音楽、パフォーマンス、アート、果ては観光や都市開発まで、あらゆる既存のジャンルをのみ込みながらカオスな表現を生み出す母胎として注目を集めている「演劇」。批評家の佐々木敦さん(早稲田大学文化構想学部非常勤講師)とアートプロデューサーの相馬千秋さん(1998年第一文学部卒)は、その最前線を見続けながら、シーンを作り上げてきました。
現代日本の小劇場を語るにあたって欠かせない存在である2人。演劇との出合い、海外と日本における文脈の違い、そして表現を育てる「場所」の問題…。演劇をめぐり、丁々発止(ちょうちょうはっし)の議論を繰り広げます。
- 佐々木
- 相馬さんが早稲田出身ってことは知ってたんですけど、Twitterで「そーだよ、わたしはかつて早稲田に住んでたワセジョ。主に暗い記憶メインなので普段は忘れてますが笑」とツイートされていたのを見て、今日はインタビュアーみたいな気持ちで来ました(笑)。演劇活動は大学時代からされていたんですか?
- 相馬
- いえ、一切やっていませんでした。むしろ演劇が嫌いだったんです。
- 佐々木
- えっ?
- 相馬
- 高校生の頃は演劇に触れる機会すらありませんでした。でも、文学少女で作家になりたいという気持ちがあったので、大学に入学してから興味本位で演劇サークルをいくつかのぞいたんです。そうしたら、ジャージ姿で走って、筋トレをしていて、「あ、これは無理だ」と…。
- 佐々木
- 体育会系だったんですね。
- 相馬
- あと、当時の演劇が私の根暗なテンションには合わなかったんです。早稲田に入学したのは1994年。当時はまだ“静かな演劇”が一般化していなくて、特に学生演劇ではにぎやかで、ともすると大げさな演技が主流の時代でした。それが自分には合わなくて。結局、学生時代はオーケストラをやって、それが高じて現代音楽を聴くようになり、佐々木さんの主催する音楽イベントに行ったりしてましたね。
- 佐々木
- 観客として演劇を観に行くことも、あまりなかった、と。
- 相馬
- 友達に誘われて観に行くことはありましたけど、良い出合いはありませんでした。本格的に演劇に触れたのは、フランスに行ってからですね。当時は就職氷河期だったこともあって普通に就職するつもりもなく、プルースト(※)で卒論を書いて留学したんです。私たちの世代はきっと、西洋に憧れを持っていた最後の世代だと思います。
- 佐々木
- プルーストで卒論を書いたし、フランスに行くのは割と必然的だった?
- 相馬
- 初めは「文学やろうかな」ぐらいの気持ちでしたけど、リヨンという町にいると、アートはこっちから求めなくても、向こうからやってくるんです。大学のすぐ横にあったオペラ座に行けば、世界的に活躍しているダンサーで振付家のウィリアム・フォーサイス(※)の舞台を、たった1000円で観ることができる。それが日常になると、「なんてこの世界は面白いんだろう!」と思うようになって、本格的に観るようになりました。
- 佐々木
- 留学中に舞台をたくさん観たことで、帰国後にNPO法人アートネットワーク・ジャパンに入り、舞台芸術の活性化と推進に取り組む流れができていくんですね。
- 相馬
- 佐々木さんは、学生時代に演劇をご覧になっていたんですか?
- 佐々木
- 僕も全然観てなかったです。僕は相馬さんより10歳くらい年上ですけど、10代の終わりから20代前半にかけては映画ばかり観ていて、いわゆる「シネフィル(※フランス語で「映画狂」の意)」だったんです。
僕が今のように演劇を観るようになったのは、チェルフィッチュ(※)の『三月の5日間』(2004年初演)以降。ゼロ年代後半からなんですよ。相馬さんが大学生の頃に活動していた早稲田の劇団出身で、その後有名になった人はいるんですか?
- 相馬
- 同世代で早稲田からプロになったのは、ポツドール主宰の三浦大輔さん(1999年第二文学部卒)と、阿佐ヶ谷スパイダースの長塚圭史さん(第二文学部出身)。彼らは学生時代から演劇をやっていた王道の人たちです。私は全然演劇と接点がなかったから、学生時代は彼らにも出会わず、勝手にはじき出されて海外に行って、別の形で演劇やパフォーミングアーツに触れました。だから、先に入ってきたのは海外のスタンダード。その物差しで見たとき初めて、日本の演劇シーンの独特の面白さと制度的貧しさが両方見えてきたんです。
- 佐々木
- たまたまヨーロッパで観たものが人生を変えたわけですね。でも、帰国後はプロデューサーやキュレーターとして作り手を支える側に回る。自分自身が作り手になることは考えなかった?
- 相馬
- 自分は作家よりもプロデュースの方が向いているなと思っていて、フランスで勉強したのもアートマネジメントだったんです。当時はメディアアートに興味があって、そういうところのインターンに行ったり、船の上をアートスペースにする「Batofar」というイベントの制作アシスタントをやったりしていました。そこで日本から電子音楽のアーティストを招聘(しょうへい)したことがあって、即興音楽やノイズミュージックで有名な音楽家の大友良英さんと出会ったり。
- 佐々木
- ちょうど90年代後半は、映像・音響・ダンスなど、さまざまな表現手法を用いてパフォーマンスをしたアーティスト集団の「ダムタイプ」が世界へと羽ばたいていく時代でもありますよね。でも、日本の中では表現手法ごとにジャンルがセグメント化されていました。
人脈的には相互に交通があったとしても、制度的にはつながらないところがあって…。それがヨーロッパでは、メディアアート・身体表現・音楽などが一緒くたになったフェスティバルが開催されていたんですよね。
- 相馬
- そうなんです。
- 佐々木
- 僕は90年代半ばに「HEADZ」という事務所を作って、いろんなミュージシャンを招聘したり、向こうでやっているイベントをパッケージして日本に持ってきたりしていました。そのうち自分でイベントを手掛けるようになりましたが、ヨーロッパと同じようなことを日本でやろうとするとぶつかる壁があって、それがジャンルごとに閉じられている感じだったんです。
- 相馬
- 日本のドメスティックな文脈と、海外でメインストリームとされている文脈の橋渡しをする人って、90年代から2000年代初め頃までは、そんなにいなかった気がします。特に演劇に関して言うと、日本の演劇が単発で呼ばれることはあっても、太い文脈にはなっていなかった。
そこにチェルフィッチュが出てきて、2007年に『三月の5日間』がベルギーのクンステン・フェスティバル・デザールに招聘されてブレイクしていく。そこがターニングポイントですね。そのあと2009年に演劇、ダンス、美術、音楽などジャンルを横断した国際舞台芸術祭として「フェスティバル/トーキョー(F/T)」が始まって、私が初代ディレクターを務めることになりました。F/Tが世界と日本の文脈をすり合わせるプラットフォームとして機能した部分はあると思います。
- 佐々木
- 日本の文化をどうやって海外と接続するかというときに、すごく大きいのは舞踏だと思っていて。舞踏は一時期、ある種の文化商品として世界に流通して、そこで得た人脈が今につながっているところはありますよね。それこそアートネットワーク・ジャパン理事長の市村作知雄さんも山海塾の制作をされていた人ですし。舞踏によって生まれた海外との接続のきっかけが、ゼロ年代以降に受け継がれた印象を受けますね。
佐々木さんは、相馬さんが立ち上げたF/Tを第1回からご覧になっていたんですか?
- 相馬
- 2009年の第1回から、佐々木さんには観ていただいてましたよね。当時はまだ「演劇批評家」という看板を掲げてはいなかったですけど…。
- 佐々木
- いや、今でも全く掲げてないですよ(笑)。
- 相馬
- 海外のパフォーミングアーツが日本で上演される機会は当時ほとんどなかったんですけど、あらゆるジャンルを観る批評家である佐々木さんが全部観て、リミニ・プロトコル(※1)やロメオ・カステルッチ(※2)といった、それまで日本であまり紹介されていなかったポストドラマ的演劇の潮流を言語化してくださったんです。最初の年のF/Tが終わったあとに座談会を組み、佐々木さんにもご登壇いただきましたが、「F/Tとは何か」ということに言葉を与えてもらった感覚があって…。作家に限らずプレイヤーというものは、自分自身が何をやっているのか、現在進行形では分からなかったりするんですよ。そこに言葉を与えてくれる存在は、こんなにもありがたいんだなと思った記憶があります。
- 佐々木
- 僕にチェルフィッチュを紹介してくれたのは、日本パフォーマンス/アート研究所を設立した小沢康夫さんでした。小沢さんはきっと「ふだん演劇に触れる機会のない人たちにどうやって興味を持たせるか」をかなり意識的に考えていらしたんだと思うんです。ドメスティックなシーンの閉鎖性をどう打開するのか、を。
ただ、外側から興味を持った僕からすると、たとえ呼ばれて観に行ったとしても、面白くなければ足が遠のくはずですよね。ところがゼロ年代後半以降の日本の演劇環境はすごく刺激的だった。だから、いろんな形で演劇に関わっていくことになったんだと思います。今振り返ると、ゼロ年代の終わりは極めて重要な時期で、あの頃に胚胎したさまざまな可能性が芽吹いた部分と、芽吹き切らなかった部分がある。それがテン年代の終わりに差し掛かった今の状況じゃないかと思います。
- 相馬
- チェルフィッチュ以降の日本の現代口語演劇の流れと、海外のポストドラマ演劇の潮流がぶつかったとき、それ以前から存在していたけれど可視化されていなかったものが一気に花開いた気がします。高山明さんが主宰するPort B(※1)がまさにそうですけど、当時はツアーパフォーマンスなど新しい試みが「これは演劇ではない」とののしられたけれども、10年後には一般名詞のようになりました。
- 佐々木
- マレビトの会(※2)の松田正隆さんもそうですけど、どんどん演劇じゃなくなっていった人たちが、今すごく元気ですもんね。
- 相馬
- そのあとに震災がきて、「今ここで演劇をすること」の意味がすごくシビアに問われて。2011年のF/Tは、震災から半年しかたたない中で、それまで準備していた全てのテーマを切り替えました。
カステルッチと、飴屋法水さん(※1)には、第五福竜丸が展示されていた夢の島公園で上演してもらったり、翌年にはエルフリーデ・イェネリク(※2)の特集をしたり、震災への応答を私たちなりに全力で形にしたんです。
- あのときの衝撃をもとに今も作品を作り続けている同世代のアーティストに対して、いま若い人たちは、今どこを向いているんだろうと、さっき早稲田大学演劇博物館の「現代日本演劇のダイナミズム」展(※)を観ながらぐるぐる考えましたね。
先ほど名前の挙がったチェルフィッチュが活動の拠点としてきたのは、東京というよりも横浜です。それは主宰の岡田利規さんが横浜ご出身だということもありますが、それ以上にいくつか小劇場があり、相馬さんが初代ディレクターを務めた「急な坂スタジオ」があったことが大きいように思います。同スタジオは、舞台芸術を中心とした幅広い芸術活動の創造拠点になっていますよね。
- 相馬
- 横浜は当時文化芸術創造発信拠点形成事業に取り組んでいて、いわゆる「クリエイティブシティ」の先駆けだったんです。2004年に「BankART Studio NYK」がオープンしました。続いて2006年に立ち上がったのが「急な坂スタジオ」です。市営の結婚式場だった場所を、稽古場を中心とした文化芸術の拠点に転用しようということで、私が最初のディレクターをやらせてもらうことになりました。
東京でも同じ時期に廃校活用の先駆けとして、豊島区の中学校だった建物を演劇やアートの拠点として活用する「にしすがも創造舎」がオープンしています。行政とNPOが組んで、WIN-WINのことを仕掛けようという流れがあったんですね。パフォーミングアーツでは稽古場が必要だけれど、圧倒的に足りていない。行政の側からすると、使われていない場所を貸せば何かが起きて、しかも人が集まってくる。お互いお得なことでもあったわけです。
急な坂スタジオも、そのような流れの中で始まった、と。
- 相馬
- はい。急な坂スタジオではレジデンス・アーティスト制度を作り、チェルフィッチュ、ニブロール(※1)、中野成樹+フランケンズ(※2)が優先的に使えるアーティストとしてスタートしました。そうこうするうちに、私はF/Tのディレクターを務めることになったので、急な坂スタジオのその後の発展は2代目ディレクターの加藤弓奈さんが作ったものです。そこで木ノ下歌舞伎(※3)やマームとジプシー(※4)が作品を作り、この5年、10年で日本の小劇場界を支える重要な演出家になっていきました。
佐々木さんは批評家として演劇に携わるだけではなく、三鷹で「SCOOL」というスペースをダンス批評家の桜井圭介さんと共同で運営しています。それはなぜですか?
- 佐々木
- 場所を作ることは、昔から考えていたんです。「場所」というのはすごく重要で、何かの発信源にもなるし、別に自ら発信しなくても外からやってくるものの入れ物にもなる可能性がある。さっき横浜の話が出ましたけど、関東で生活しながら演劇やパフォーマンスを観ていると、横浜という場所が持っている豊かさや先進性というのは、東京とは比較にならないほど違っているわけです。
東京における文化・芸術の可能性を考えるとき、そこにはいろんなファクターがあるけど、一つは場所だと思うんですね。2020年の東京オリンピックに向けたさまざまな動きの中でなくなってしまったスペースが結構ある。SCOOLは小さいスペースですけど、そこで何かができるというのは重要だと思っているんです。2017年、北千住にオープンした「BUoY」というスペースも、決して使い勝手のいい場所ではないはずなのに、すさまじい勢いでいろんな人が使っている。僕もHEADZの企画で飴屋さんのお芝居をやらせてもらいました。
- 相馬
- 『スワン666』ですね。観に行きました。
- 佐々木
- これから場所の問題はますます重要になってきます。今僕たちがいるこの早稲田小劇場どらま館(※)も、せっかく建て替えたんだから、もっと活用した方がいい。
- 僕が早稲田の客員教授だった頃は、どらま館を作るための評議委員会に入っていました。由緒もあるし、スペックの高い劇場だから、可能性を秘めていると思うんです。宮沢章夫さん(※劇作家・演出家。早稲田大学文学学術院教授)が芸術監督になったことで、それが加速するといいな、と。僕自身も、何らかの形でこれからも関われたらうれしいです。
- 相馬
- 今の佐々木さんの話を聞いて、100%共感するんです。やっぱり「場所」なんですよ。2000年代に新しい創造の拠点になっていたのは、行政とNPOが共同して立ち上げた場所でした。でも、にしすがも創造舎(2016年に事業終了)やBankART(2018年に事業終了、のちに移転が決定)はなくなってしまいました。そして、SCOOLやBUoYといった個人が立ち上げたスペースが新たな表現の磁場になっていった。
行政が「ここはもう使えません」となった瞬間、場所はなくなってしまう。そうすると、NPOが借金して投資したあらゆる設備はどうなってしまうのか。行政と組んでも蓄積していかない東京という極めて困難な場所で、佐々木さんや桜井さんはインディペンデントに身銭を切って、血を吐きながら…。
- 佐々木
- 身銭を切っているのは事実ですけど、血は吐いてないです(笑)。
- 相馬
- (笑)。シーンを作るため、上の世代の人たちが身銭を切って場所を運営されているのは、本当にすごいし、尊敬します。そこに若くて才能のある人たちが集まって、安い金額で場所を使って、何かが起きていく。ヨーロッパだと、こういう循環を当たり前のように行政が作るんですよね。それがシティ・プロモーションにもなるし、街のダイナミズムにもつながるわけですから。
でも、日本にはまだそういったコンセンサスが形成されていない。今の東京でインディペンデントに何ができるだろうと考えたとき、「小さくても場所を持つ」というのは無限の可能性を秘めていると思います。あるいは、物理的に場所を持てなければ、あらゆる場所をテンポラリーに演劇の「コモンズ(共有地)」にしていく。
- 佐々木
- まさに相馬さんが「シアターコモンズ」でやっていることですね。
- 相馬
- そうですね。私が2017年から始めたシアターコモンズは、日常生活や都市空間の中で「演劇をつかう」ことで、「来たるべき劇場/演劇」の形を提示し、都市に新たな「コモンズ(共有地)」を 生み出すプロジェクトなんですね。
きっと、やり方には二つの方向性があると思うんです。フィジカルな場所を持つ佐々木さんたちのようなやり方。そして、フィジカルな場所を持たない代わりに、余っている場所を徹底的に使い倒す私のようなやり方。シアターコモンズはいろいろやっているように見えて、場所代はほぼゼロ円なんですよ。行政や諸外国の文化機関が持っている、劇場ではないスペースをフレキシブルに貸していただいて、テンポラリーな劇場にする。そういう風に発想転換しました。これも都市の中でサバイブしていくための戦略だと思っています。
- 佐々木
- 2020年の東京オリンピックの後にどうなるか。真面目に考えれば考えるほど、未来は明るくないわけです。この先にも行政と組んだり、文化的な助成金を得ていくってこともあり得るとは思います。僕は世代的にそういうことをしてこなかったけれど、10歳若ければ、きっとそうしているでしょう。
ただ、そういうものに頼りすぎてしまうと、それがなくなったとき、どうするのか。文化・芸術にこだわりを持っているのであれば、サステナビリティをどのように構築するのかが重要です。今後サバイバル時代になっていくことを考えると、相馬さんのやり方には刺激を受けますし、ある意味では場所を持つやり方と補完的になっていくのかなと思います。
- 相馬
- 制度の中で能力を発揮できる人もいるけれど、シーンはそれだけでは成り立っていないし、インディペンデントが健全に成立する都市こそが輝いていく。今はインディペンデントが抑圧されている時代です。けれど、その中でも東浩紀さんのように「ゲンロン」(※)という会社を自ら立ち上げ、歴史的なシーンを作り上げている人もいます。 ただ、東さんが今体調を崩されていますが…、一人の人間が犠牲になって維持することの限界も明らかです。佐々木さんがおっしゃったように、どうやってサステナビリティを築いていくか、みんなで考えなければならないと思います。
- 佐々木 敦(ささき・あつし)
- 1964年生まれ。批評家。早稲田大学文化構想学部非常勤講師。1995年に編集者の原雅明と「HEADZ」を設立。海外ミュージシャンの来日公演を主催し、音楽雑誌『FADER』やジャンルレスな濃縮雑誌『エクス・ポ』の編集・発行を行う。芸術文化の諸ジャンルを貫通する批評活動を行っており、『新しい小説のために』(講談社)、『筒井康隆入門』(星海社新書)、『未知との遭遇(完全版)』(星海社新書)、『あなたは今、この文章を読んでいる。』(慶應義塾大学出版会)、『批評時空間』(新潮社)、『シチュエーションズ』(文藝春秋)、『即興の解体/懐胎』(青土社)、『ニッポンの思想』(講談社現代新書)など著書多数。
- 相馬 千秋(そうま・ちあき)
-
1975年生まれ。アートプロデューサー。立教大学現代心理学部特任准教授。早稲田大学第一文学部卒業。リュミエール・リヨン第二大学院修了。国際舞台芸術祭「フェスティバル/トーキョー(F/T)」初代プログラム・ディレクターを務めたのち、NPO法人・芸術公社を設立。2017年より「シアターコモンズ」実行委員長兼ディレクターに就任。演劇、美術、社会関与型アートなどを横断するプロジェクトのプロデュース、キュレーションを国内外で多数手掛ける。2018年より「あいちトリエンナーレ2019」舞台芸術部門のキュレーターも務める。
シアターコモンズ’19
2019年1月19日・20日、2月22日-3月13日、東京都港区エリア各所で開催。
https://theatercommons.tokyo/演博の開館90周年を記念した企画展の図録『現代日本演劇のダイナミズム 現代日本演劇のing』。本特集に登場した佐々木さん、相馬さんが寄稿されるほか、文学学術院教授で早稲田小劇場どらま館芸術監督の宮沢章夫氏、演劇ジャーナリストの徳永京子氏による論考や、劇作家・演出家である佐藤信氏と「ゲッコーパレード」代表の黒田端仁氏の対談、書評家・豊崎由美氏と劇団ロロの主宰・三浦直之氏の対談など、そうそうたる面々が名を連ねる。
https://www.waseda.jp/enpaku/publication/7759/
- 取材・文:橋本 倫史
- 1982年生まれ。『en-taxi』(扶桑社)や『マンスリーよしもとPLUS』(よしもとクリエイティブ・エージェンシー)に寄稿し、ライターとして活動を始める。2007年、リトルマガジン『HB』を創刊。2019年1月下旬、筑摩書房より初の著書となる『ドライブイン探訪』が刊行される。また、「Web本の雑誌」にて、建て替えが予定されている那覇市第一牧志公設市場を取材した「市場界隈」(http://www.webdoku.jp/column/shijo/)を連載中。
- 撮影:加藤 甫
- 編集:萩原 雄太、松本 香織、横田 大(Camp)
- デザイン:中屋 辰平、PRMO