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末法思想を見直し平安漢学に光を当てる 森新之介 助教 (2017年2月当時)

平安中期~鎌倉初期の思想史と漢学

私はこれまで、平安時代の中期から鎌倉時代の初期までの思想史を、さまざまな視角から明らかにしようとしてきました。

最近は、特に漢学に着目しています。漢学とは、大陸から伝来した仏教以外の学問や知識、具体的には儒家を中心に道家や墨家などが混合したものを指します。当時の仏家の用語でいえば、「内教」「内学」である仏道に対する「外教」「外学」にあたります。

従来、この時代の漢学は必ずしも正しく評価されてきませんでした。実際には漢学の影響による思想などが、仏教の影響によるものと誤解されたりもしました。ここではそうした一例として、当時の歴史思想、すなわち歴史の捉え方について取り上げます。

「末法思想」に関する長年の誤解

平安中期から鎌倉初期の歴史思想というと、中学高校の日本史の授業で習った「末法思想」を思い浮かべる人もいるのではないでしょうか。

末法思想とは、簡単にいうと釈迦滅後の時代を、順に「正法」、「像法」、そして「末法」の3つに区分する仏教史観です。末法になると釈迦の教えだけが残り、修行も悟りも得られなくなるとされます。釈迦入滅は何年のことだったのか、また正法や像法はそれぞれ何年間なのかについては諸説ありますが、日本では末法初年を平安中期の永承7年(1052年)とする説が有力になりました。

従来、末法思想は平安中期から鎌倉初期までの日本社会において多大な影響力をもったとされてきました。日本史の教科書には、当時の人々が末法の到来を恐れ、仏教に救いを求めるようになったと記されています。

では、末法思想は当時それほど強く意識されていたのでしょうか。長年にわたって信じられてきたこの通説は、実は証明されたものではないのです。

「末代」と「末法」は同義語か?

もし通説のように当時の人々が末法を強く恐れていたのだとしたら、「末法」という語が史料に数多く出てくるはずでしょう。しかし、私が貴族の日記、官撰または私撰の歴史書、詔勅、天皇への意見書、朝廷への訴状、物語、説話集、仏教の教理書、詩文集、歌論書などを調査したところ、それらのさまざまな史料に「末法」という語はめったに記されていませんでした。その代わりいたるところに見られたのは、「末代」、「末世」、「世の末」、「末の世」などの語です。私たち日本人が、何か良くないことが起こった時に「今は末代だ」、「世も末だ」などと言う、あの「末代」、「末世」です。

通説を支持する研究者たちは、「末法」という語と「末代」、「末世」、「世の末」、「末の世」などの語を同義語とみなしてきました。そして、これらの語が同義語であるという仮定のうえに、通説は成り立っています。ところが、私が明治時代のものまで遡って調べてみても、そのような同義関係を証明した先行研究はどこにも存在しませんでした。

通説への反証として最もわかりやすいものは、鎌倉初期に書かれた慈円の『愚管抄』でしょう。同書はこれまで、末法への恐れを示す史料の典型とみなされてきました。しかし、「末代」や「世ノ末」などの同義語が文中に50回出てくるのに対し、「末法」という語はたった1回、「マコトニハ、末代悪世、武士ガ世ニナリ果テ、末法ニモ入リニタレバ」と出てくるだけです。ここでは、「末代悪世」と「末法」の間に「武士ガ世」が挟まれており、しかも添加の「ニモ」があります。そのため、「末代」と「末法」は同義語として扱われていないことと、重視されていたのは「末代」であり、「末法」は付け足しでしかなかったことがわかります。

「末代観」の起源

慈円の『愚管抄』以外にも、傍証はいくらでも挙げることができます。それらから導き出された結論は、平安中期から鎌倉初期において、「末法」という語と「末代」、「末世」、「世の末」などの語は同義語ではなく、しきりに、強く意識されていたのは後者だったということです(図1)。このように同時代を末代末世と見る歴史観を、私は「末代観」と呼んでいます。

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図1:当時、人々の脳裏を占めていた歴史観は末代観(「末代」、「末世」など)であり、末法思想(「末法」)はほとんど意識されていなかった。(提供:森助教)

そうなると次の問題は、この末代観の起源がどこにあったのかということになります。それはおそらく漢学、より詳しくいえば道家の思想、すなわち老荘思想でしょう。仏教が伝来する以前の大陸で成立した道家文献に、すでに衰退史観や「末世」の用例が見られるからです。

道家とその他の学派、例えば儒家などは、学派の違いから水と油のように相容れなかったと思われたりもしますが、実際は必ずしもそうではありません。本来対立するはずの学派などが互いの思想を取り込んでいくというのは、思想史ではよくあることです。末代観は、道家以外の儒家や仏家などにも共有されていき、広く浸透した歴史観となりました。

平安漢学研究の可能性

平安時代における歴史思想の基調が末法思想ではなく末代観だったとすると、従来の研究はこの時代における仏教の重要性を過大評価し、漢学の重要性を過小評価してきたことになります。平安漢学は研究の余地が大きい、魅力ある領域だと言えそうです。

『古事記』によれば、応神天皇の時代(5世紀初頭)に百済の学者が日本に『論語』などを伝えたそうです。これが仮に史実だったとしても、それより前にすでに漢籍は伝わっていたでしょう。すなわち、平安時代になると、漢学は日本で400年以上の歴史があったことになります。漢字がすっかり日本の文字になったように、漢学もまた日本の学問として定着していました。

平安時代の日本において、漢学の影響が政治や文芸などにもあったことは、日本史や文学史の研究者たちからも広く認められています。問題は、これほど影響力のあった平安漢学について、全体を俯瞰したような研究が存在しないということです。平安漢学を専門にしているような研究者も見当たりません。

これまで漢学の影響によるものだと認識されていなかった思想などが、実は漢学に影響を受けていたという例は、歴史観以外にもいろいろあると私は見ています。そうした陰に隠れた漢学の影響を論証し、平安漢学研究を盛り上げていくことが、今後の目標の一つです。

取材・構成:押尾真理子
協力:早稲田大学大学院政治学研究科J-School

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