Translators Talk 海外に広がる日本文学 エジプト・モンゴルの場合(2026/6/10)レポート

早稲田大学国際文学館 助手 小磯洋光

ヘバ・バクルさん(エジプトのアイン・シャムス大学言語学部日本語学科専任講師)と、オチルフウ ジャルガルサイハンさん(モンゴル語翻訳者、モンゴル日本文学会代表)をお迎えし、エジプトとモンゴルにおいて、日本文学がどのように紹介され、翻訳され、受容されてきたのかを話していただきました。司会は、柴田元幸さんです。

ヘバさんがまず、アラビア語圏の出版事情について説明しました。アラビア語で出版された本は、一国だけで読まれるのではなく、国境を越えて流通するそうです。エジプトで読まれている日本文学も、必ずしもエジプト国内で翻訳されたものとは限らず、他国の翻訳者や出版社によるものも少なくないようです。

エジプトにおいて日本文学受容の大きな転換点となったのは、一九七四年にカイロ大学に日本語学科が設立されたことでした。それ以前は、英語など第三言語を介した重訳が主流でしたが、日本語からアラビア語へ、直接翻訳が行われるようになりました。1980年代から90年代には、川端康成、三島由紀夫や、夏目漱石の作品が盛んに翻訳されました。興味深いのは、一つの作品に複数のアラビア語訳が存在するケースです。たとえば、夏目漱石の『こころ』の場合、日本語のタイトルを音写したものから、「苦しむ人々の心」といった意訳的なものまで、異なる題名が付けられているため、翻訳者ごとの解釈の違いが反映されていると言えます。

2000年に、アイン・シャムス大学に日本語学科が設立されると、翻訳者の育成が本格化しました。卒業研究として翻訳を選択することができ、日本文学への関心はさらに高まりました。それを受けて、翻訳対象も芥川龍之介、太宰治、遠藤周作などへ広がりました。さらに、村上春樹や小川洋子といった現代作家の作品も翻訳されるようになり、『はだしのゲン』のような漫画作品の翻訳出版も行われたそうです。

アラビア語への翻訳には困難が伴います。たとえば、日本語がSOV型であるのに対し、アラビア語はVSO型を基本とするため、文の構造を大きく組み替えなければなりません。助詞、主語の省略、数の表現など、言語体系の違いは大きい、とヘバさんは言います。また、日本特有の文化や価値観をどう伝えるか、作品の余韻やテンポをどう再現するかという問題もあります。

続いて、ジャルガルサイハンさんが、モンゴルにおける日本文学の翻訳についてお話ししました。モンゴルに日本文学が紹介され始めたのは社会主義時代だったそうです。その多くはロシア語からの重訳であり、政治的な制約もあって、翻訳作品の数は限られていました。
しかし、1990年の民主化以降、社会主義体制から解放されたモンゴル社会では、外国文化への関心が急速に高まりました。欧米でもロシアでもない、身近なアジアの先進国として日本への憧れが生まれ、日本語教育も大学だけでなく小中学校で普及しました。その結果、司馬遼太郎、夏目漱石、三島由紀夫、芥川龍之介、中島敦などの作家が日本語から直接翻訳されるようになりました。

とあるモンゴルの書籍販売サイトでは、2026年6月現在、日本語からモンゴル語への翻訳書掲載数は147点に達し、そのうち文学作品は52点を数えるそうです。360万人という人口を考えると驚異的な数字です。

そうなった転機は、2010年前後に村上春樹作品が集中的に紹介されたことです。モンゴルでは文学は社会的意義や思想性を持つべきものと考えられていました。しかし、村上作品は、孤独や空虚感、現実と幻想のあいだの揺らぎを描き、そして必ずしも答えを提示するとは限りません。そういった特徴は若い世代にとって大きな衝撃でした、とジャルガルサイハンさんは語ります。特に地方から首都ウランバートルへ移り住んだ若者たちは、都市生活の孤独をよく知っており、村上作品に描かれる孤独な個人の姿に強く共感したそうです。村上春樹の作品は読者に静かに寄り添い、「そのままの個人として存在してよい」と語りかけるからだとジャルガルサイハンさんは言います。

イベントの終盤には、ヘバさんによる坂口安吾「桜の森の満開の下」のアラビア語朗読と、ジャルガルサイハンさんによる『1Q84』冒頭のモンゴル語の朗読が行われました。それぞれの朗読に、柴田元幸さんによる日本語の朗読が続きました。

質疑応答では、桜の文化的意味や『源氏物語』の受容、女性作家への関心、さらにはAI翻訳の可能性まで話題は広がりました。なかでもAI翻訳の可能性については、お二人とも、AIは有用な補助ツールではあるものの、文学作品の雰囲気や余韻、沈黙まで再現することはまだ難しいという見解を示しました。

エジプトとモンゴル。両国では、日本文学がそれぞれの歴史的背景の中で受け入れられ、独自の読者を獲得しています。エジプトでは日本語教育の発展が、モンゴルでは民主化が、その扉を開いたというのが、印象的でした

 


ヘバ・バクル

エジプトのアイン・シャムス大学言語学部日本語学科専任講師。専門は日本文学・比較文学。修士課程および博士課程では日本の古典文学・近代文学を中心に研究を行い、現在は日本文学とエジプト文学・アラブ文学との比較研究にも取り組んでいる。また、日本文学のアラビア語翻訳にも携わり、国際交流基金カイロ日本文化センターとカイロ大学文学部日本語日本文学科共催の「第1回アラブ世界若手翻訳大会」にて最優秀賞を受賞。梶井基次郎、坂口安吾、小泉八雲などの作品を翻訳し、2026年1月には翻訳作品二冊を刊行、カイロ国際ブックフェアでも紹介された。教育活動においては、翻訳をテーマとした卒業研究指導にも携わり、日本文学翻訳の実践的教育にも取り組んでいる。日本文学の研究と翻訳を通して、日本とエジプトの文学・文化交流の架け橋となることを目指している。

オチルフウ ジャルガルサイハン

モンゴル国フブスグル県出身。モンゴル国立大学文学部卒業後1993-1998年まで国費留学生制度(教員留学制度)により日本留学。1998年からモンゴル大統領府大統領補佐官をへて現在モンゴル日本文学会代表。日本文学の翻訳者として活躍中。日本文学のモンゴル語翻訳としては、司馬遼太郎、村上春樹、夏目漱石、森鷗外、中島敦、泉鏡花、岡本かの子、太宰治、芥川龍之介、三島由紀夫、室生犀星、川村元気などの作品を手がけている。


【開催概要】
・開催日時:2026年6月10日(水)18時30分~20時
・会場:早稲田大学国際文学館 地下1階
・主催:早稲田大学国際文学館

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