Waseda Weekly早稲田ウィークリー

中島・八木元主将が振り返る箱根駅伝2011 早稲田はなぜ勝てたのか

わずか21秒差 史上最も僅差だった劇的箱根駅伝

大学三大駅伝のクライマックス、第95回東京箱根間往復大学駅伝競走(箱根駅伝)がいよいよ近づいてきました。しかし、2018年の早稲田大学は10月の出雲駅伝が10位、11月の全日本大学駅伝は15位と苦戦が続いています。直近で早稲田が総合優勝を果たした2011年の箱根駅伝で、なぜ早稲田は勝てたのか。当時の歴代最高タイム、10時間59分51秒を記録した強さの秘密は何だったのか。

今回、話を聞いたのは同大会で4年生の駅伝主将としてアンカーを務めた中島賢士さん(2011年スポーツ科学部卒。九電工社員)と、3年生ながら競走部全体の主将として9区を走った現役マラソン選手の八木勇樹さん(2012年同学部卒)の二人。八木さんがプロデュースするトレーニング施設「SPORTS SCIENCE LAB」にて、2011年の3冠達成の要因を探るとともに、早稲田が力を出し切るために必要なことを聞きました。

18年ぶりの総合優勝、そして大学駅伝3冠達成を果たした2011年1月の箱根駅伝を振り返っていただきたいと思います。大会3連覇を目指していた東洋大学を2位に抑え、早稲田大学が1位でゴールテープを切りましたが、その差はわずか21秒。史上最も僅差の結果ということで語り草です。お二人はその最後の2区間、9区から10区の襷(たすき)をつないでいます。どんなことを考えながら走ったのでしょうか?

八木
当時、12月の集中練習のときから僕はなかなか調子が上がらず、自信を持ってスタートラインに立てなかったんです。にもかかわらず僅差の戦いになって、走り出す前は心理的にもかなりの不安がありました。レース中も、15km以降で少しペースが落ちてしまって、後ろを走る東洋大との差が詰まってきているのは感じていました。アンカーの中島さんにつなぐにあたって、少しでも差を保った状態で渡さないといけない。そんな思いで頑張りました。

9区を走る八木さん(早稲田大学競走部)

その頑張りがあって、八木さんは区間2位。ただ、追いかける東洋大が区間賞の走りで結果的には差が詰まって10区へ襷が渡りました。アンカー中島さんのスタート前の心境は?

中島
えずいてましたね(笑)。アップのときに八木が1分以上離してくれていると聞いていたので大丈夫かなと思っていたんですけど、アップから戻ってきたら差を詰められていて、余計に緊張しました。ただ、そこで焦って最初から飛ばして後半バテバテになってもいけないと思い、自分の中では抑え気味に入っていきました。実際には、5km、10kmと自分の想定より良いタイムで通過していたので調子がいいのかなと思いつつ、でも、後ろはどんどん詰まってきているので怖かったです。

最終的な差が21秒。この差は、走っている選手はどのように感じるものですか?

中島
最後はずっと後ろを見ながら走っていました。途中、渡辺さん(※渡辺康幸 当時の競走部駅伝監督)が発破をかけるためか、本当は20秒以上差があったのに「もう15秒しかないよ」と声をかけてくれたんですが、沿道をバイクで走る知らないおじさんが「後ろと20何秒だよ」と途中何度も教えてくれて(笑)。「あれ? どっちが本当なんだろう?」と思って(笑)。結局、ゴールが見えるまで勝利は確信できませんでしたね。
八木
スピードランナーだったら15秒くらいの差はもう射程圏内。ゴールで待っている僕らからしても、最後まで見ていて怖かったです。渡辺さんもいつもはゴールの3kmくらい手前で車を降りてゴール地点に向かうみたいなんですけど、もうギリギリまで乗っていて、ゴールは車の中でしたよね。
中島
そうそう。ゴールしても監督はいなくて、僕が胴上げしてもらって解散しかけたころにようやく合流できて(笑)。

中島さんと抱き合う渡辺元監督(共同)

選手たちが待ち構える中でゴールテープを切ったときの気持ちは?

中島
正直、終わった! という安堵(あんど)感しかないです。もう少し差がついていれば感慨深いものも出てくるんでしょうけど、そんな余裕もなく「あぁ終わった…、よかった」と。
八木
優勝できて本当にホッとしたというのが一番。とにかく1位と2位では全く違うんです。僕らが1年生のときは総合2位だったんですが、そのときは「箱根駅伝で2位のチームってこんなに落ち込むの!?」と感じるほど負け感が強くて、それくらい優勝しか狙ってなかった。ただ、その経験があったことで、「2位じゃ意味がない。何が何でも中島さんに少しでも差を広げた状態で襷をつなげないと」という心境でした。

どの区間を担当するかが分かったのはいつ頃ですか?

中島
僕はもう当落線上だったので、出られるとしたらアンカーじゃない? という感じで(※)。

※ 最終区の10区は選手にとってプレッシャーのかかる区間で、エースという存在ではない主将や、けがなどで調子がよくないエースが起用されることがよくある。
八木
僕も直前だった気がします。1週間を切ってからかな。でも、駅伝って結構直前に決まるもので、自分も1年生のとき、4区の予定だったのが直前で7区になる経験をしていたので、ある意味で慣れていました。あっ、あのときも僕ら7区・8区で襷リレーでしたよね。
中島
そうそう。8区の僕の区間で東洋大に抜かれて、そのままゴールまで行ってしまった苦い記憶があります。だから、2011年もこれで抜かれたら、もう八木のせいにするしかないかなと(笑)。
八木
僕は1年で入学したときから中島さんと寮が同部屋で、私生活も含めてさまざまなことをフォローしてもらっての襷リレーでしたね。食事などもずっと一緒だったので、最後に襷リレーができて無事に優勝できたのはすごく良かったなと思いますね。
駅伝って本当に何が起こるか分からない

往路・復路全体を通しても振り返ります。あの年は、区間賞が1区の大迫傑選手(当時1年)だけ。それでも優勝できた勝因はどこにあったと思いますか?

中島
もともとあの年のチームは個々のレベルが高かったので、おのおのがしっかり準備をすれば、結果もおのずとついてくるはず、という気持ちでした。だからといってチーム力をおろそかにしていたわけではなく、僕ら4年としては、力のある後輩たちがその実力をしっかり発揮できるように、いかに走りやすい環境を作ってあげるか。体育会特有の上下関係はなく、いいのか悪いのかは別として何でも言い合える仲でした。
八木
振り返ってみるとそこにすごく助けられたと思います。中島さんが寛大に接してくれていたので、僕らは割と思ったことをバンバン言えました。4年生は4年生で、下の学年から言われている危機感みたいなものも恐らくあって、そこがうまく混ざりながら、下の1、2年生が割と自由にやっていましたよね。
中島
下の代は実力もあったけど、キャラも濃すぎ(笑)。一学年下の八木もそうですけど、その下の佐々木(寛文・当時2年)、大迫に志方(文典・当時1年)もいたので。その中で4年生として言えることは、長距離というのは頑張ってすぐに自己ベストが出るという競技でもないので、まずは練習からちゃんとやっていこうと。練習というのは手を抜いていれば見て分かりますし、一生懸命やっていれば伝わるものもありますから。

早稲田のいいところというのは、1、2年生で花が開かなくても、しっかり努力を重ねて3、4年生で箱根を走ってチームに貢献するという姿。そういった姿を僕らの代も見せてあげないといけないよね、というのは学年の中でも話をしていました。やっぱりいい伝統は引き継いでいきたいですから。

佐々木さん(左)は全日本4区で区間1位、志方さんも同5区で区間1位(当時区間新)だった(早稲田大学競走部)

実際、あの年は5区・6区の山登り・山下りの難所を、箱根初出場の4年生(5区:猪俣英希選手、6区:高野寛基選手)が力走しました。

中島
それだけ4年生は下級生よりも長い距離に対する練習を積み重ねていますから。それと、箱根に関しては出雲・全日本で優勝に貢献してくれた佐々木と志方が故障で出られなくなってしまい、これはどうしようかと心配したのですが、1、2年生が出雲・全日本で頑張ってくれた分、4年生の最後の意地を見せられたのは良かったと思います。ただ、最後の表彰式で佐々木も志方も泣いてましたよね、走れなかった悔しさで。
八木
それくらい調子も良かったし、2人とも全日本では区間賞と快走していましたから。だから、チームとしてはその分をしっかり頑張らないといけないなというのもありました。勝った後で振り返ってみると、戦力ダウンして意気消沈することもなく、いい意味でも危機感・緊張感が生まれたことが結果的には良かったのかなと思います。駅伝って本当に何が起こるか分からない。チーム力とか、そういった目に見えない要素も重要だなとあらためて感じます。

2011年の箱根駅伝往路スタート直後。1年生だった大迫選手が早くも集団を引っ張る形に

2011年の大会は、出雲・全日本と勝ってきて、3冠がかかった箱根駅伝も優勝候補に挙げられていました。一方、大会3連覇を狙う東洋大には5区に「山の神」柏原竜二選手(※当時3年)という絶対的な存在がありました。ライバル校、相手ランナーの存在はどのように意識していましたか?

八木
僕は柏原さんと同学年で、2年のときには5区を担当して直接対決もしています。あの年はトレーニングも順調に積めていたので正直、力負けしていない自信があったんです。それが速攻で…山に入る前の箱根湯本でやられてしまって。
中島
秒殺だったよね。
八木
そう、秒殺されて(笑)。箱根って結局、5区がすごく重要で比率が高く、タイム差も出やすいんです。僕の代の4年間は、東洋大が3回勝って、早稲田が箱根で勝てたのは2011年大会の1回だけでした。

でも、柏原さんという絶対的な存在が相手にいたからこそ、僕らは平地で最初から行くしかない。それがハマったのが3冠を達成した年だったと思うんです。渡辺さんとしても、5区に柏原さんがいたことによって、結果的に戦略が立てやすかったのもあるかもしれません。

ただ、2011年大会でも、5区で力走した猪俣さんが柏原選手に抜かれ、往路2位という結果でした。その結果は当時、どのように受け止めましたか?

柏原さんと競る猪俣さん(共同)

中島
いえ。もう万々歳だと思いました。猪俣はよくやってくれたと。もっと差がつくかもしれないと思っていましたから。
八木
僕らの中ではタイム差が開いたというよりは、むしろ最小限にとどめたという感じでした。結局、1区で大迫があそこまで独走するとは思ってなかった。あんなに飛び出すというのは気持ちの強さも含め、圧倒的な力がないと無理なんです。それを1年生でやってのけたのが大迫です。あれがなかったら僕たちは勝てなかったと思います。

1区で独走し、区間賞を獲得した大迫選手(共同)

中島
そして、2区の平賀(翔太 ※当時2年)も良かった。
八木
東洋大は1区で焦ったと思うんです。それが結局、往路が終わってもそこまで差がつかず、僕らとしても「復路でイケる」と気持ち的に戦える状態でした。前年度は5区で僕が完全にやられて、かなり差がついてしまったんです。もうあとは東洋の背中を追うどころか、普通に復路を走るだけという感じだったので…。

それが2011年大会では往路で粘った結果、復路も6区から抜き去る展開につなげられた、と。

八木
6区の高野さんは、実はもともと5区の山登り候補で、ずっとそのトレーニングをしていたんですが、3年次まで出場機会がなかったんです。それがよくよく見たら…、下りの方が速そうなんですよ。
中島
そうそう。マネージャーに「高野ってどこが速いの?」と聞いたら、「意外と下りが速いかも」と。で、実際に下りの練習をさせてみたら、案の定、速かった。

転倒のアクシデントがありながらも、6区で東洋大を追い抜いた高野さん(共同)

八木
ちょっと遅れましたよね、高野さんの適性に気付くのが。
中島
3年かかったからね(笑)。
八木
試してみたら「え…、イケるやん!」みたいな。だから高野さんはずっと下りのトレーニングをしていたわけではないんです。それでも最後の箱根の舞台で会心の走りをしてくれて。
中島
途中、滑って転んだりもしたけど、よく堪えて走り切ってくれたよね。個人的には、自分と同じスポーツ推薦で入った同期の高野が最後にようやく走ってくれたので、うれしかったですね。
主将が発する一言一言が少なからず影響を与えていく

あの年は、「箱根で勝つ」という目標だけでなく、「大学駅伝3冠」というプレッシャーもあったかと思います。事前にその部分で監督から発破をかけられた部分というのはありましたか?

八木
特に3冠、3冠と強く言われていたわけじゃないんですけど、例年よりも質の高いトレーニングが夏合宿でできて、出雲・全日本の二つに勝って、そのくらいからですかね?
中島
渡辺さんはもともと、「箱根は勝つんだ」というのは毎年言っていたことで、具体的に「3冠」と言い始めたのは、大迫・志方が入ってきて彼らの走りを見て、他の戦力を考えると普通に走れば勝てるチームだぞ、というのを感じていたからじゃないでしょうか。そして、いつも苦手にしていた出雲でようやく勝てた。そのくらいから、3冠もいけるのかなと思い始めた気がします。

お二人は共に主将を経験されたわけですけれども、主将を経験したからこそ学んだこと、感じたことは?

八木
僕が入ってきたときの主将は竹澤さん(健介 ※当時4年/北京五輪男子5000m・10000m代表)で、完全に背中で見せていくタイプ。みんなが憧れる存在であり、常に結果を出し続けていたので、すごい先輩だなと。一方で中島さんは、先ほども言いましたけれども、僕らのわがままも受け入れながらまとめてくれるタイプの主将。そして、駅伝優勝という結果も残しました。必ずしも「これが主将像だ」というものはないんだと思います。その上で、僕が一番力を注いだことが、「競走部全体を一つにする」ということです。

あこがれの主将だった竹澤さん(早稲田大学競走部)

具体的にはどんなことを?

八木
僕らが入学したころって、あまり長距離の選手と短距離の選手は、同じ競走部の中でもほとんど交流がなくて、お互いのタイムがどうなっているかも分かりませんでした。それだと応援のしがいも正直言うと、ないんですよね。でも、中島さんは短距離の選手とも仲が良かった。僕はそういうのも見てきたので、それがもっともっと浸透すればいいなと思っていたタイミングで、3年生の10月くらいに僕が競走部全体の主将になったんです。

その流れで、短距離と長距離の交流が増えてきた。そうなると、お互いのタイムのことも分かるようになって、チームとして盛り上がってきたなという感覚がありましたね。主将が一人で何かをできるわけではないですけど、周りに与える影響というか、チームの士気がどう変わっていくか、というのはやっぱりあると思います。

実際、それが結果にはつながりましたか?

八木
僕が4年のときは、関東インカレと全日本インカレの両方で総合優勝できました。そこはすごく良かったですね。僕自身も関東インカレ1500mで優勝するなど個人的な記録は残せたのですが、駅伝に関してはけがばかりで一度も走れず、主将としての責任も感じました。

2011年、総合優勝時の記念写真。2019年の箱根駅伝でも選手たちの笑顔は見られるのか?

八木さんは中島さんから学んだということですが、中島さんが主将として感じたことは何でしょうか。

中島
周りからの目が変わる、ということですね。見られているということは常に意識していましたし、自分の言動が周りに与える影響というのも少なからず大きくなってくると感じていました。実際、ちょっとした声掛けで変わる選手もいたので、自分が発する一言一言が少なからずチームに影響を与えていくのかなと思いました。

ちょうど選手たちは、箱根直前の集中練習に入っている時期かと思うのですが、元主将として後輩に何かアドバイスはありますか?

中島
主将だけではなく竹澤さんや大迫のようなキーマンの存在も大事です。今のチームにはそういう選手がいないから、ちょっと流れが悪くなったときに、全日本のようにボロボロになってしまうところがある。

だからこそ、12月の集中練習はいいきっかけになると思います。そこでしっかりと自信がつくようなトレーニングができたときに、選手たちの意識が変わって、それがチーム全体に波及して盛り上がっていけば、1月2日・3日は変わった早稲田が見られると期待しています。
プロフィール
中島 賢士(なかしま・けんじ)
1988年、佐賀県生まれ。株式会社九電工勤務。2011年早稲田大学スポーツ科学部卒業。早稲田大学競走部2010年度主将。4年連続で箱根駅伝に出場し、最後に出場した2010年度大会では10区走者を務め、総合優勝のゴールテープを切った。卒業後は九電工陸上部に所属。2014年に陸上部を引退し、現在は九電工 東京支社社員。
八木 勇樹(やぎ・ゆうき)
1989年生まれ、兵庫県出身。株式会社OFFICE YAGI代表取締役兼プロランナー。会員制トレーニング施設「SPORTS SCIENCE LAB」プロデューサー。2012年早稲田大学スポーツ科学部卒業。早稲田大学競走部2011年度主将。駅伝3冠、関東インカレ・日本インカレ総合優勝の5冠という史上初の快挙を達成。卒業後は旭化成陸上部に所属。2014年のニューイヤー駅伝では、インターナショナル区間の2区で日本人歴代最高記録を更新。2016年6月に旭化成を退社し、株式会社OFFICE YAGIを設立。「YAGI RUNNING TEAM」を発足し、自身の競技力向上とともに市民ランナーのサポートも行う。
取材・文:オグマ ナオト
2002年、早稲田大学第二文学部卒業。『エキレビ!』『野球太郎』などを中心にスポーツコラムや人物インタビューを寄稿。また、スポーツ番組の構成作家としても活動中。執筆・構成した本に『福島のおきて』『爆笑!感動!スポーツ伝説超百科』『木田優夫のプロ野球選手迷鑑』『高校野球100年を読む』など。近著に『ざっくり甲子園100年100ネタ』『甲子園レジェンドランキング』がある。
Twitter: @oguman1977
撮影:石垣 星児
編集:早稲田ウィークリー編集室
デザイン:原田 康平、PRMO


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