
読書する時、文字のフォントに気を留めたことがあるだろうか? 実は私は、フォントにかなり強い好き嫌いがある。例えば、数ある明朝(みんちょう)体の中でもリュウミンと精興社明朝体が苦手なのだ。リュウミンは新潮文庫に、精興社明朝体は岩波文庫によく使われているので、文学研究者としては甚だ困った事態である。
一方、同じ新潮文庫でも秀英細明朝なら大好きで、さらに1番好きなのは岩田明朝体だ。岩田明朝体は、角川文庫やハヤカワ文庫が多く使用している。海外ミステリ翻訳の老舗・創元推理文庫も昔は岩田明朝体を使っていたのだが、最近はなぜかリュウミンを使う頻度が高い。それで私は仕方なく、ここ数年は角川文庫版やハヤカワ文庫版で海外ミステリの新訳をそろえるようになっている。とはいえ、創元推理文庫でしか訳されていない作品もあるわけで、そうした場合は泣く泣くリュウミンで読むが、今一つ物語世界に没入する高揚感が味わえない。
たかがフォントで、と思われるかもしれない。しかし、文学は書かれた内容が全てでは、必ずしもないかもしれない。文章の内容を運ぶ文字の形状は、無意識に読者の感性を刺激し、その内容の理解を助けている。読者の理解度がそのテキストに受容価値を与えると考えるなら、これはかなり重要な問題になるのではないか。自分は果たして「文章」を読んでいるのか、それとも「文字」を読んでいるのか。自分の読書行為をそんな観点から捉え直してみるのも、また一つの学問への入り口なのだ。
(SK)
第1190回






