【国際文学館翻訳プロジェクト特別企画】シュトラーレン市(ドイツ)の 「世界中の翻訳者から愛される家」とは?(2026/7/22)レポート
2026.08.20
国際文学館は、2024年度から「翻訳プロジェクト」を開始し、「翻訳は国境を越える翼」をキーワードに若手翻訳者の育成、翻訳文学の発展、世界各国の翻訳者の交流を目的とした取り組みを進めています。7月22日、翻訳プロジェクト特別企画として、ドイツ文学者・翻訳家で、早稲田大学文学学術院教授の松永美穂さんを招き、エッセイ集『世界中の翻訳者に愛される場所』で取り上げた「ヨーロッパ翻訳者コレギウム(Europäisches Übersetzer-Kollegium)」についてお話しいただきました。司会は、日本文学英訳者で国際文学館助手の米田雅早さんが務めました。

近年、作家や芸術家が特定の場所に一定期間滞在し、創作活動やワークショップ、地域交流などを行う「ライター・イン・レジデンス」や「アーティスト・イン・レジデンス」というプログラムの導入が広がっています。その一方で、翻訳者を対象にしたレジデンス制度はまだ少ないそう。ドイツ・シュトラーレン市にある「ヨーロッパ翻訳者コレギウム」という施設は、国籍を問わず、さまざまな言語の文芸翻訳者を受け入れ、活動を支援する、いわば「トランスレーター・イン・レジデンス」。松永さんはここを「翻訳者の家」と名付けました。
「翻訳者の家」のあるシュトラーレン市は、ドイツの西端、オランダとの国境まで3キロの場所に位置します。施設内には30室のゲストルームや共用のキッチン、セミナールームなどを備え、図書室には辞書を含めて11万冊もの蔵書があるそう。「滞在者が翻訳した本を寄贈することになっているので、どんどん本が増えていくようです」と松永さんは言います。約30カ国から年間、600人以上が利用するというこの施設。利用条件は、翻訳家として二冊以上の本が出版されていること、そして、現在進行中の翻訳の仕事を抱えていることだそう。松永さんは、滞在中、さまざま国の翻訳者と知り合い、交流されたといいます。
「ここの良いところは、共同生活をしているけれども、一人になりたいときは部屋にこもり、好きな時間に起きて、好きなだけ仕事ができることです。人としゃべりたいと思ったら、キッチンに行けばよいし、仕事に疲れたときは、街に出て散歩することもできます」。

1978年に、ドイツ文芸翻訳者連盟の代表とシュトラーレン出身の翻訳者の主導で設立されたこの施設は、ドイツの公の助成金で運営されています。利用者は週に約3ユーロの共益費を払うのみで、宿泊費などを支払う必要はありません。松永さんによれば、このように翻訳者へのサポートが手厚いのは、ドイツでは文化において翻訳がもつ重要性が認知されているからだそう。
「ヨーロッパは言語の異なる多くの国があり、特にドイツは9つの国と国境を接し、さまざまな国の人が行き来するため、翻訳や通訳の果たす役割は非常に大きいのです」。
イベントでは、参加者からの質問を交え、松永さんと米田さんが翻訳の仕事についても語りました。
松永さんが初めて翻訳した書籍は、ドイツ留学時に指導教授だったインゲ・シュテファンの著書『才女の運命』だったそうで、「この本を訳したい」と出版社に持ち込んだことで、実現したといいます。
「それまで翻訳の訓練を受けたことはありませんでしたが、何が書かれているかはわかるから、それを日本語に訳せばいいのかな?という考えで始めたところ、かなり苦労しました。文芸の翻訳は一つの本の世界観を受け取って、さまざまなキャラクターを自分の中でも作り上げ、その人たちが会話する場面などを再現します。そこでは、語学力だけでなく、想像力も要求されますが、私の場合は日本語でどう表現するかが重要で、時々、語彙力が足りないなと感じることもあります」。

米田さんが初めて英訳した本は、吉本ばななの『もしもし下北沢』でした。翻訳エージェントに声をかけられた何人かの翻訳者の中から選ばれる形で、翻訳されたそうです。
「日本語は日本国内でしか使われていないという、ある意味で特殊な言語です。そこから、世界中、どこの国でも通じる言語である英語に訳すことの意味を考えながら、翻訳しています」。

翻訳者の立ち位置が日本と他国では異なることについても語られました。
日本で出版される海外文学作品は、表紙に作者とともに翻訳者の名前が載るのが一般的です。松永さんによれば、ドイツでは翻訳者の名は奥付などに小さく載るだけだそう。これに米田さんも同意し、「英語圏の国でも、表紙に翻訳者の名前が載ることはありません。でも、最近では、文学書評で翻訳者についても触れることが増えています」と述べると、松永さんは、「書評だけでも嬉しいですよね」と、歓迎する翻訳者が多いことにも言及されました。また、米田さんは、「イギリスの文芸編集担当者はフランス語がある程度は読めるので、フランス語に訳された日本文学をチェックして、英語版を出版するかどうかを決める傾向にあります」と説明。これに対し、松永さんは、「日本の出版社がドイツの文学作品を出版するときは、英語の翻訳書が出ているかどうかが判断基準になっています」と、語りました。
その国の宗教や文化的背景から、翻訳段階で文章の一部がカットされたり、別の意味となったりするケースもあるそう。このことに関連し、松永さんが意外なエピソードを披露してくれました。
「私は、『アルプスの少女ハイジ』を翻訳しましたが、初期の翻訳書では、ハイジは、「楓(かえで)」、クララは「久良子(くらこ)」と、日本の名前になっています。明治時代の読者にとっては、人物名も文化的に大きなギャップになるので、そうした工夫がされたのでしょう」。
翻訳者ならではの知見に富んだお二人の話は尽きることなく、参加者から時折、驚きの声や笑いが起こる楽しいイベントとなりました。
(早稲田大学国際文学館 橘晶子)
松永美穂
ドイツ文学者、翻訳家、早稲田大学文学学術院教授。ベルンハルト・シュリンク『朗読者』(新潮社)の翻訳で 2000 年に毎日出版文化賞特別賞受賞。カトリーン・シェーラー『ヨハンナの電車のたび』(西村書店)で 2015 年日本絵本大賞翻訳絵本賞受賞。この他の翻訳書に、ヘルマン・ヘッセ『車輪の下で』(光文社古典新訳文庫)、インゲボルク・バッハマン『三十歳』(岩波文庫)、マルレーン・ハウスホーファー短篇集『人殺しは夕方やってきた』(書肆侃侃房)、アグラヤ・ヴェテラニー『その子はなぜおかゆのなかで煮えているのか』(河出書房新社)、ミヒャエル・エンデ『モモ(絵本版)』(光文社)など。著書に、『誤解でございます』(清流出版)、『世界中の翻訳者に愛される場所』(青土社)など。2015 年の創設時より日本翻訳大賞の選考委員を務める。
米田雅早
日本文学英訳者、国際文学館助手。川上弘美『大きな鳥にさらわれないよう』の英訳Under the Eye of the Big Birdで国際ブッカー賞最終候補。国際文学館にて日本語文学翻訳勉強会主宰。訳書にIdol, Burning(宇佐見りん『推し、燃ゆ』)、The Premonition(吉本ばなな『哀しい予感』)などがあり、黒田夏子、中島敦、尾崎翠、宮沢賢治、山尾悠子などの作品も英訳している。
【開催概要】
・開催日時:2026年7月22日(水)18時30分~20時
・会場:国際文学館地下1階
・主催:早稲田大学国際文学館
※募集時の案内はこちら
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