カズオ・イシグロ氏のノーベル文学賞受賞を機に、海外文学への注目が高まっています。青春小説の傑作として知られる『オン・ザ・ロード』をはじめ、アメリカ文学の翻訳者である青山南文学学術院教授に、大学生にお勧めの海外文学を伺いました。
ハーマン・メルヴィル『白鯨』
大学生の読書離れが盛んに言われていますが、特に海外文学を読んでみようという学生は多くはありません。そこでまずは読むべき本に向き合ってもらおうと、授業では、ハーマン・メルヴィル(1819~91年)の『白鯨』(1851年発表/岩波文庫ほか)を取り上げています。私も大学生の時分に読みましたが、本当のところ退屈しました。ところが、今読むととても面白い。始めからこう言っては何ですが、歴史的名作に挑んで挫折したとしても、数年後、数十年後に再読するという方法もありますよ(笑)。また、八木敏雄さんの訳が読みやすいということもあります。翻訳は進化していくものなので、新しい訳を選ぶといいかもしれませんね。
あらすじは単純で、ひと言で言えば「白い鯨に恨みを持つ船長の話」です。ところが捕鯨の技術をはじめ雑学のようなことがいっぱい書かれていて、話の本筋からどんどん外れていきます。人のちょっとした動きとか、白鯨はなぜ白いのか、「白」が持つ意味などがほそぼそと記され、何を読んでいるのか分からなくなるほどです。
いわゆるエンターテインメント小説のように、プロット(物語中の出来事やその配置)が面白いだけの小説は、読んだらすぐに忘れてしまうものです。プロットの巧みさに頼らない小説の方がのちのち思い出すことが多く、心に残りますね。『白鯨』はまさにそういった作品です。発表から70年もたった1920年代、アメリカ経済の絶頂期に価値が見直されました。形式としては執筆当時に流行していた海洋冒険小説ですが、単なる海の話ではなく、神の存在、信仰の問題にも深く言及していて、アメリカ文学の一大名作として躍り出てきたのです。
ジャック・ケルアック『オン・ザ・ロード』
ジャック・ケルアック(1922~69年)の『オン・ザ・ロード』(1957年発表/青山南訳/河出文庫)も、プロットのいかんによらない優れた作品です。あらすじは、破天荒な若者がアメリカ中を車で回っているだけ。さまざまなエピソードが出てきますが、話はとっちらかっていて、まとまりがありません。しかし、どこから読んでも面白いんです。
この小説は、「ビート文学」の代表作として知られています。1950年代、アメリカは経済的にも文化的にも豊かでした。その繁栄を支えていたのが給与生活者たちで、懸命に働くのが正しい生き方という、画一化された価値観がありました。その価値観に相反する存在として台頭してきたのが、「ビート・ジェネレーション」です。ビート(Beat)とは、「打ちのめされた」という意味です。一見豊かなアメリカ社会には、そこから逸脱しているために無視され、打ちのめされてきた多くの落ちこぼれがいました。そうした人々に目を向けさせたのが『オン・ザ・ロード』だったのです。発売前から大きな話題になったこの本は、出版から60年たった今でも、世界中の若者や文化に影響を与え続けています。
ガブリエル・ガルシア=マルケス『予告された殺人の記録』
ガブリエル・ガルシア=マルケス(1928~2014年)の『予告された殺人の記録』(1981年発表/野谷文昭訳/新潮文庫)は、これぞ必読書とお勧めできます。1982年にノーベル文学賞を受け、『百年の孤独』(1967年発表、鼓直訳・新潮社)で知られる大作家の、最も良い入門書といえるでしょう。実際の殺人事件を下敷きにしていて、「あいつを殺してやる!」と予告があり、それがそのまま実行されていく。この本を読めば、この作家のすごさが分かると思いますね。文庫本で140ページ足らずながらも、何人もの人物が出てきて、同じ事件について視点を変えながら何度も何度も語っていきます。犯人も動機も被害者も全て分かっているのに、ぐいぐい読ませてしまう。やはり、小説はプロットではないと思わされます。ものすごい名人芸です。
ティム・オブライエン『本当の戦争の話をしよう』『カチアートを追跡して』
ティム・オブライエン(1946年~)は私と同世代の作家で、非常に価値のある小説を書いています。『本当の戦争の話をしよう』(1990年発表/村上春樹訳/文春文庫)は、ベトナム戦争に参加した兵士たちの思い出話やトラウマ(心的外傷)を書いています。
彼の作品には、妄執がファンタジーに変わっていく面白さがあります。人は妄執だけでは生きていけません、ふらっとファンタジーに変わることで救われるのです。オブライエンは、良い意味でも悪い意味でも戦争から逃れられない作家です。彼は大学卒業直後に徴兵され、ベトナム戦争に参加しました。そこで受けたトラウマを、小説に昇華させています。
もう一つ、彼の『カチアートを追跡して』(1978年発表/生井英考訳/新潮文庫)も、人間の極限状態を夢想的に描いた秀作です。ベトナムの戦場にいた兵士、カチアートは、ベトナムと地続きのパリに逃げようと歩き始めます。それを、部隊の兵士たちがどこまでも追いかけていくというストーリーです。あっと驚く結末は、読んでみてのお楽しみです。
海外文学のススメ
私は翻訳を多く手掛けていますが、同時代の作家の海外文学を読むようになったのは、高校生のころです。なぜ、海外文学、それも同時代のものを読み始めたか。今の大学では同時代の小説も読みますが、私が学生だったころは、授業で取り上げられるのは古典ばかりでした。翻訳も、今のようにどんどん出版されるという状況でもありません。学校では教わらなかったものが、同時代の海外文学でした。1960~70年代という激動の時代に、同世代の、それも別の国に生きている人間が、どんなことを考えているのかを知りたかったのです。そこからアメリカの小説を翻訳、紹介する仕事へと入っていくことになりました。
大学教員になり、多くの学生を見てきて感じることは、しっかりした文章を書く学生は、本、特に小説をたくさん読んでいますね。つまり、文章力を付けるには、本を読むことが大切です。とはいえ、文章を書く力は一朝一夕に身に付くものでもありません。私の『白鯨』の授業では、気に入った文章があれば書き出してみなさいと指導しています。書き写すことで、良い文章とはどういうものかが知らず知らずのうちに身に付くと考えています。本をじっくり読むことで言葉を読み取る力がつき、発言でも文章でも、言葉の使い方に慎重になるはずです。
また、本に書いてあるのは、全て他人の言葉です。どれも自分のボキャブラリーではありません。そういった意味で、読書とは対話の原型のようなもの。こんな考え方をする人間がいるのか、こんなことを人はしてしまうのか、こういったものの見方があるのかと本を通して知ったり、感じたりすることができます。今の学生を見ていると、他人と話すのが怖いと思っているようなふしがありますが、もしかしたら、読書経験が少ないからなのかもしれません。孤独な趣味と思われがちな読書ですが、実は他人との付き合い方を結果的に教えてくれるものなのです。
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