「君たちは怒りを感じないのかとか、これでいいと思ってるのか、とか、ホント毎回うるさいよな」
「今の学生はおとなしすぎるって言われてもな」
エレベータに乗り込んできた二人は話し続けている。
「自爆テロをする若者だっているんだぞって、じゃ、まずお前がやれよ…」
二人は少し笑い、そしてちらりとこちらを見てから黙った。
おそらく授業の中で、教員がまた「煽(あお)った」のだろう。私は学生時代を思い出し、ああ、まだ同じようなことをやってるんだ、と嘆息をつく。それにしても自爆テロとはひどい。特攻を賛美するのと同じじゃないか。
別の学生からこんなことも聞いた。ある科目は、試験答案に政府批判を交えておけば、まず悪い成績はこない、だからきちんと「政府批判」を準備しておく、と。
教員は学生に対しては権力者である。単位を握っているからだ。もちろんそれは社会から見れば、学校の中でしか通用しないチンケな権力だが、しかし学生はそのチンケな権力のケチな支配から逃れることはできない。だから、たいてい黙っている。時には権力者である教員に「忖度(そんたく)」して笑ってあげる。それは同時に憫笑(びんしょう)でもある。
あまりに醒めた見方だろうか。しかし、学校という制度が、教員学生間の圧倒的に非対称的な関係を前提として成り立っていることは、疑いようもない事実である。そのことを一時も忘れてはいけない、と思いながら教壇に立つ。だからこそ、そのような権力構造から自由になった卒業生からお誘いがあると、とても嬉しい。いそいそと出かける。
(A)
第1024回