“カッコつけ”の海外文学が、不要な時代になった
- 海外文学というと、どうしても“難しい”という印象を抱いてしまう人もいるかもしれません。なぜでしょうか?
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それはおそらく、少し前の時代まで、「海外文学を読むことがカッコいい」という風潮があったからでしょう。そのステータスのために読み始めた人は良かったものの、そうでない人には「ハードルが高い」という意識が根付いてしまい、それが広がっていった。
しかし現在は、カルチャーを自由に楽しめる時代になったと思います。若い世代は、インターネットで情報を見つけながら、時代やジャンルに関係なく、好きなものを摂取していてすごいと思います。海外文学も他のカルチャーと同じで、古典でも現代文学でも、自分が面白いと思ったものが“いい作品”なんです。なので、無理やり原文で読んだりしようとせず、まずは訳文で気軽に触れてみてください。そして、もし気に入った作品や作家がいたら、どんどん追求し、頭の中で想像を膨らませていく。するといつの間にか楽しめるようになっているでしょう。もしかしたら、あなたの人生を変えてしまう一冊に出会えるかもしれませんよ。
お小遣いで買った海外文学から、研究者になるまで
- ロバート キャンベル先生は、どのように海外文学にのめり込んでいったのでしょうか?
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私が海外文学と出会ったのは、14歳のときにフランスへ旅をしたときのこと。お小遣いでフランス語の小説を購入し、フローベールやバルザックの壮大な物語に没頭していました。高校に入ってからは一転して、カミュやサルトルなどを読みあさり、個人の心理をミニマムな視点で捉え、「自分と世の中の不条理をどのように埋めるのか」を考えることにはまります。
現在専門にしている日本文学に出会ったのは、大学で日本美術を学んだときでした。絵画への理解を深めるために、日本語を学び始め、そこから日本文学の魅力に引き寄せられていったんです。日本に初めて留学した頃、三島由紀夫に熱中していたのですが、真夏に喫茶店でアイスコーヒーを飲みながら、『禁色』の文庫本を読み耽ったことがありました。東京の喫茶店は何時間いても、店主が冷たい眼差しを向けないことに大驚き。アイスコーヒーの水滴を拭きながら、時間を忘れて読書をした、幸せな体験だったことを覚えています。そんなこんなで、気が向くままに文学作品を読み続け、もはや私にとって日本文学は “海外文学”ではなくなっています。
“翻訳大国”日本は、海外文学を楽しむ最高の環境
- 海外文学の初心者は、どのようなところから楽しめばいいのでしょうか?
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最初は訳文で楽しむといいでしょう。私は翻訳の仕事もするので分かりますが、日本には優れた翻訳者が多く、レベルが高いので、それを味わわないのはもったいない。先人が苦労をして翻訳したものをわざわざ遠のけるのは、火や車を自分で発明しようとするのと同じことです。私も言語を習得していないアジアや中南米の国々の文学は訳文で読みますし、日本文学をあえて英訳で読んだりもします。翻訳にはいろいろな文化や工程、翻訳者の事情のようなものがたくさん詰まっていて、それを楽しむこともできるんです。翻訳自体を原作とは独立した作品として楽しむことができれば、読書体験がもっと魅力的になります。
登場人物と同期し、言葉を盗む楽しさ
- 原文で海外文学に触れることの楽しさも教えてください。
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原文の場合は、作品の源泉に近いところで水をくむような魅力があるので、第二外国語など、自分が勉強している言語の文学作品を読むのもいいでしょう。私はフランス語と日本語が読めるのですが、原文で読むときは、辞書を引きながらじっくりと読み進めるのが好き。仏英辞典ではなく仏仏辞典を使って微妙なニュアンスを調べたり、類語辞典で他の言い回しを調べてみたりもします。そして、学んだ意味やニュアンス、面白い表現を、頁の余白に書き込んだり、線を引いたりして、“すてきな言葉”の語彙集を作るんです。つまり、いろいろな人の声を盗むんですね。すると自分が使う言葉も豊かになっていきます。
私にとっての文学の一番の楽しみは、作中の人物とシンクロするような感覚に陥るのを体験すること。本を閉じた後に、その人物の言い方や感性が、しばらく心の中で鳴り響いているんです。それを散歩や料理をしながら、思い返したり解釈したりする。こんなぜいたくな時間は、他にありません。ぜひ皆さんも、そんな魅力ある作品に出会ってください。