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幻の新学部【第1回】

「農学部」と「産業経営学部」―アジア・太平洋戦争期における模索

大学史資料センター 非常勤嘱託 宮本 正明(みやもと・まさあき)

「早稲田に歴史あり」の2013年の連載は「学部の歴史」をテーマとしている。そこで記されているように、戦前期の早稲田大学には政治経済・法・文・商・理工の5学部があった。その後、新設・統合・改編・独立などを経て、現在では13の学部を擁している。その傍ら、創設が検討されながらも、さまざまな事情から、少なくとも現状においては幻のままとなっている学部もある。今回の「早稲田に歴史あり」では、もしかしたら実現していたかもしれない学部に注目し、戦時期・新制大学発足期・戦後期の3回に分けて、そうした試みのいくつかを取り上げる。【第1回】では、アジア・太平洋戦争中の動きを中心に見ていきたい。

1956年頃に構想されていた「経営学部」の配当予定科目と商学部・第一政治経済学部経済学科の現行科目との対照表(画像では「経営学部」と商学部の部分のみを提示。後掲「『経営学部』の新設について」より。大学史資料センター所蔵「大濱信泉資料」)

「農学部新設案」

1937年の日中戦争以降、高等教育で理工系の拡充を進めるという文教行政の方針の下、帝国大学・官立大学を中心に理工系の大学・学部の新設が相次いだ。その反面、文科系の学部で成り立つ私立大学の場合、戦争の長期化・戦局の悪化に伴って、文教行政から統廃合を迫られるようになる。私立大学にとっては、学校の存続が危うくなる事態を迎えていた。

この危機を乗り切るために、各大学ではさまざまな模索がなされた。その一つが、理工系教育機関の新設を目指す動きである。学部の新規開設が実現した事例は限定的で、その多くは工業専門学校・理科専門学校の新設という形をとっている。

早稲田大学は既に理工学部を有していたが、戦時中にはさらに農学部の新設が図られている。1943年6月の理事会で「農学部新設案」が協議され、同年10月の理事会で次年度の農学部開設が可決された。しかし、準備が整わなかったためか、農学部の認可申請がなされた形跡は見られない。1945年2月の理事会で可決された「研究資金募集案」には「農学部新設資金」300万円が計上されているので、断念されたわけではなく、引き続き開設を目指していたものと思われる。しかし、これは実現することなく敗戦を迎えた(『早稲田大学百年史』第4巻)。

「産業経営学部」への改称案

他方、同じく戦時中には、学部の新設にまで至らなくとも、既存の学部の名称を改める動きが見られた。早稲田大学の場合、大学統廃合問題の渦中にある1943年12月初旬、「商学部ヲ経営学部トスルコトノ案」が理事会で持ち上がっている(『早稲田大学百年史』第3巻)。

早稲田大学では、学部ではないが、日中戦争以前から「経営」を冠する学科が既に設けられていた。1935年4月より理工学部に開設された「工業経営分科」(1943年10月から工業経営学科。1996年に経営システム工学科へ改称)である。理工学部教授(当時)の堤秀夫は「この試みは米国において所謂(いわゆる)インダストリアル・アドミニストレーシヨン又はマネーヂメント或(あるい)はゼエネラル・エンヂニアリングと呼ばれてゐるものに相当する」と説明している(『早稲田大学新聞』1935年4月24日付)。

これに対し、戦時中に「経営」が登場する背景には、従来の商業教育が批判の対象とされる状況があった。文部省(当時)は商業教育について、「利潤追求、功利主義の近代資本主義観によって歪曲(わいきょく)逸脱して、皇国商業道に透徹すべき商業人育成の目的を達成し得なかつた」と指弾し、「工場管理、経営管理或は勤労管理」などに教育内容の重点を置くべきとした(『読売報知』1943年11月26日付夕刊)。そこで、代替の名称として登場したのが「経営」である。

写真①「学部名称変更ノ件」(1945年1月25日起案・1月29日決裁)。商学部から大学当局に対して学部名の変更を求める文書

商学部・商経学部・経商学部を抱える大学では、学部の名称から「商」を削ったり、学生募集を停止するなどの措置がとられたほか、学部・学科名を「経営」に改めようとする向きも見られた。早稲田大学においては、1945年1月に商学部教授会が商学部から「産業経営学部」への改称を決議し(写真①)、同年2月に学部名の改称を含む学則変更の認可申請が文部省へ提出された(写真②)。添付の「理由」書には、「世界政局ノ変転」が「自由主義的経済機構ヲ払拭(ふっしょく)シ強力ナル統制経済ヲ要求」していること、「的確ニ国家目的ヲ把握シ且産業技術ニ関シ造詣深キ経営指導者」の育成が「緊急事」であることが記されている。この申請については、文部省から正式な認可が出ないうちに敗戦を迎えたため、同年9月に大学当局から撤回の申し出がなされている(写真③)。そのため、「産業経営学部」という学部が表舞台に登場することはなかった。

写真②「認可申請」(1945年2月1日)。大学および附属高等学院の学則中、「商学部」から「産業経営学部」へ変更することの認可を求めたもの

写真③「学則変更認可申請撤回ニ関スル件」(1945年9月15日)。写真②の「認可申請」の撤回申請に関しては、別紙貼付の「願ニ依リ及返戻」(文部省、1945年10月24日)という付箋から、文部省で撤回を受理したことが分かる

農学部や「経営」を冠した学部は、戦後の早稲田大学においても、しばしば設立が試みられている。前者は敗戦直後や創立百周年記念事業の際に、後者は新制大学発足(「工業経営学部」)や創立八十周年(「経営工学部」)にあたり、その新設が検討されている(『早稲田大学百年史』第4巻・第5巻)。幻の新学部【第2回】では、新制早稲田大学の発足を巡って浮上したさまざまな学部構想を取り上げる。

「『経営学部』の新設について」の冒頭部(大学史資料センター所蔵「大濱信泉資料」)。大濱信泉が早稲田大学総長(在任1954~1966年)を務めていた1956年頃、「経営学部」新設の検討が進められていたと見られる。この文書では、ねらいの一つとして、「流通経済に重点を置く伝統の一般商業教育」から「個別経済に立つ経営専門教育」を分離し、独立した学部の下で「多方面にわたる経営担当者の教養と育成と輩出につとめる」ことが打ち出されている

(参照・引用文献)
・「学部名称変更ノ件」1945年1月25日起案・1月29日決裁、「〔自昭和19年3月至同21年4月 教務関係書類〕」所収(大学史資料センター所蔵「学籍課移管東京専門学校・早稲田大学教務関係資料」)
・「認可申請」早稲田大学総長中野登美雄→文部大臣二宮治重、1945年2月1日、「昭和19年7月起 学則認可関係書類 附設立認可関係書類」所収(大学史資料センター所蔵「早稲田大学本部書類(続)」)
・「学則変更認可申請撤回ニ関スル件」早稲田大学総長中野登美雄→文部大臣前田多門、1945年9月15日(同上)
・「各大学のトップ 工業経営科新設/経営の才ある技術者を養成/理工学部の誇り」『早稲田大学新聞』1935年4月24日付
・「(決戦譜)商業学校教育の進路/文部省文書課長伊藤日出登氏(談)」『読売報知』1943年11月26日付夕刊
・早稲田大学大学史編集所編『早稲田大学百年史』第3巻・第4巻・第5巻(早稲田大学出版部、1987年・1992年・1997年)

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