Waseda Weekly早稲田ウィークリー

コラム

認容表現との付き合い方

この冬はたくさん雪が降った。

ところで、書いた原稿を読み返すのは大切である。慣れてくると、ある程度の方針があらかじめ立ってくる。翻訳の場合はとにかく、「私」だの「彼」だのといった、人称代名詞を削っていく。論文の場合は、認容表現を間引きする。

ここでいう認容表現とは、「たしかに〇〇ではあるが」、「たとえ〇〇であるにせよ」、「むろん〇〇ということもあるが」、などのことを指したい。留保的な表現とか、否定的な表現とも言える。

ドイツ文学研究の大先輩でもある古井由吉は、あるエッセイの中で、現代の書き手は「何かの欠如を語るにはかなり長(た)けている」が、とかく「断定」を避ける傾向にあると述べていた。

断定を避けること。それは無定形な現実に対する正確さへの良心ゆえかもしれない。あるいは、物ごとを相対的に見ることが世間的に頭の良さの指標となっているせいかもしれない。ただでさえ、文学作品の読み方には答えがないといわれる。どんなふうに読んでも、それと矛盾する別の根拠が、どこかに見つかってしまうものだ。

十年くらい前に「決断主義」という言葉が流行(はや)った。最近では、「反知性主義」や「ポスト真実」などの言葉をよく耳にした。そうしたご時世と戦う「知性」は、ますます認容表現に頼らざるをえなくなるだろう。

論文を書く動機は、反論をあらかじめ封じ込めることにも、自分の頭がいいことを示すことにもない。論文は、過去の知見を整理し、読者を新しい認識へと導くために書く。道は歩きやすいほうがいいし、行き先はわかりやすいほうがいい。

人を家に招いた雪の日に、玄関前の雪かきをしながら考えたことでした。

(J. K.)

第1016回

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