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幻の新学部【第2回】

「人文学部」「女子学部」「工業経営学部」―占領期教育改革の中の新学部構想

大学史資料センター 助教 佐川 享平(さがわ・きょうへい)

占領期の教育改革と早稲田大学

敗戦後、GHQ占領下の教育改革によって、日本の大学は、1947年制定の学校教育法に基づく新制大学へと移行する。移行の過程では、各大学が制度や仕組みの改編に取り組むことになった。早稲田大学ではその一環として、1949年4月の新制大学発足とともに、高等師範部を母体とする教育学部と、政経・法・文・商・理工の各学部で第二学部(夜間学部)が新たに誕生した。しかし、同時期には、他にも複数の新学部構想が存在し、検討に付されていた。今回取り上げる「人文学部」「女子学部」「工業経営学部」である。

文理学部案から人文学部案へ

人文学部の構想は、まず、旧制第一高等学院(3年制の大学予科)教授会の提起による文理学部設置構想として具体化する。これは、旧制第一高等学校を母体として東京大学の教養学部が設置(1949年)されたように、新制大学への移行に伴う旧制高等学校の大学・学部への昇格に対応するものであり、旧制高等学院の学部昇格を目指すものであった。1947年11月、第一高等学院教授会によって、新制早稲田大学の構想を検討する教育制度改革委員会(1947年設置)に提出された文理学部案は、同委員会で結論を見ることなく、その後、人文学部構想へと姿を変え、学部増設案審査委員会で審議されることになる。

人文学部案は、小林正之(当時、第一高等学院教務主任)が「文理学部の名で相当具体的な案をガリ版(印刷技術の一種)にして検討した記憶があります。その後さらに曲折を経、教授会と連絡をとりつつ苦心と研究を重ねて順次練り上げ、人文学部案となったのでした」と言うように、第一高等学院の教授会と、かねてより教養学部の設立に熱心だった安部民雄、伊地知純正らの教員が、文理学部案を基礎として発案したものであった。

1948年3月、島田孝一総長宛に提出された「人文学部設置に関する建議」は、人文学部の目標を次のように定めている。

「いはゆる専門教育の枠のない自由な教育を施して、豊かな教養・高い見識をもつた精神的に健全な人間を育成することを目的とする。ここにいふ教養とは単なる知識の雑然たる集積ではなく、人類の文化的遺産の摂取継承と、合理的な科学精神の涵養(かんよう)体得を意味する。これは文化的創造力の基礎であり、厳格な学問的訓練によつてはじめて獲得せられるものである。」

人文学部研究会「人文学部設置に関する建議」(1948年3月)

また、人文学部の特色として、「文化科学と自然科学の綜合・交流」を可能とし、「基礎的な学科を豊富に」、また、「自由かつ個性的な学習」に学ぶことができることなどを掲げた。

提案者たちの言葉を引けば、「各学部の割拠主義や縄張り尊重という気風」をあらためて「型にはめ込まれないものの考え方のできるような教育」(安部)を目指し、そのために、「(科目の)選択の幅を最大に認めて自由に選ばせる。要するに個々の学生が、自分の責任と知的状況ないし要求に基づいて、一人一人固有の学習体系を作ってゆくことができるように、というのがミソ」(小林)であった。

女子学部案

人文学部案とともに学部増設案審査委員会に諮(はか)られたのが、女子学部の設置案である。「女子学部(仮称)設立趣意書」は、その狙いを次のように述べる。

「日本民主化を徹底せしめんが為には女子の協力なくしてこれが完遂は期し難いものであり…此(こ)の際早稲田大学は是非とも新たなる着想に依る女子学部の創設を計らねばなりません。知性並に教養の点に於(おい)て全く男子のそれと同一水準に達する高度の女性文化人の養成が眼目であり…決して単なる職業婦人の養成を目的とせるものではなく、独立せる人格としての文化的女子社会人を造就するわけであります。」

「女子学部(仮称)設立趣意書」

この目的を達成するため、一般教養学科と専門学科に分けられた科目のうち、専門学科では、文学・哲学・歴史・宗教を根幹としながら、社会科学・自然科学についても高度な知識を教授することが構想された。

また、男女共学を基調とする教育改革の中で、女性のみを対象とする学部の設置を目指す意図について、提案者たちは、男女共学は結果的に「男子の為めの教育」に陥りやすいこと、また、性格の類似する他大学の教養学部との競合に晒(さら)される男女共学ではなく、女子学生に特化することで、「天下の才媛」を集めることができる、と説明していた(柳田泉ほか「早稲田大学女子学部設立に関する建議書」1948年3月)。

人文学部案と女子学部案の結末

こうして構想された人文学部と女子学部は、共に諸学問を分野横断的に学ぶ教養学部としての性格を有していた。一方で、人文学部案の提案者の一人である安部民雄が、「突然それ(※)が出てきたんです」、「人文学部をつぶすための手段だった」(真偽は不詳)と回顧するように、人文学部案の提案者たちにとって、女子学部案の登場は寝耳に水であった。また、女子学部案の提案者たちも、先述の通り男女共学の教養学部設置には否定的であったから、人文学部案を好意的に捉えていたわけではなさそうである。

女子学部案を指す

結局、学部増設案審査委員会は、1948年5月、人文学部と女子学部の双方に意義を認めつつも、その実現は、新制大学の開設を目前に控えた現状に鑑みて設備・教員確保の点で困難であると結論し、その旨を総長に答申した。

「学部増設審査委員会報告」(1948年6月)所収の「人文学部設置案について」、 本報告をもって、人文学部・女子学部の設置見送りが島田総長に答申された

「学部増設審査委員会報告」(1948年6月)所収の「女子学部設置案について」

工業経営学部案

この時期、もう一つ実現しなかった新学部に、工業経営学部案がある。これは、本シリーズ【第1回】にも登場した理工学部の工業経営学科(工業経営分科を1943年に改組)を、学部として独立させようとする構想であった。

理工学部教授会より教育制度研究委員会(1946年設置)に提出された「工業経営学部設立要綱(案)」は、その趣旨について、「本邦工業教育の実情は殆(ほと)んど基礎工学に偏(へん)して」いたとの反省に立ち、「今日の工業教育に於ては基礎工学と相俟(あいま)つて生産工学、経営技術を包含した工業経営学部の創設は必然の過程であり、その設立と育成とは自然科学と人文科学の包含せられている綜合大学に於て始めて行ひ得る」と説明している。

そして、具体的な目的には、「生産工学を基盤として経営技術並みに関係諸科学を修得した、教養高き技術者を育成する」こと、そのために、「学問の性質上学科制を採らず、教授の適切なる指導の下に自由なる科目の選択により努めて学生の個性を伸張せしめる様に教育する」ことを掲げていた。

しかし、教育制度改革委員会は「審議の結果、当分は理工学部の専攻科とし、一学部としての新設は寧(むし)ろ将来考慮すべきが適当」と判断し、この構想もまた、実現には至らなかった。

「教育制度改革委員会審議経過概要(自第1回至第7回)」 工業経営学部の設置見送りについて触れられている

占領期における教育改革の過程で検討された三つの新学部案は、戦後の新しい教育理念の息吹を受けつつ構想され、しかし、いずれも日の目をみることはなかったのである。

(参照・引用文献)
・「(座談会)新制早稲田大学の発足」(『早稲田大学史記要』第15巻、1982年)
・「昭和22年10月起(昭和23年3月終了)教育制度改革委員会記録 附・移行研究委員会記録 教務課」(1947~1948年、「早稲田大学本部書類(続の2)」113所収)
・「昭和23年5月起 学部増設案審査委員会記録 教務課」(1948年、同上115所収)
※資料はいずれも大学史資料センター所蔵

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