【国際文学館翻訳プロジェクト】ヘバ・バクルさん 滞在レポート(2026/6/1-6/30)

「国際文学館翻訳プロジェクト」は、若手翻訳者の育成、翻訳文学の発展、そして世界各国の翻訳者交流を目的として、2024年度にスタートしました。その一環として、海外の翻訳者を日本に招き、1か月ほど滞在していただきながら研究活動や講演、ワークショップを行う 「翻訳者レジデンシー」 を実施しております。今年度は公募を実施し、3名の参加者が決まりました。そのうちのひとりが、エジプト在住の翻訳者ヘバ・バクルさんです。2026年6月1日~6月30日の期間に滞在し、6月10日にはトークイベントTranslators Talk】海外に広がる日本文学 エジプト・モンゴルの場合にご登壇いただき、エジプトにおける日本文学事情についてお話しいただきました。以下、ヘバ・バクルさんの滞在レポートをお届けします。


2009年に大学で日本語を学び始めた当時、将来、日本文学の翻訳者として活動することになるとは想像もしていなかった。大学三年生のときには交換留学生として筑波大学へ留学したことをきっかけに日本文学への関心がさらに深まり、卒業後は大学院へ進学し、日本文学の研究を続けた。

修士課程・博士課程では、日本の古典文学と近代文学を研究する中で、優れた作品でありながらアラビア語にはまだ紹介されていない作品に出会った。それらをアラビア語の読者へ届けたいという思いから文学翻訳に取り組むようになり、「第1回アラブ世界若手翻訳大会」で最優秀賞を受賞したことも、翻訳者として歩み始める大きな転機となった。

現在は大学で日本文学の教育・研究に携わる一方、文学翻訳にも取り組んでいる。しかし、教育・研究に加え、二人の子どもを育てる日々の中で、日本を再び訪れる機会は決して多くなかった。

そのような中で早稲田大学国際文学館翻訳プロジェクトのレジデンシーを知った。文学翻訳者としてさらに経験を積み、多くの翻訳者と交流できる貴重な機会だと感じ、応募を決意した。採択の知らせを受けたときは、前回の留学から十四年ぶりに再び日本を訪れることができる喜びで胸がいっぱいになった。

レジデンシー期間中、最も印象に残った活動の一つが、柴田元幸先生との対談イベント「Translators Talk」だった。日本語で翻訳について話すこと、しかも日本文学や翻訳に深い関心を持つ多くの方々の前で発表することは初めてだったため、イベント当日までは大きな緊張を感じていた。しかし、この機会を単なる発表ではなく、エジプト、そしてアラブ世界における日本文学翻訳の歩みや現状を日本の方々に紹介できる貴重な機会だと考えた。これまで日本ではあまり知られていないアラビア語への翻訳や、その受容についてお伝えすることで、日本文学が異なる文化圏でどのように読まれているのかを知っていただければと思いながら発表に臨んだ。

対談では柴田先生から多くの興味深い質問をいただき、会場の参加者の皆様からも予想以上に多くの質問やご意見をいただいた。日本文学のアラビア語翻訳やエジプトでの受容に対する関心の高さを実際に感じることができたことは、私にとって大きな喜びであり、同時に、日本文学をアラビア語圏へ紹介する翻訳者としての責任と可能性を改めて実感する機会となった。

「Translators Talk」での経験に続き、レジデンシー期間中には、翻訳者同士が互いに学び合い、意見を交換する場にも参加する機会をいただいた。その一つが、米田先生が主宰されている「翻訳勉強会」である。さまざまな国や地域で活動する翻訳者が、それぞれ取り組んでいる翻訳作品や翻訳上の課題について意見を交わし、ときには翻訳途中の原稿をもとに活発な議論が行われていた。

そして、翻訳者の方々との交流を重ねる中で、今回の滞在では私にとって忘れることのできない貴重な出会いにも恵まれた。それは、村上春樹先生と直接お話しする機会をいただいたことである。参加が決まった当初は、このような機会をいただけるとは想像もしていなかったため、実際に先生とお会いできたことは大変光栄だった。

短い時間ではあったが、エジプトにおける日本文学翻訳の現状や、アラビア語翻訳についてお話しすることができた。また、村上先生はエジプトにおける日本文学の受容やアラビア語翻訳に強い関心を寄せてくださり、さまざまな質問をいただいたことがとても印象に残っている。さらに、自身がアラビア語に翻訳した作品を直接お渡しし、ご紹介する機会にも恵まれた。

さらに、私にとって実り多い時間となったのは、公式プログラムだけではなかった。早稲田大学のキャンパスそのものも、文学や翻訳について新たな発見をもたらしてくれる学びの場だった。

大学内の博物館や展示施設を訪れ、日本文学や演劇、翻訳の歴史に触れることができたほか、早稲田古書店街には何度も足を運び、さまざまな書店を巡った。日本の昔話や伝承、民話に関する書籍など、今後の研究や翻訳につながる多くの資料と出会うことができたことは、大きな収穫だった。

こうした時間を通して、翻訳したい作品を探すこともまた、翻訳者にとって大切な仕事の一つであることを改めて実感した。今回日本で出会った多くの作品が、今後の翻訳活動へとつながっていくことを楽しみにしている。

 

約一か月にわたるレジデンシーも、あっという間に終わりを迎えた。国際文学館の皆様とのお別れは名残惜しかったが、このような貴重な機会をいただけたことへの感謝の気持ちでいっぱいだった。

エジプトでは、家族や大学での仕事が私を待っている。今回日本で購入した本や資料を読み進めながら、次の翻訳作品について考えることを今から楽しみにしている。

今回のレジデンシーで得た学びや出会いを大切にしながら、これからも日本文学の魅力を一冊でも多くアラビア語圏の読者へ届けられるよう、翻訳活動を続けていきたい。


ヘバ・バクル(Heba Bakr)

エジプトのアイン・シャムス大学言語学部日本語学科専任講師。専門は日本文学・比較文学。修士課程および博士課程では日本の古典文学・近代文学を中心に研究を行い、現在は日本文学とエジプト文学・アラブ文学との比較研究にも取り組んでいる。また、日本文学のアラビア語翻訳にも携わり、国際交流基金カイロ日本文化センターとカイロ大学文学部日本語日本文学科共催の「第1回アラブ世界若手翻訳大会」にて最優秀賞を受賞。梶井基次郎、坂口安吾、小泉八雲などの作品を翻訳し、2026年1月には翻訳作品二冊を刊行、カイロ国際ブックフェアでも紹介された。教育活動においては、翻訳をテーマとした卒業研究指導にも携わり、日本文学翻訳の実践的教育にも取り組んでいる。日本文学の研究と翻訳を通して、日本とエジプトの文学・文化交流の架け橋となることを目指している。

Related