
今日のインタビューはリモートで行っているのですが、執筆されている書斎をぜひ見せていただけませんか?
小川:散らかっていますが、こんな感じです。見えますか?
明るくて素敵な書斎ですね。机の上にあるのは?
小川:ミュージカル俳優の福井晶一さんの写真と、元阪神の今岡誠選手のサインボール。あとはビーバーの骨です。創作意欲をかき立ててくれますね。

ミュージカル、骨と、どれも小川さんの作品にゆかりのあるものばかりですね。この机で、数々の作品がつくられたんですね。
小川:はい。でも書いている時に私の姿を見たら、きっと多くの人が「何もしてないじゃない」と感じると思います(笑)。机には向かっているけれども、キーボードを打っている時間はとても短いんです。
キーボードを打っていない間は、ずっと物語の世界を考えていたり?
小川:「考えている」というのとはちょっと違うかもしれないですね。頭に浮かんでいるイメージをじっと観察している というか、そういう状態に近いんです。
なるほど。そうやって、これまで小川さんは数十編にわたる物語を書いてこられたんですね。小川さんは物語を読むことの意味をどのようにお考えですか?
小川:現実の生活や、人生ってややこしいことが多いですよね。他者が何を考えているのか分からないことも多くて、ときに自分と全く違う価値観の人とも向き合っていかなければならない。生きていると、そういう社会や他人の価値観に合わせたり、縛られたりする ことがありますよね。
はい。
小川:しかも、「正しい/間違っている」「美しい/醜い」「勝ち/負け」といった価値基準は、時代や場所、付き合う人によっても変わってくる。小説の世界は、そういった世の中のさまざまな価値基準をいったん無意味にしてくれます。 だから長年、このややこしい現実世界を生き抜いていくために、小説という物語が必要とされてきたのではないかと思います。
例えば、小説の中であれば殺人だって肯定されうる、というようなことでしょうか?
小川:はい。そういった、いろんな価値基準に触れられることが、小説を読むことの必要性だし、面白さの一つ ですよね。それと、もう一つは「小説は他人の事情を知ることができる」ことかと思います。
「事情」というと?
小川:おそらく 多くの人は自分なりに正しく、美しく生きたいと願っていますよね。それなのに思った通りに生きられる人は少ない。それは生きる上で何らかの事情を抱えている から。

小川:例えば、今はマスクをしない人に対して、厳しい目が向けられます。けれども、そこに至るにはその人なりの事情があるはず。そんな誰もが抱えるさまざまな事情を考えるのも、小説家の仕事です。
仮に小説を読んでいて、現実世界なら切り捨ててしまうような嫌な人物が出てきたとしても、物語の中ではなぜか「彼にもそういう事情があるのか」と認めることができる。そうすると、現実の世界に戻った時にも他者のことが理解できたり、他者の事情に想像力を働かせられるようになる と思うんです。
なるほど。
小川:それは自分自身に向けても同じです。自分を許すことってとてもハードルが高いことですが、物語の中でさまざまな価値観を体験していると、自分に対しても優しくなれる。今までよりも、少しだけ生きやすくなるんです。
だから、小説を読むことは一見、実用的でないように思えるのですが、世の中を渡っていくための心の余裕を得るためには、そういった物語が必要だと思いますね。

現代は、小説のような文学作品だけでなく、SNSやブログでもとても小さな単位の物語があふれていますよね。
小川:やっぱり 人ってそれぞれ何かしら物語を持っていて、それを誰かに語りたい生き物 なんだなあと感じます。作家だから、詩人だからというわけではなく、ごく普通の人も家族や友達に対していろんな物語を日常的に語っている。
そのための手段が増えたことも、ひとつ大きな時代の変化と言えますよね。人間が持っている「語りたい」という根本的な欲求が、世界中とつながることができて、発信もできるスマホという武器を手に入れた時に、一気に湧き出してきた のでしょう。

確かに、SNSには語らずにいられない人たちがあふれています。
小川:そもそも人間は、神話の時代から生きることを物語化せずにはいられなかった生き物 なんです。物語の力を借りることによって、受け入れ難い現実も受け入れられるし、内面の深いところにある混沌も表現できる。
SNSがこれだけ拡大し、多くの人が個人的な物語を投稿しているのは、そんな 物語ることに対する人間の本能的な欲求を証明している と思います。
ただ、誰でも簡単に物語を語れるようになった副作用として、まやかしの言葉や安易な物語も氾濫 しています。語る言葉によっては人を傷つけたり、おとしめたりすることもあるということは、自覚していないといけないですね。

そうですね。大きな問題になっています。
小川:それも、人間が「言葉」を獲得した頃からずっとつきまとっている一つの側面 かと思います。ただ言葉を一瞬のうちに世界まで届けられるスマホが生まれたことで、その意味は大きく変わってしまった。いま人間はとても危うい道を歩んでいるような気がします。
物語とともに、言葉との付き合い方もとても難しいですよね。近年「言語化」を過剰に求められる世の中になってしまった、と多くの人が感じていると思います。就職活動でも仕事でも、とにかく強くて早く伝わる「言葉」を求められ、「言語化」できる人間が優れた人間とされています。けれど、小川さんの書く「言葉」と、いま社会で求められるような「言語化」とは少し異なるような気がします。
小川:就職活動の面接で志望動機を述べたり、企画をプレゼンするような言葉は「論理」としての言葉ですよね。論理性や明快さは、言葉が持っている能力の一つだけれども、それだけが言葉の役割ではありません。 だって、平安時代の貴族に求められた言語化の能力は、美しい恋の歌を詠む能力ですよ(笑)。

恋心の言語化(笑)。言葉に求められる役割は、時代によって異なりますね。
小川:はい。だから 論理的な言葉ばかりを求められて疲弊してしまった人ほど、文学の言葉は避難所になるはず。だって、もっと多様な言葉のあり方なんですから。
では、小川さんが普段書き記している「文学の言葉」というのは、どういうものなのでしょうか? 論理的な言葉が素早く伝わり、力強く、明確に響くのとは逆に、小川さんが作品の中で書く言葉は遅くて、弱くて、はっきりしない言葉を選んでいるように感じます。
小川:そうですね。私の言葉は、時に「はっきりしろ」とか「分かりやすく説明してくれ」と批判されることもあります(笑)。ですが、そんな あやふやではっきりしない言葉でなければたどり着けない場所にこそ、真理が隠れているのではないか と思うんです。
だって人間ってそもそも、あやふやではっきりせず茫洋とした存在 です。そして、あやふやではっきりしない人間が生み出すのは、矛盾していたり、答えが出ないことばかり。そういう矛盾した状態をありのままに表現すること、肯定できることがすごく人間らしくて、豊かなことだと思います。

小川さんの目から見て、SNSなどで言葉を使う時に気を付けなければならないことはどのようなことだと思いますか?
小川:感情から距離を取ること でしょうか。SNSでも瞬間的な感情に任せて書くことによって、多くの問題が生まれていますよね。
出来事の渦中ではなく、自分から少し距離をとって自分を見つめる「もう一人の自分」を設定する。客観的にならないと言葉を書くことはできません。アンネ・フランクの場合は、隠れ家でナチスにおびえながらも、そんな恐怖と距離をとるために、キティという架空の人物に報告する形で日記を書いていました。
実は、感情と言葉というのは、とても相性が悪いものだし、危険な組み合わせ なんですよ。

むしろ言葉は感情を表現するもの、というイメージがありました。
小川:「悲しい」「怒っている」といった感情を言葉にしても、そこで行き止まりになってしまうと感じます。本当に悲しい時に「悲しい」という言葉だけでは、その感情は表しきれないので。その先にあるのは、不毛な感情のぶつかり合いしかない。だから、感情を言葉にするには、一度冷静になって「あれは何だったんだろう?」と振り返ることが必要なんです。
ものを書くっていうのは、いつもそういうことなんです。現在のことではなく、過去のことを書いている。
では、小川さん自身が作家として言語化するときに、気を付けていることはありますか?
小川:絶対に急いだり焦ったりしない ことですね。私の場合、一つの文章を書くのに、もう一人の自分が「さっさと書けばいいじゃないか」と呆れるくらい遅いんです。けれども、決して焦らずに、書こうとする世界の流れに絶対に逆らってはいけない。その世界に対して、ちゃんと呼吸を合わせていくんです。
そうして、だんだんと呼吸が合ってくると、登場人物たちの言葉が聴こえてきて、その仕草が見えてくる。そこでようやく言葉にすることができるんです。
これは、答えるのがとても難しい質問かもしれませんが、小川さんにとって言葉とはどのようなものですか?
小川:そうですねえ…。言葉は、とても不自由な道具 だと思っています。
何かの物や様子をそのまま直接言い表すことはできないし、数式のように論理を完璧に示すこともできない。だから発言したことの100%に自信を持つことも、反対に聞く側も必ずそこに論拠があると考えるのはとても危険なこと。
言葉はいつも、回りくどかったり、はみ出してしまうものです。そのように「不自由な道具」という前提を持つことで、「言葉が全て」という認識から距離を置くことを心掛けていますね。
でも、小説家はそんな不自由な道具だけを使って、仕事をしなければならないですよね。
小川:そう。じゃあなぜそんな仕事をしているのかといえば、言葉という不自由な道具を使うことで、いつか必ず「言葉にできない場所」へと行くことができる、と信じているから。
これまで多くの人が繰り返し使ってきた、手垢にまみれた言葉を。あるいは今書いているものだって、既に誰かが書いた物語かもしれない。でも、そういったものを辛抱強く積み重ねていくと、ある時ふと「言葉にできないもの」に到達することができると思うんです。
ただ、今までの作品で「言葉にできない場所にたどり着けた」と感じたことは、まだ一度もありません。 いつも最後の一行を書き終わっても、どこか終わってない感じがする。達成感も全然得られないんです。

10代の頃からずっと小説を書き続けてきた小川さんでも…。
小川:ええ。毎回違う小説を書いているけれど、実は一つの巨大な物語にずっと挑戦し続けている ような感覚があります。さまざまな入り口から入って、いろいろな攻め方をしているけれどまだ全容が見えないような、途方もなく大きな物語に。
でも最近はそれでいいんだ、という気もしてきました。一人の人間が描きたい世界、与えられている範囲は決まっているんじゃないかって。その中で十分、見たことのない風景とか、思いもよらない人物に出会えるんです。アンネだって、少なくとも日記を書いている間は、閉じられた絶望の中でも人間性を失わず、自由を謳歌できることを示してくれた。
絶望の中の自由、ですか。
小川:そう。だから、今いろんなことが制限されてしまってる学生さんや若い方にひとつ伝えておきたいのは、こんな状況でも思い掛けず光が射してくる場所や、そこにこそ広がる自由が必ずある ということ。
人間はそういうことを繰り返してきたから、きっと大丈夫。私も、そんな「大きくて素晴らしい矛盾」に出合いたくて、また次の物語を書いていきます。

- 小川 洋子
- 1962年、岡山県生まれ。1984年早稲田大学第一文学部文芸専修卒業。1988年『揚羽蝶が壊れる時』で第7回海燕新人文学賞を受賞し作家デビュー。1990年『妊娠カレンダー』(文藝春秋)で第104回芥川賞受賞。2004年には『博士の愛した数式』(新潮社)で読売文学賞、本屋大賞を受賞。主な著書に『ブラフマンの埋葬』(講談社/第32回泉鏡花文学賞)、『ミーナの行進』(中央公論新社/第42回谷崎潤一郎賞)、『ことり』(朝日新聞出版/第63回芸術選奨文部科学大臣賞)、フランスで映画化された『薬指の標本』(新潮社)のほか、『物語の役割』(ちくまプリマー新書)や『生きるとは、自分の物語をつくること』(新潮社)などエッセイや対談集も多数。海外でも高く評価されている。現在、芥川賞、野間文芸新人賞、内田百閒文学賞の選考委員を務める。
- 取材・文:萩原 雄太
- 1983年生まれ、かもめマシーン主宰。演出家・劇作家・フリーライター。早稲田大学在学中より演劇活動を開始。愛知県文化振興事業団が主催する『第13回AAF戯曲賞』、『利賀演劇人コンクール2016』優秀演出家賞、『浅草キッド「本業」読書感想文コンクール』優秀賞受賞。かもめマシーンの作品のほか、手塚夏子『私的解剖実験6 虚像からの旅立ち』にはパフォーマーとして出演。http://www.kamomemachine.com/
- 編集:横田 大、須藤 翔、裏谷 文野(Camp)
- イラスト:西田 真魚
- デザイン:中屋 辰平、林田 隆宏