなときに、ある中学生と向き合いました。壮絶ないじめに耐えかねて自殺未遂に至った少年は、坪井さんにぽつりぽつりと何時間もかけて心の底を語り始めます。
「腹が立ったのは、教育委員会が配っていたカードに書いてあった『死ぬ勇気があるのなら、いじめに立ち向かえ』という言葉。死ぬのに勇気なんかいらない。いじめに立ち向かえないから死ぬんだ。何もしてくれない大人たちが、なぜこんな無責任なことを言うんだ」
世の中の矛盾を突く彼の話に、坪井さんは返す言葉がなかったといいます。できることといえば、親身になって真剣に話を聴くことだけ。自分の無力さにうなだれる坪井さんでしたが、話し終えた後に少年から出た言葉は意外なものでした。
「子どもの話をこんなに一生懸命に聴いてくれる大人がいるとは思わなかった」
この一言が土台となり、坪井さんは子どもたちのために立ち上がる決意を固めました。
「弁護士なのだから、何か答えてあげなければと思い込んでいたのですね。答えを先に出そうとしない。まず、聴くこと。そして、一緒に悩むこと。そこからが始まりだと気づかされました」。

演劇「もがれた翼」
架空のシェルターが、現実になるまで
決意を固めた坪井さんが次に取り組んだのは、演劇という表現でした。1994年に日本が「子どもの権利条約」を批准したことをきっかけに、子どもたちが持つ権利を広く社会に届けようと、弁護士と子どもたちが共に作り上げる演劇プロジェクトに着手。今でも続く「もがれた翼」の始まりです。大学時代に演劇研究会で芝居に没頭した経験もあり、初期の脚本のいくつかは、坪井さん自身が執筆しています。
「もがれた翼」は、少年事件や児童虐待、いじめなど、その時々のリアルな事件を題材にしています。一回きりのつもりでしたが、マスコミにも大きく取り上げられ、テーマを変えながら毎年続くことになります。そして、大きな転機となったのが2002年9月に上演した、「もがれた翼 パート9『こちら、カリヨン子どもセンター』」でした。この作品では、行き場のない子どもたちが一時的に逃げ込める「子どもシェルター」が登場します。
当時、日本に子どもシェルターは存在していませんでした。立ちはだかっていたのは、制度面の課題。児童相談所の支援対象は原則18歳未満で、特に10代後半は制度のはざまに置かれやすかったのです。加えて、親権の壁もありました。未成年の子どもを民間で保護すれば、親権侵害の恐れが出てきます。
また、財源の問題もありました。子どもは身一つで逃げてくるため、住まいや食事、医療費などの負担が発生します。坪井さんも、自身の子どもが高熱で療養しているときに助けを求めてきた少女を、どうしても受け入れられなかった経験があります。その後、その子が危険な環境に置かれてしまったことが、今も強く心に残っているといいます。「せめて安心して泊まれる場所があったら……」。その痛切な思いから、劇中に子どもシェルターを登場させました。
上演後のアンケートには「日本にシェルターがないとは思いませんでした。ないのであれば、作るべきです」という声があふれ、仲間全員が「夢を夢のままにせず、一歩踏み出そう」と一致団結しました。

立ち上げにあたっては、福祉、医療、市民、企業、弁護士と、さまざまな人々が集まり力を結集しました。子どもを中心とした多機関によるスクラム連携です。特に、法的領域の弁護士と、児童福祉領域の職員や児童福祉司が両輪で機能する意義を強く実感しています。
「弁護士だけでは、24時間子どもの傍にいることはできません。一方で、現場にいる職員や児童福祉司の方々だけで虐待者である親と対峙することは難しい。子どもの言葉をきちんと代弁する。それは、弁護士の重要な役割です」
資金はすべて寄付で賄うという、挑戦的な選択でした。新聞やテレビが取り上げると全国から寄付や物件提供の申し出が集まり、坪井さんは心の底から、「この世の中も捨てたものではないな」と実感したといいます。シェルターの名称は、「カリヨン子どもの家」。きっかけとなった演劇「もがれた翼 パート9 『こちら、カリヨン子どもセンター』」のタイトルにもなっていた、複数の鐘がメロディを奏でる楽器「カリヨン」に由来しています。
公演からわずか2年足らずの2004年6月、民間の子どもシェルターが日本で初めて誕生しました。

一人ひとりの切実な思いに寄り添い
歩み続けた40年間
現在、「カリヨン子どもの家」は、子どもシェルター「カリヨン茜の家(女子シェルター)」、「カリヨン木かげの家(男子シェルター)」、および自立援助ホーム「カリヨン夕やけ荘(女子ホーム)」「カリヨンとびらの家(男子ホーム)」へと支援を拡大。
シェルターでは、危機的状況にある子どもたちが心身の安全を確保し、多くの大人の輪の中で、自分はひとりぼっちではないということに気づき、自分の人生を自分で選ぶきっかけを得ることを目指します。自立援助ホームでは、シェルターよりも長い期間、職員と一緒に暮らしながら、生活スキルを身につけ、他者との関係性を築き直していけるよう支援しています。
すべての子どもに「子ども担当弁護士(通称:コタン)」が付くのも特徴です。その子が何に苦しみ、どのような痛みを抱えてきたのかを丁寧に聞き取り、親に対する思いを確認。子どもの代理人として親と交渉し、意見表明権(子どもの権利条約12条)を保障します。
シェルターにやって来る子どもの背景はさまざまです。非行や貧困で行き場を失った子どもだけでなく、最近は、一見すると恵まれた家庭環境でも教育虐待などに耐えかねた高校生や大学生も保護しているといいます。
「時代が移り変わり、スマートフォンの普及やSNSの台頭など、子どもを取り巻く環境は劇的に変化しました。子どもが抱える問題も表面的には変わっているように見えます。しかし、その根っこは昔も今も変わりません。子どもは命と同じくらい大切な自分の思いをなんとか言葉にして、私たちにおそるおそる差し出してくる。その言葉を、大人がきちんと受け止めて、理解し、寄り添ってくれるのかどうかを試しているのです。本当は生きていきたいし、愛されたいと願っているのです」
子どもに寄り添うようになり40年近く、時に無力感に打ちのめされながらも、歩みを止めなかった原動力はどこにあるのでしょう。坪井さんは少し考え、こう答えてくれました。
「つらい思いをする子どもが目の前にいることを知ってしまったから、としか言いようがありません。目の前にある解決すべき課題に向き合い続けた結果です」


人間の存在を見つめ続ける
法の力を拠り所に、福祉と両輪で子どもの権利を守る坪井さん。しかし、早稲田大学で専攻したのは法律ではなく、哲学でした。高校時代、プロテスタントの家庭に育ちながら「原罪」という概念に疑問を持ち、哲学書や文学を読みあさる中で出会ったのが、ニーチェの「神は死んだ」という言葉。人間の存在に重きを置く考え方に衝撃を受け、当時、日本を代表する実存主義研究者が揃う早稲田大学第一文学部哲学科へと進学しました。人間の存在意義を問う哲学と、人間の権利を守る法学は、坪井さんの奥深くで結びついていたのかもしれません。
哲学科で学んでいた坪井さんは、いつ、司法の道を志したのでしょうか。それを尋ねると「高邁な理想はないのですよ」と笑い、意外な答えが返ってきました。「後に夫となる当時付き合っていた相手が、司法試験の受験生だったのです。一緒にいる時間を減らさないために、自分も一緒に勉強して、在学中に司法試験に合格しました。当時は女子学生の就職が厳しい時代でしたから、専門職の資格を取るという現実的な理由もありましたね」
坪井さんは、「私は、自分から何かを取りに行ったことが一度もないのです」と言います。司法試験も、子どもとの関わりも、始まりは高尚な熱い想いではありませんでした。
「最初から肩に力を入れる必要はありません。ただ、好奇心を持って、常にアンテナを張っておくことは大事。偶然から始まった出会いでも、一生懸命やっていくうちに、自分の道になっていきます」
2020年、坪井さんはカリヨン子どもセンターの代表理事を退任。現在は理事として関わる傍ら、児童相談所の第三者評価業務を通じて公的機関の改善に尽力したり、全国各地で新しいシェルターを設立しようとする人々を支援したりと、次なるステージでの活動を続けています。それでも、坪井さんは「私自身が社会貢献したという自負は、全く持ち合わせていません」と話し、こう続けました。
「子どもの人権に対する意識や社会の仕組みが、少しずつ変わってきたことは確かです。それは、さまざまな立場の方々が、それぞれの場所で小さな火を灯し続けてきたから。点がつながり線となり、やがて面となって社会を覆っていく。カリヨン子どもセンターもその無数の点の一つに過ぎず、私もまた、その一つです。小さな点だとしても、一人ひとりが決して諦めずに歩みを止めないことが何よりも大切なのです」
哲学、演劇、法、福祉と、それぞれで培ったものすべてを糧に日本初の子どもシェルターを生み出し、継続させた歩みの根底にあったのは、目の前の一人の存在を見過ごさないという強い想いでした。

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当時の早稲田大学は、自由闊達な雰囲気。個性的でユニークな教授陣も多く、「何を学んでも構わない。自分の思い描く通りに、存分にやりなさい」と言っていました。そのような寛容さこそが、早稲田の最大の魅力であり、私が考える早稲田らしさです。1年生の前半は演劇研究会に所属し、自分とは全く異なる人間になりきり、他者の人生を舞台上で生き直す面白さに夢中になりました。卒業論文ではハイデガー哲学を研究し、「人間は存在の牧人である」「言葉は存在の家である」という言葉を軸に、他者の存在にどう寄り添うのか、言葉をどう受け止めるのかを考え続けていました。思い返せば、早稲田で培ったこうした経験が、のちに「もがれた翼」の舞台や、子どもたちの声に耳を傾け、人権を守る現在の活動につながっていったのだと思います。
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